826.雪原の約束
ラフマーヌ王家に伝わる家名継承の儀式は特に難しいことはない。
さらに言えば今は時代が違う。ラフマーヌはマナリルの北部であり、伝統も簡略化されている今……アルムがやる事は極端に言えば座っている事だけだ。
元謁見の間の奥の奥にあるもう誰も座る事のない空の玉座。
その玉座の前でアルムは膝をついて頭を下げていた。
かつてカエシウスの始祖が座っていたその場所の前で新たにカエシウスの名前を授けるのだ。
「……マナリルの王族差し置いて私らが見学できちゃっていいのかしら?」
「招待されたからいいんじゃないかな?」
「ミスティきれー……」
元謁見の間にはテーブルが二つ用意されていた。
一つはミスティが招待したルクス達三人の、そしてもう一つはミスティの家族が座っている。当主を退きながらミスティの補佐をしている父ノルドと母セルレア、そして来年から学院に入学できる歳にまで成長した弟のアスタだ。
大々的なパーティを開くわけでもなく粛々と。結婚式のように披露する必要はない。
「"我等の力は民に。我等の名は国に。灰の空を照らす白き名をここに"」
アルムの後ろで誓言を唱えるミスティの装いは儀式用の礼服だ。
代々伝わっているというわけではないが資料を基に作られた一点もの。
頭には白いヴェールと白い冠、腰には儀礼用の短剣、服は体のラインがくっきりと出る真っ白なドレスのようだ。
化粧は普段のミスティより少し濃く目元は赤が強調されている。
「何か……花嫁みたい……?」
「確かに……カエシウスの始祖は男だったはずだけど……」
「……あれ男の人が着てたのかなー?」
「うーん、時代が違うからね……ラフマーヌの文化は僕も詳しくないから……。それか男女で違うのかもね」
儀式を見つめながら着飾ったミスティを見つめるルクス達三人。
ミスティだから似合っているが、男が着れば違和感のある服装だ。
何を模しているのか。何の意図があるのか。
遠い過去の国であるラフマーヌ……そしてカエシウスの始祖の事はルクス達にはわからない。
「"座する玉座は雲の上。宙まで届く童話の歌。雪降る大地を見守る者"」
ミスティは誓言を唱えながら儀礼用の短剣をアルムの右肩に置く。
「"我等の名はカエシウス"」
次は左肩に。
「"天を捨てて人を選んだ血。永久に刻まれし名を其方に"」
次に背中に切っ先を少し置いて、ミスティは短剣を鞘に納める。
そして自分の頭の白い冠をとってアルムに被せた。
「"其方の名は"」
「アルム」
「"今よりその名は"」
「――アルム・カエシウス」
「"我等の名は新たにここに。これよりその名は其方と共に――"」
そこでアルムの意識は途切れた。
目を開くとそこはどこまでも続く雪原だった。
その雪原を一人……小さな女の子が泣きながら歩いている。
時折顔を上げて辺りを見渡して、誰もいない事にまた涙を流してゆっくりと歩く。
その涙は渇くこともなければ凍り付く事も無い。悲しみが凍り付いて楽になることなどないかのように。
「ミスティ……」
その少女が幼い頃のミスティである事はすぐにわかった。
誰もいない。少女は歩く。誰もいない。少女は歩くことを止めてはいけない。
雪原は何処までも広がっていて、残酷な事に何度も雪が降る。
少女は涙を拭って歩き続ける。季節すら凍らせるような雪の中をずっと。
それが、永遠に彼女が歩く道になるはずだった。
白く染まる永遠の暗闇の中を少女は成長しながら歩いていく。
『今までここに来れたのは我の王だけだった』
「!!」
いつの間にか、アルムの隣には白い装束の女性が立っていた。
頭には花の紋様をあしらった白い冠を戴き、歩く少女を眺めている。
『かつて遠い時代、この雪原にはもう一つの足跡があった。我だけが覚えていてお前には見えないだろうが確かにここにあったのだ。
……今よりも世が荒れていた時代だった。隣国からの侵略を退けて、その一生をかけて人々が安心して暮らせる王国を作り上げた理想の王だった。誰よりも強く誰よりも慕われていて……強すぎた。誰も彼の道を継ぐことができなかった』
柔らかな口調で話すその白い装束の女性をアルムは当然見たことはない。
それでも、何者なのかはすぐにわかった。
「カエシウス家の……血統魔法」
『そう。よくぞ来たな"分岐点に立つ者"……彼のような大馬鹿者よ』
馬鹿と言っているのにその瞳はアルムを慈しむようだった。
ミスティと似た青い瞳と白銀の髪。
冬の自然が女性になったのならこんな女性だろうとアルムは思った。
『先に言っておくが、お前は我に認められたわけではない。何故かはわかるだろう』
「俺に才能がないから」
『そうだ。お前がカエシウスの名を戴こうとも我を継ぐことはない』
並んでいる二人の間は近いようで宙より遠い隔たりがある。
その名を知るとも唱えられず、片鱗すらもアルムの中には引き継がれない。
目が覚めればこの光景も泡沫へと消えていく。
『それでも、祝福する事はできる。よくあの子を見つけてくれた。そして安心していい。お前とあの子の子供は問題なく血統魔法を継ぐことができる……ここに来るかどうかはわからないがな』
白い装束の女性の視線は雪原を歩く少女のほうへと。
少女は学院でアルムが出会った頃まで成長していた。
少し泣くのを堪えられるようになって、でもそれが痛々しい。
『我はあの子の姫にはなれない。我はあいつだけの姫だから』
「あいつっていうのは……ミスティの御先祖様?」
『ふふ、先祖……か』
女性は頷いて、一歩だけアルムに近付いて髪に触れる。
厳しい雪原の上とは思えない優しい風が吹いたような撫で方だった。
『カエシウスを代表して最大限の感謝を送ろう"分岐点に立つ者"。お前のような者があの子の"魔法使い"になってくれてよかった。よくぞあの子を救い……我を使いこなす時まで支えてくれた』
「俺は自分のためにやっただけだよ」
『そう……あいつも、そんな事をさらっと言う大馬鹿者だった』
女性は懐かしむように呟いた。
『千年の時を経てようやく……我が王が目指した理想を為す者が現れた……。ずっと、ずっと待っていた……』
女性は雪原の上で笑顔になったミスティを見つめる。
その小指にはアルムから貰った指輪があった。
小指を抱きしめるように胸の上で握って、少女は涙を流さなくなった。
少女の心を温める一つの感情が涙を溶かして、笑顔を育んでいく。
『お前はあの子にとっての星だから、ずっと離さないであげて』
「はい」
『お前はあの子にとっての"魔法使い"だから、ずっとあの子を救ってあげて』
「言われなくても」
『子供の頃から寂しがり屋だから、大変だと思うけれど……いい子よ』
「知ってるよ」
別れの言葉のように女性は繰り返す。その口調はいつの間にか威厳のあるものから柔らかく変わっていた。どちらかといえばこちらが素なのかもしれない。
『運命に呪われた者……そして運命に勝った者。よくぞ世界を救ってくれた。もう安心していい。ここからは英雄ではなく王の番だから』
会うのは最後で別れも最後。アルムと女性が永遠に再会することはない。
その名にカエシウスがあったとしても。
『だけど、お前だけはあの子を王ではなくお姫様としてもずっと大切にしてあげて』
「うん、約束するよ」
雪が止んで風が吹く。吐く息はずっと白い。
少女の足跡は遠く、遠くどこまでも。
女性はもう隣にはいなかった。
『さようなら。あなた達のために歌うことはできないけれど……ずっと、見守っているわ』
風の中に聞こえる声。アルムはただ見送るだけでさよならの声には答えない。
やがて雪原をしばらく見つめて、アルムは少女の足跡を追って歩き始める。それはいなくなった女性が出来なかった事だった。
いつの間にか首にはあの日贈ってもらった黒いマフラーが巻かれていて。
この光景が泡沫の夢だとしても、ミスティの隣を歩くためにアルムは迷うことなく駆け出した。
「アルム!!」
「ん……ぁ……?」
「よかった……アルム……! 急に倒れたので何事かと……! ああ……!」
アルムが目を覚ますと目の前には心配そうに自分を覗き込むミスティ。
周りにはルクス達やノルド達も集まっている。
「大丈夫かねアルムくん?」
「気分はどう……?」
「はい、大丈夫です……」
「変ねぇ……私達の時はこんな事起きなかったけれど……」
ミスティの両親であるノルドとセルレアは申し訳なさそうな表情を浮かべている。
ただの慣例と化した儀式でこんなトラブルが起きれば確かに思う所はあるのかもしれない。
「アルム義兄さん……! よかった……!」
「アスタ……そんなに泣かなくても……。後まだ気が早い……」
成長してもアスタはアスタ。アルムを慕っているのは変わらず、べそべそと涙を流している。
ミスティやミスティの家族は倒れた事を心配してはいても、アルムの見た光景を共有できているわけではなさそうだった。
「マフラーが……無い……」
「え?」
アルムはふと首元を触る。夢の中で巻いたはずのマフラーはない。
考えてみれば当然かと不思議そうにしているミスティのほうを向く。あのマフラーは今自分の荷物の中にあるはずなのだ。ここにあるはずがない。
「ちょっと……大丈夫?」
「とりあえずベネッタが言うには異常無いらしいけど……?」
「うん、でも念のために病院行ったほうがいいかもー。原因がわからないからー……」
「その必要はないよ」
アルムの言葉には確信めいたものがあった。
ただの夢ではないのは自分でもわかってる。
「ただちょっと……約束してきただけだから」
二度と行けない場所。二度と見れない夢。
幻想のような場所で交わした大切な約束にアルムは永遠を誓う。
雪原で過ごした時間は現実にとっての刹那。
たった一人だけが垣間見た星の夢を経て、アルムはカエシウスの名を新たに宿した。




