20
日中は暑くも寒くもない過ごしやすい季節だが、マルロさまの言うとおり日が落ちると途端に肌寒くなる。
「段差があります、気をつけてください」
フェリクスさまが、慣れた仕草で、手を差し出した。いつも、馬車を乗り降りするときに使用人にされているのと同じことなのに。そこに自分の指先を置くのにすらとてつもない勇気がいる。
心臓が早鐘のように打っている。
――だめだわ、私。こんなことになるなら、もっと社交界で殿方に慣れておけば良かったのに。
――平常心、平常心……。
自分に言い聞かせながら、フェリクスさまの手を取る。
意識を取り戻してほしくて必死に握っていたあのときとは違う、生きている人間の肌の温もりがある。私のものとは違う、少し硬さを感じる皮膚の感触に、男性らしさが宿っている。
なんとかあからさまな動揺を見せずに済んだ、と思いながら、ふと顔を上げると、至近距離で目があってしまう。薄暗い屋外でも明るいブラウンはよく見える。どこまでも冷静で、無表情にも思えるフェリクスさまに、どう考えても自分が一人で舞い上がっていることを自覚する。
ピューリオ家の庭園は広く、草木がよく手入れされていた。石畳の通路に等間隔で並べられた灯籠の優しい光が、色鮮やかな花を照らしている。
目の前のことで頭がいっぱいになっている自分の意識を逸らしたくて、その花々を見渡した。
「あ……薔薇ですね」
フェリクスさまが私の視線を追い、小さく頷いた。
「秋咲きの薔薇です。我が家の庭園は、冬以外の季節は常に薔薇の花が咲くようにいくつかの品種を植えていまして」
あの夜に見た、夢を思い出した。私の母のお気に入りだった薔薇園。幼い頃、フェリクスさまと一緒に遊んだあの薔薇園も、そうなっていた。無邪気に笑い、私の名前を呼んでくれた、あの頃の少年の姿が脳裏をよぎる。
ゆっくりとそこへ歩み寄っていく。ほとんどがまだ蕾のようだった。濃緑の、鋭い棘を持った枝葉が、かたく口を閉ざしている蕾たちを守っている。
「咲くのはあと半月ぐらいでしょうか」
「そうですね、いつも少し涼しくなってくるぐらいの時期に……」
そこまで言いかけて、フェリクスさまは、おもむろに自分の上着を脱ぎだした。
重みのあるジャケットが、そのまま、ふわりと、私の肩にかけられた。
「気づかなくてすみません、寒いでしょう」
「あ……ありがとうございます」
薄い布地越しに、フェリクスさまの温もりの残渣を感じる。
優しくジャケットを私に羽織らせると同時に、ふいに、彼はそのまま、私の前でひざまづいた。
「フェリクスさま……!?」
「クララ嬢」
片膝を地面につき、頭を下げる。騎士の最上級の礼だ。傍目に見たことはあるが、自分がそれを取られたことはない。長身の彼の頭が自分の目線より遙かに下方にある奇妙な感覚。
「この度は、私のために自らの身を危険にさらしてまで……この命を救ってくださり、本当に、感謝いたしております」
「や、やめてください、そんなの」
「国を守る立場にありながら、クララ嬢を危ない目に合わせてしまった、自分のふがいなさを痛感しています」
淡々とした口調に一瞬、悔しがるような色が混じった気がした。きっと彼は真面目な人で、私のことでひどい罪悪感を抱いてしまったのだ。とても申し訳ない気分になった。
「顔を上げてください、フェリクスさま。未熟なのは私も同じです」
「クララ嬢……?」
私の言葉に、彼は不思議そうな顔をして顔を上げた。
「一人で、思い通りにできると思ったのです。自分の力を過信して、危険を冒してしまいました。あと……」
少し言葉に迷ってしまった。自分を抱きしめるように腕を組んで、かけてもらったジャケットの端をきゅっと握る。
「……思い上がって、自分に酔っていました。自分を犠牲にすることが、正しいのだと……」
「――!」
私の言葉に、フェリクスさまの整った眉がわずかに動いた気がした。
「でも、それでは、残された人が傷つきますよね。してはいけない選択でした。そのような教えは修道院でも受けていません。誤った道を行こうとした私に、ラーダ神はつかの間の苦しみと、もう一度正しくやり直す機会を与えてくれたのだと思います」
フェリクスさまが深く考え込むように視線をさまよわせ、しばらく言葉を選ぶように沈黙した。
「……チューイン子爵夫人からもお聞きしていましたが、クララ嬢は、本当に、信仰に篤いのですね」
「え……ええ……そうですね……」
近頃、方々でそのような誤解があったが、夜会でも会話のきっかけになったし、あえて否定はしない方がいいのかもしれない。
「それより、その、もう、お立ちになってください」
促しても、フェリクスさまはまだその体勢から動きそうになかった。どうしたのかと思うと、急に、右手を出してくる。
「……?」
そっとその手のひらの上に、私の指先を乗せる。その瞬間、ごく優しいかすかな力で、しかしそれから絶対に逃れられないような強さで、急に引き寄せられる。
指先に、フェリクスさまの唇が触れたのだと気づくのに、たっぷり十秒はかかった。
「え、あ、え!? フェ、フェリクスさま、い、今のは……」
「ラーダ神がお導きになったのは、クララ嬢でした。そして、私を誤りから救い、お導きになったのは、クララ嬢なのです」
「いや、え、そんな」
そんな大げさな捉え方をされるとも思わず、あまりに居心地が悪い。一向にフェリクスさまが膝を着いたままなので、私は思い切ってその目の前に腰を下ろした。
「クララ嬢、そんなことをしてはドレスが」
「フェリクスさまに、お願いがあるのです」
「お願い……?」
私は頷く。
「私への罪悪感は、捨ててください。私の未熟さが招き、すでにラーダ神がお許しくださったことですから。でも、私は――命を懸けたくなるぐらい、あなたのことを心配しているのだということは、覚えていて欲しいんです。どんなに危険な状況でも、諦めたり、自分を犠牲にしようとしないで欲しいんです」
立ってください、と、軽く促すつもりで、フェリクスさまに手を伸ばしかけると同時に、優雅な仕草で彼は再び起立した。
「あ、あの、命懸けで心配というのは、変な意味ではなくて、その大切な、幼なじみとして……ですね、」
「幼なじみ」
「えっと、幼なじみって言っても、なんだか……変ですね。本当に小さい頃一緒に遊んでたぐらいで……フェリクスさまなんてすっかりもう、あの頃とは別人なぐらい大人になってしまって……それに比べて私はあの頃のまんまですけど」
「そうは……思いませんけどね」
「えっ?」
「その……」
先ほどまで、割と冷静沈着な雰囲気だったフェリクスさまが、なんだかとても困ったように言いよどんだ。
「クララ嬢はあの日……夜会の最中にこちらに駆けつけて下さったと聞きましたが……」
「えっと……はい」
あまり話題にしてほしくない話だ。浮かれたパーティドレスで飛び込んだ部屋で、命の危機に瀕していたフェリクスさまを目にし、強い自己嫌悪を抱いたものだ。
「その……夜会というのでは、男女が踊ったりもするでしょう。クララ嬢にも、お誘いがあったりするのですか?」
「あー、いえ? あの日は会場でお会いした辺境伯令嬢と話が盛り上がって、ダンスは結局誰とも……」
「そう……ですか」
考えの読みとれない横顔をじっと見つめているうちに、背筋に急に寒気が走って、くしゃみが出た。
「すみません、寒いですよね、病み上がりなのに……そろそろ、中へ……」
「あ、はい、長々つきあわせてしまって、こちらこそごめんなさい」
そこからはまた、あまり話題も見つからず、二人無言で屋敷内を歩く。フェリクスさまは、私にあてがわれた客間の前まで付き添ってくれた。
「おやすみなさい、フェリクスさま」
軽く礼をすると、フェリクスさまも軽く礼をする。
「おやすみなさい、クララ嬢。それと――ありがとう」




