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カーテンごしに、ほんのりと空に色が付いてきた気配を感じる。もう少しすれば小鳥たちのにぎやかなさえずりが響いてくるだろう。
私は音を立てないようにそっとベッドから降りて、隣のベッドで静かに眠っているアカリの顔をのぞき込んだ。一晩中眠れなかった私と違って、最低限の睡眠はとれたようだ。
もうすぐ起床時間だ。朝のお祈りの時間に遅れるわけにはいかない。私がここですべきことは一つしかなかった。
「アカリ、おはよう、起きてちょうだい」
自分の口にした台詞が、あまりにも記憶中のゲームの台詞と一致して、一瞬背筋が震えた。
ここはゲームの中なのだろうか。私が十六年生きてきたこの現実が? すべてが誰かによって決められた世界だというのだろうか?
「うぅ~ん……」
眠たげなアカリの声で、私は我に返る。
どうであろうと、結局今は、自分がするべきことはこれしかないのだ。
もう一度、今度はアカリの方を掛け布団越しに軽くたたきながら、言った。
「アカリ、起きて。もう、朝よ」
「え……あ……」
アカリの目が開き、戸惑ったようにあたりを見回した。私と目が合う。不安げに瞳が揺れた。
「あ……クララ……?」
そこにいるのは、突然異世界にやってきて、見知らぬ場所で朝を迎えた、孤独な少女だ。その心細さがあふれる顔に、私の胸は急に、ぎゅっと掴まれるように痛んだ。先ほどまでの葛藤は一瞬でかき消えた。ゲームだろうとなんだろうと、アカリにとっても私にとっても、ここはただの現実でしかないのだ。
私は精一杯の笑顔を作って、アカリにささやいた。
「おはよう、アカリ。朝だよ」
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修道院での一日の生活は、広間でのお祈りから始まる。
「とりあえずは膝をついて、手を組んで。司教さまが合図をするまで、目を閉じていればいいの」
ささやくようにアカリに説明すると、戸惑ったような顔で首を傾げる。
「何にお祈りをするの?」
「ここは、私たちの国が奉っているラーダ神に仕える者の修道院なの。私たちはその神さまへの感謝を捧げるけど――アカリは、この世界に来たばかりだかりだし、元の世界で信じていた神さまもいるんじゃないの? だから、格好だけ真似していれば良いと思うわ」
最後の方は、周りに聞こえないように声のトーンを落とした。最近では一般国民のラーダ神への信仰心がどんどんと薄れてきているとはいえ、他の神の話を口にするのは少し危険だ。
アカリは小さく肩をすくめた。
「私の家はブッキョウだったけど、正直、神もホトケも、あんまり真面目に信じてなかったかな」
前世の私も確かそうだったな、とぼんやり思っていると、祭壇の前にこの修道院の最高位である司教さまが現れる。それまでひそひそと雑談に興じていた広間の女子たちが一斉に口をつぐんだ。
「おはようございます。神の元に生まれた、聖なる乙女たちよ」
随分な老齢にも、まだ私たちの父母よりも若いようにも見える女性の、厳かで人を惹きつけずにいられない、不思議な声音が響きわたる。
「昨日からこの院に、新たな仲間が加わりました。アカリ嬢」
司教の視線がアカリの方へ向けられる。「アカリ嬢」などと呼ばれることに未だ慣れていないのだろう。アカリがぼんやりしているので、隣で小声で呼びかけた。
「アカリ、司教さまが、あなたを呼んでるわ」
「ふええっ?!」
素っ頓狂な声を上げて、思わず立ち上がるアカリの姿を見た女子たちが、その様子に緊張がゆるんでくすくすと笑い出す。
「静かに! アカリ嬢は、このラトア王国の外から事情があってこちらの修道院に身を寄せられました。慣れないことも多いと思います。みなさん、しっかりと助けてあげてくださいね。アカリ嬢、みなさんに、ご挨拶を」
「あ、は、はい! えーっと、タケノ・アカリと、申します。みなさん、仲良くしてくれると、嬉しいです!」
溌剌と、周りの女子たちを見回しながらそう言いきったアカリの姿に、司教は少し戸惑いを見せながら、咳払いをした。
アカリが悪いわけではない。転校生が高校の教室で自己紹介をしろと言われた場合なら、完璧な展開だっただろう。
「えー、それでは、朝のお祈りを始めます」
司教は私たちに背を向け、巨大な祭壇に向かい合った。
「もう、座って良いわよ、アカリ」
小声でそう言って、服の裾を軽く引っ張る。腰を落としたアカリが、少し不安そうに私を見つめる。
「私、なんか変なこと言った?」
「ううん。元気で笑顔で、好感が持てる挨拶だったと思うわ。ただ――ここは良いところのお嬢様が子女教育のために来ているのが大半だから、あんな元気いっぱいの自己紹介は、ちょっと珍しかったのかも」
「えー、うそ、そうなの!? なんか恥ずかしい……」
「そちらの方、私語が聞こえますよ、お祈りが始まります、しっかりと神へお心を捧げなさい」
司教さまとは別の「先生」からお言葉が飛んできて、私たちは慌てて、両手を組み、目を閉じた。
司教様の謡うような聖典の朗読が、広間に響きわたって、その振動が私たちを包み込む。不思議な力が身体の中に入り込み、染み渡っていくような、そんな感覚がする。
ラーダ神は、ラトア王国がこの地に打ち立てられる前から、この地を守ってきた、人には及ばぬ特別な存在だ。ラトアの王は、流浪の果てにこの地へたどり着き、ラーダ神に仕え、時にはラーダ神をお守りし、それと引き替えにこの地を人が治めることをお許しいただいた。
これが我が国の興りとされる。
ラーダ神は、この地と、この地に住む私たち人間に「ご加護」を与えてくれる。大地には神の祝福と呼ばれるエネルギーが恵まれ、私たち人間には、魔法の力が与えられる。
とはいえ、魔法というのはすべての人間が自由に使えるものではない。神を信じ、それを神に認められ、そしてそのような、本来は人智を越えた不思議な力を己のものとして操る特別な才能を持った者のみが、この修道院や士官学校で正式な教育を受け、魔法を使う権利を得られるのだ。
「さて、お祈りが終わった後は、掃除の時間なんだけれど――」
アカリを次の日課へ案内しようとしたところで、背後から人影が現れた。
「アカリ嬢。その前に、魔法指導の教室へ来ていただけますか。クララ嬢も、おつきあいください」
アカリが司教さまの言葉に目を丸くする隣で、私はただ黙ってこの先の展開について考えていた。