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はやる気持ちを抑え、私は頭を無にするよう必死になりながら、フェリクスさまの手を握る自分の手に力を込めた。そこでは確実に、魔力が何らかの反応をしている。
もはや時間の感覚もなくなるぐらい、ただただそうしている内に、徐々に変化が表れた。
フェリクスさまの体のなかを循環していたらしい闇魔法が、手をつないでいる私の方にも流れてこようとしている。
「うっ……」
医師や父は気づかなかったのだろうか。修道院で光魔法の属性を増長させた私には、対立する属性の闇魔法のエネルギーを感じると強い不快感を覚える。フェリクスさまを害しているのはまさにこの闇魔法の力だし、彼もラーダ神の光の加護を受けているはずだから、通常の人間よりも強いダメージを受けている可能性が高かった。
自分の手のひらに流れ出てきた闇魔法のエネルギーに、光魔法をぶつけて消滅させる。
猛烈な体力を消費していた。心臓がつぶされるような衝撃、血の気が引いてふらふらする。
――修道院で毎日鍛錬していた頃なら、ここまでの消耗はしなかったかもしれない。最近、屋敷での生活でたるんでいた……。
目の前でフェリクスさまが苦しんでいるのに。こんな風になる危険な日常を過ごしていたのに。私がその間に少しでも努力をしていれば、今、もっと力になれたかもしれないのに。
奥歯をかみしめながら、懸命に「浄化」を続ける。脂汗がにじみ、背中を滴るのを感じた。
部屋は恐ろしく静かで、息の切れてきた私の荒い呼吸音がやたらと響いていた。時間の感覚がなくなってくる。
早く闇魔法を完全に取り去らないと、フェリクスさまの身体が「負け」てしまうかもしれない。夜が明ける頃が限界だろうか。あとどれぐらいだろう。
窓の外を見ようとして、もはや首を動かす力も失っていることに気づいた。部屋が暗いと思っていたが、血の気が引いているせいで自分の視界に光が入っていないだけだ。
――お願い、あと少し、持ちこたえて、私の身体……!
――神さま。偉大なるラーダ神!
胸の内で祈りを唱えたそのとき、指先に、今までの魔力のエネルギーの流れとは違う感覚が走った。
「う……」
うめくかすかな声で私は我に返る。
「……フェリクスさま……!」
手をしっかりと握り直そうとして、それすら困難なほど自分も疲れ切っているのを再認識する。
なんとか目を見開くと、フェリクスさまの瞼がふるえているのがわかった。
「フェリクスさま、しっかりしてください!」
「……ク……ララ嬢……?」
掠れる声で私の名が呼ばれる。それだけで急に頭の中がしびれるような衝撃が走って、これまでの苦難も葛藤も一瞬で無になる気がする。
「はい、クララです。わかりますか?」
「ここは……」
「王都のピューリオ邸です」
辛うじて薄く開けられた目で辺りを見回しているようだ。
「他の……みんなは……」
魔物討伐のパーティメンバーのことだろう。そういえば、どうしてフェリクスさまだけがここにいるのだろうか。気が動転していて、そもそもどういう事情でこんなことになっているのか、何も把握できていなかった。
「それは……」
迷った私が言葉を選んでいる間に、切れ切れの声で、それは問われた。
「アカリは……無事なのか……?」
「――!」
過剰な魔力の消費で熱くなっていた身体が、急に冷え切ったような感覚だった。ひゅう、と思わず息を吸い込み、そのまま呼吸ができなくなる。
届けばいくらでも触れられる距離で、今にも死にそうな顔をして、私ではない女の名を口にした彼は、私の答えを待たずに、再び気を失った。
握りしめていた手から、力が抜けていく。目覚めてもらうために声をかけるべきなのに、名を呼ぶべきなのに、私も、もはや全身のどこにも力を入れることができなくなっていた。
視界が完全に暗闇になる。轟音と共に意識が保てなくなる。
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気づいたとき、私は太陽の下にいた。
まぶしい青空、深い青に真っ白な雲がところどころに模様を描いている。
そよ風がふいて、私のスカートの裾を、さっきメイドに結ってもらったばかりなのに解れてきてしまった髪を、なびかせた。心地よい暖かさだった。
ここは、フォアティルト家が有している領地の館の庭だ。幼少期を過ごし、修道院に行ってからは長い間帰れていない場所。
私は辺りを見回す。視界がおかしかった。すぐに違和感の理由がわかった。
「クララ」
懐かしい声の主を見上げる。
美しい女性が、思い出のままの、どこまでも優しい笑顔で私を見つめている。
「おかあさま」
また風が吹いて、母のドレスの裾をなびかせた。目の前ではためいたそれを、私は反射的に握った。
母は私が七歳のときに死んだ。その母が、小さな私を見下ろしている。
――これは、夢? 私が小さい頃の、思い出を、夢に見ているの……?
「クララ、フェリクスさまが呼んでいるわよ」
その声に私は反射的に辺りを見回す。
「クララー!」
小さな男の子の声がした。広い庭に、母が作った薔薇園は、幼い頃、私たちの格好のかくれんぼの舞台だった。豊かに枝葉を延ばしみずみずしい蕾を湛える薔薇の木の陰から、美しい少年の影が見え隠れする。
「フェリクス!」
私はただ夢中でその影を追いかける。私が追い始めたと気づいたフェリクスが急いで駆け出す。私は幼い頃から彼の影ばかりを追いかけている。
薔薇園に足を踏み入れた瞬間、急にぐらりと足下が不安定になり、眼前の光景が傾いだ。
思わず目をかたく瞑る。自分が転んだのか倒れたのかもわからないまま、目を開けると、ついさっきたどり着いたはずの薔薇園は跡形もなく、全く別の光景が広がっていた。
――ここは……森……?
青い葉を茂らす木と、枝に枯れ葉をぶら下げる木、葉を落としてしまっている木が混在している。季節は晩秋なのだろうか。
見覚えのない場所だ。フォアティルトの領地でもないし、修道院の裏手にあった森もこんな風景ではなかったはずだ。土の様子、木の生える様子を観察する。木々の間から見える空の色は鉛色をしていた。
――あの赤い実。
そばにあった木に、小さな赤い果実を沢山つけているものがあり、ふと、思い出した。
ここは、ピューリオ家の領内の森だ。館の敷地内にある森に、小さい頃、何度か遊びに入ったのだ。冬になる木の実で、この辺りにしかない木なのだと、フェリクスさまは言っていた。冬の貴重な果実だから、小鳥たちが争うように啄みに来るのだと。
だが、辺りには一羽の小鳥も見あたらなかった。
「グ……オ……オオ……」
背後から聞こえたのは小鳥の声にはあり得ない、低くうなるようなものだった。
私は震えながら慌てて振り返る。
地響きがした。遠くから、三つの人影と、何か大きな四つ足の生き物の影が走っているのが見える。
「母上、フェリクス!」
十二、三ほどの少年が、叫んでいだ。よく見ると、人影は女性一人と、少年が二人だった。身なりから察するに貴族であることは確かだ。
――あれは……。
その女性をよく見ると、見覚えがあった。フェリクスさまのお母上だ。確か、彼女は私の母が死んだ翌年に、亡くなっている。
――では、その隣にいるのが、フェリクスさま?
八歳ぐらいだろうか。フェリクスさまの母と私の母が友人関係であったことから、何かと小さい頃から交流があったのだが、私の母が亡くなってからはそれが途絶え、この頃のフェリクスさまの姿にはあまり馴染みがない。お母上が亡くなった理由も詳しくは聞かされていなかった。
もう一人の少年が、剣を抜き、彼らを追う獣に向き合った。
「逃げてください、僕が食い止めます」
「アラント! だめよ」
「三人で逃げるのは無理です、もうすぐ騎士団に合流できる。できるだけ僕が時間を稼ぎます!」
アラント。フェリクスの兄上だ。何度か会ったことがあったはずだ。
「お願いです、フェリクスを連れてできるだけ、遠くに、母上!」
「兄上、僕も戦います」
「お前には無理だ、早く行けフェリクス!」
――無理だ。
アラントにも無理だ。私は直感で悟り、震えた。あれは、ただの熊や狼といった獣ではない。魔力が付加された、怪物だ。
――魔物が、七年以上も前に、ピューリオの領地に?
いや、これはそもそも現実なのだろうか。誰かの記憶を盗み見ている? どうして?
意を決したらしいフェリクスの母君は、幼い我が子の手を引いて、駆け出した。
「いやだ、兄上!!」
しかし、それほど走り抜ける間もなく。
「ウ……オォ……!」
別の個体が二人の前に立ちはだかった。成人男性の二倍はあるだろう背丈の、四つ足の獣。灰色の毛が逆立ち、むき出した牙と牙の間から唾液が滴り、赤く光る目にはおよそ心を通わせられそうな情緒や理性など感じられない。
それは、爪を立てた腕を、振り下ろした。
より弱い、小さな子どもであるフェリクスさまを狙おうとしたのだろう。そして、母君は、大切な我が子を守ろうとしたのだろう。
私はその光景を遠くから、震えながら見ているしかできない――……。




