ある日、ネタが空から降ってきて
「全然筆が進まないんだ。これでは芥川賞がとれない」
「まあ落ち着け。そんな日もあるってばよ」
うららかな春の陽気の下。わたしと友人は町中をぶらつきながら、雑談に華を咲かせていた。
本来なら引きこもって小説を書いている筈だったが、心配した友によって無理矢理連れ出されたのである。
何をするんだ、わたしは執筆に忙しいんだ、やめろぉこの野郎。口汚く罵ってみたものの、人間モヤシが元運動部に敵うわけもなかった。
「だいだいなぜ芥川賞なんだ。直木賞では駄目なのか」
「否だ。芥川賞候補に名を連ね、お茶の間を賑わせてこその我が人生よ」
「頑張りすぎて塵芥と化すなよ」
そんな我々の左には川が流れている。名を芥川。三重県鈴鹿川水系より通ずる1級河川である。
右手にはとある航空会社の支店。ご自由にどうぞとばかりに、パンフレットが軒先に並べられていた。雄大なる緑。雄大なる海。雄大なるスカイブルー。雄大なるオーロラ。心惹かれる絶景たちが、たくさんのゼロを伴って並んでいる。
ハイ、チーズ! スイス・フランス ヨーロッパチーズ巡りの旅
海の幸山の幸、どこで食べる? 空でしょ。飛行船スカイクルーズ
フィッシュアンドチップス、アンド紅茶。ブリテン食べ歩きツアー
「海外か。いつか行ってみたいものだな」
「あんなものは金持ちの道楽だ。縁もゆかりもない」
「興味は?」
「ある」
「お金は?」
「芥川賞を取れば入ってくる筈だ」
ペチリという音と共に何かが降ってきたのは、まさにその瞬間であった。
「む?」
すぐ横に落下してきた謎の物体。その大きさは一口サイズで、白色をしていた。激突の衝撃で半ば潰れてしまっているが、元の形は直方体であろう。顔を近付けてみると、魚介類特有の生ぐさい匂いが鼻についた。
「この臭み、この形、この大きさ。分かったぞ友よ」
まことに理解しがたき珍現象だが、これは間違いなく。
「寿司ネタだ。寿司ネタが空から降ってきたぞ」
風神様の気まぐれか。それともよく出来た夢であろうか? 半信半疑ながらも言い切ったわたしに、友人は驚きの声を投げかけた。
「何だって。いったい何の魚なんだ」
「少なくともトビウオではない。彼らは空を飛べる筈だ」
「竜になった鯉の破片かもしれない。空を飛んでいたら自衛隊に撃ち落とされたんだ」
「やむなくか故意かで、追求の度合いは変わりそうだな。……ふむ」
人差し指で触れてみる。そこそこ固めで、弾力質。つまんで持ち上げてみると、切り身全体にいくつもの細かな切れ目が入れられていた。
「これはイカだな」
「こいつはイカした天気だ! 晴れ時々刺身ってか?」
戯れ言は無視して、わたしは切り身の出所たる大空を見上げる。
その時また、ペチリという音がした。見れば、数メートル先にマグロらしき切り身。
そんなまさか、と再び頭上を仰げば。ペチペチペチペチと、堰を切ったかの如く降り注ぐ切り身たち。カツオにサーモン、タコ、玉子。友の顔面に直撃するタイ。たいへんだ。
「いかん、避難だ!」
たちまち、辺りは逃げ惑う人々で大混乱に陥った。それは悲劇的で冒涜的な有り様であった。悲鳴、怒号。鳴り響く車のクラクション。向こうでは軽自動車が赤信号を無視している。運転者は違反点2、罰金9000円を宣告されよう。民草のすがる秩序とは、かくも脆く崩れ去るものか。皆こぞって我が身を守らんとし、親とはぐれた少女が群衆の中で泣きさけぶ。
これがハルマゲドンか。聖書の記述を書き換えねばなるまい。終末の先兵はラッパならず、有象無象の寿司ネタである、と。
数分後、刺身の雨は唐突に降り止んだ。
なんだ、何がどうなっているのだ。状況が把握できない。
そんな我々に真実を教えてくれたのは、ビルの壁面に取り付けられた大型液晶画面、そこに映し出されたニュースであった。
『飛行船エンジントラブル。緊急着陸』
曰く。ある航空会社の提供していた飛行船が、空の旅の最中でエンジントラブルに見舞われた。乗っていた人々は機体を軽くすべく、物資を空に投げ捨てたというのである。さもありなん。その中には、乗客に提供される筈であった海幸山の幸も含まれているとのことだった。
なるほど。おそらくそれらの1部が風に流され、ここら一帯に降り注いだのだろう。
「よく分からんが、よかったよかった」
はっはっは、と豪快に笑う友人。
その瞬間、わたしの脳裏に稲妻が走った。それら天からの啓示、またの名をいんすぴれいしょん。わたしは鞄からノートパソコンを取り出すと、急ぎ文章執筆用ソフトを立ち上げた。
「何してるんだお前。気でも狂ったか」
「小説を書く。書かねばならぬのだ」
「小説だと。ネタは思いついたのか?」
「今しがた降ってきた」
「ここで書くのか?」
「オフコース。ネタは新鮮な内に使わねばな」
この奇怪なる事柄。糧とせずに、題材とせずに何とする。大丈夫、固有名詞を少々いじくり、多少の誇張を施せば問題はあるまい。
軽快な指捌きで、わたしは記念すべき1文目を打ち込んだ。
“ある日、ネタが空から降ってきて。”