809.白の平民魔法使い5
生命とは自己保存を優先する存在だ。
我等は人間を恨んでいた。自分を殺した神よりも自分を騙して毒入りの酒を飲ませた卑劣さに憤りを抱えたままこの世界に再誕した。
恨むという事はその対象の事をより思考するという事。
一度目の生では生贄としか思っていなかった人間を恨み、憎み、呪い、この星唯一の神となり今度こそ支配すると決めた我等は人間を直視し続けた結論を出す。
人間は生命としてあまりに欠陥が目立つ生き物だ。
人間は自身という生命を守るのがあまりに不得手だったのだ。
他の動植物より生命としての強度は劣るが、標準以上の知性を持ち、高次の存在である神の存在や視認できない抽象概念をも理解している――いわば神にとって最も都合のいい知性体ではある。
だがその概念を理解する知性が、生命活動に不具合をもたらしていた。
人間の親が子を守る光景を見た。
賊に家屋を襲われた人間が子を守るように覆いかぶさっているところだった。
人間は貧弱な生命。精神と肉体どちらも脆弱でいつ死ぬかもわからぬ生き物。
自己保存を子孫に託す生態だというのは把握していたゆえに容易に理解できた。
親が殺されれば次は子も殺される。少し考えればわかるような問題点を抱えたあまりに非効率な行動ではあるが。
男が好いた女を守る光景を見た。
鍬を握り野犬から女を守る男がいた。
こちらも理解できた。自己保存を子孫に託す生態である以上、子孫だけでなく共に子孫を残したい相手を守護するのは必然だろう。
女が見知らぬ赤子を拾った光景を見た。
捨てられた赤子を血も繋がっていない女が拾っていた。
人間にとって生命の保存とは血筋によるものではないと仮定すれば何とか理解できる範囲だった。
人間にとっては子を育み血を絶やさないというのが最も簡単な方法だったというだけで別の方法もあるというわけだ。子孫という血筋に残らずとも後世に自分の記録が、見知らぬ他者に自分という存在が記憶されればそれは自分という存在を託すことに繋がる。
自分の行いを示す証として赤子を育て、その赤子が成長すれば女が生きた意味というのは確かに残るのかもしれない。自分の資源を他者に消費すると考えると不合理で理解し難い感覚ではあるが……理屈づける事は可能だ。
創始者達が弱い人間を守るために戦う光景を見た。
種の保存のためか。はたまた自身の名を残すためか。
滅びた都市で八人だけ生き残り、英雄を謳っても無意味なのは理解できる。だが……あまりにも不合理な損失だと思った。
無力で才の無い弱者のために才有る八人が命を削っている光景は人間という生態の不具合を見ているようだった。
だが理解できないわけではない。歴史になろうとも伝承になろうともこの八人がいた事は永遠に残り続けるだろう。
英雄になり人々の心に名を残すというのはこれ以上無い存在の証明だ。
我等もまた怪物として伝承に名を残した存在だからこそある程度は理解ができた。
――そう、我等は人間を呪ったからこそ人間を理解した。
人間における自己の価値観を理解した。
生まれた子孫、歴史という記録、そして他者の記憶。
自分というものを不確かながら他者に"託す"……そんな歪な自己保存を選ぶ存在。
我等は度重なる観察を重ねて、人間の欠陥の意味を完全に理解したのだ。
【――理解、したはずだ……!】
――有り得ない。
自分が行く先に立つ一人の人間を見て大蛇の思考はかき乱される。
千五百年前に結論付けた人間に対しての解釈が……現れた一人の少年の存在によって瓦解する。
歪さを理解したと確信した。
欠陥の意味を思考した。
……では、あの人間は何故あの場に立っている?
理解が出来ない。不可能なはずだ。
人間の在り方にとって、忘却は何よりも耐え難い結末のはずだ。
それは矮小な人間にとって自分の命の意味を何も遺せないという事だから。
無意味。無価値。無駄。誰の記憶にも、記録にも残らない……命の消費。
生命がそんな結末を受け入れるなど断じてあってはならない。
自己とは? 自我とは? 欲望とは?
何故これらを切り捨てられる?
ああ、そうだ。そんな結末を受け入れる生命がいるのならその生命は狂っている――!
「――【幻魔降臨】」
大蛇が狼狽する中、アルムは魔法生命に変生する。
霊脈から流れ込む魔力の奔流を肉体だけでも耐えるために。
背中から白い羽根、腰から白い尾。そして手には剣。アルムは自分の魔法によって魔法生命と化す。
白い魔力が、羽根のようにベラルタ魔法学院の校門に舞う。
【まさか、知らぬのか……? 霊脈に接続するとどうなるのか、本人もわかっていないと?】
「……わかってるさ」
【!!】
狼狽する大蛇とアルムの視線が交わる。
鬼胎属性を司る捌の首はアルムの瞳から伝わる感情を察知した。
それは恐怖だった。自分に対してのではない。これから自分に起こる悲惨な結末に対してのもの。
体は震え、本能は泣き叫び、それでも……意思だけが揺らがずにそこにある。
――理解した上で、そんな愚行を犯そうとしているのか?
大蛇がアルムの抱く恐怖を読み取った瞬間、ざわざわと初めて抱く感情が思考を乱す。
同時によぎったのは、千五百年前に出逢った人間――創始者との記憶だった。
"ああ、わかってねえなあお前。人間をわかってない"
山一つごと自分の首を三本焼き尽くした人間。
燃え盛る炎の中、臓物を腹からこぼしながら笑う女の姿。
"そうじゃない。そうじゃないんだ。そんなもっともらしい理屈をいくら並べたとこでわかるはずがない……お前が思ってる以上に人間はいかれてる。私達は自分の欲望のためなら何でも賭けられる馬鹿の集まりなんだよ"
次の瞬間には消える命の灯。
だがその言葉は力強く、その姿は焼き付いたように大蛇の記憶に残っていて。
"いつかわかる。お前が理解したと思い込んだ人間像がただの錯覚だと突き付けるような馬鹿が……私達の後に続く九人目がな"
大蛇の脳裏によぎるのはその女性――火属性創始者の最後。
ただの戯言だと捨て置いた。死に行く人間が見せる最後の強がりだと聞き流した。
【九……人目――!】
理解したと思っていた人間はアルムの在り方によってあまり遠く理解し難い存在へと変貌する。
大蛇を締め付けるのは未知への恐怖……三百メートルを超える巨体の全身におぞましい気配が走る。大蛇の困惑は自然にアルムへの怒気へと変わった。
アルム目掛けて、大蛇が侵攻を再開する。ベラルタの家屋を薙ぎ倒し、轢き潰し、霊脈へと突き進む。あの人間さえ……"分岐点に立つ者"さえいなくなれば全てが終わるのだと叫ぶように。
「買い被り過ぎだ……大蛇。恐いよ。死ぬほど恐い。今すぐに逃げ出したいって思ってる」
そう、アルムはまだ何も成し遂げてなどいない。
アルムを未知の恐怖に対して屈せず向かってくるのは大蛇が絶対の存在であるからだろう。
しかし、恐怖に屈しないというのは力を持つ者にとってそう難しい事ではない。
単純な力や権力、経験や尊厳などの支えが力を持つ者たらしめる。
……だが恐怖に屈した者が立ち上がるのはどれほど難しいだろうか。
自分が無になるという結末はあまりにも受け入れがたく、アルムの心は一度折れた。
今までアルムがその在り方を示してきたのは自分の夢のため……彼は"魔法使い"という夢一つを支えに立ち向かってきた。
「だけど、もう決めたんだ」
――ゆえに彼は今初めて自分の夢ではなく、振り絞った勇気を掲げて立ち上がった。
「『準備』!!」
それは暗い海に飛び込むような無謀。
一歩一歩が自分の自我を殺す自死よりも残酷な選択。
自分がアルムでなくなる道を、少年は踏み出す。
……赤ん坊の頃、誰にも気付かれることなく死ぬはずだった捨てられた日に帰るかのように。
【何者なのだ貴様は! 何故来れた!? 何故現れる事が出来た!? 見えるはずだ……どんな結末であれ彼方に消える自分の姿が!! それでも貴様はそこに立つと言うのか!?】
大蛇が叫ぶ。
未知を払拭するかのように。理解を得ようとするかのように。
自分の体の内側をぞわりと這うような未知の感情。
恨みではない。憎しみではない。
生命の常識と人間に対する理解をぐちゃぐちゃに踏み荒らされて――完全だった神獣の中に、恐怖という感情が植え付けられた。
「ああ、そうだ。俺は俺の意思でここに立つ。たとえ何者でなくなるとしても」
この地は自身にとっての"分岐点"。
夢を抱き、理想を描いて辿り着いた場所。
自分の最後に相応しいと、アルムは顔を上げる。
「俺はアルム。この国の……この星の、"魔法使い"だ!!」
咆哮に等しいその宣言は今この瞬間だけの理想。
アルムは初めて、自身を"魔法使い"と名乗った。




