806.天泣の雷光10
「愛しておりますクオルカ様。どうかルクスさんをお願い致します。アオイはこのマナリルに来られて……二人に出逢えて……夢のような幸福を生きることができました」
それが妻の遺言だった。
涙を流す私に愛と感謝を囁き、ルクスを託して笑って逝った。
出会った時から病だと言っていた彼女の体調は何十人といる医者に見せてもよくならず……どれだけ手を尽くしても彼女は徐々に徐々に弱っていき、私よりも早く逝ってしまった。
まただ。また私を知る者が消えていく。
戦争で友を失った。次は愛する者を失うのか。
私が周囲を不幸にしているのかと自分の首に剣を向けそうになった日もあった。
"夢のような幸福を生きることができました"
妻の――アオイの遺言が頭によぎる。
ああ、彼女はわかっていた。クオルカ・オルリックが決して強い人間ではないという事を。
冷酷な一騎当千。貴族の鑑。完全無欠の魔法使い。
そんな私を褒め称える虚飾の栄光が私にとって生きる意味になり得ない事をわかっていた。
私が失うことに怯えるただの小心者だと理解しながら、そんな私を愛してくれていた。
私もそうだった。
常世ノ国から来た素性も知れない女。社交界で腹立たしく囁かれる妻の噂などよりも、目の前にいる彼女の高潔さと包み込むような優しさを愛した。
妻の事を思い出す度に身が裂かれそうな思いだったが、それでも思い出の中にしか彼女はおらず……私は妻の死を受け入れられないまま日々を過ごしていた。
「父上……?」
「ルクスか。どうした?」
妻の死から一月経った頃だった。
平然を装った顔で執務に没頭していた私の部屋にルクスが訪れた。
まだ八歳だというのに母を失ったルクスは私と同じように辛い思いをしているだろうと思った。
「お忙しい所を邪魔してごめんなさい……その、母上のお墓に供えるお花を買いに行きたいのですが、ご一緒しませんか……?」
「いや、私は……」
情けない話だが、私は妻の墓に行くのが恐かった。
妻の死を改めて形として突き付けられて、今度は平然すら装う事ができなくなってしまうのを恐れていた。
本当に情けない話だ。そんな事を避けた所で、妻がどこにもいないのは変わらないというのに。
「ルクス……辛くはないか? 無理はするんじゃないぞ」
卑怯な父親だった。
自分の辛さをまるで子供のもののように扱って平静を保とうとしていた。
「辛いです……母上がいないのは、とても辛いです……」
「ああ、私もだ」
「けど、辛くても大丈夫です」
まだ小さかった私達の息子は力強くそう言った。
大丈夫だと言うその姿は強がりのようには見えない。
「母上が教えてくれました。別れとは今までの自分が幸せだったと知る事、出会いは新しい幸せを知る事だと。母上が亡くなられたのはとても辛くて悲しいですが、その辛さが僕に教えてくれるんです。僕はとても……幸せだったんだって……」
ルクスの言葉で妻の遺言が私の頭の中で繰り返される。
"アオイはマナリルに来られて……"
「僕達は出会いと別れを繰り返すから、大切な人との時間を幸せに思えるんだって……母上が教えてくれたんです……だから……」
「ルクス……!」
"二人に出逢えて……夢のような幸福を生きることができました"
「僕はきっとまた大切な人と出会って、幸せになれると思います。父上と母上のように。そして僕はそんな人達がいる場所を守る"魔法使い"になるんです」
「あ……あぁ……!」
……いた。
ここにいた。
もう思い出の中にしかいないと思っていた妻が、こんな……こんな当たり前の場所に――息子の中にいた。
母を失っても前を向いて進もうとする息子の中に。
そうだ、何故失うものばかりを数えた。
あったはずだ。別れる前に得たかけがえのない出会いが。
あったはずだ。失った後も残り続ける大切なものが。
なによりここにいるではないか。私達の愛するかけがえのない息子が。
この子の歩む未来が妻の願いであり私の愛そのものだというのに――
「父上……泣いているんですか……?」
「ああ……ルクス……。買いに行こう……彼女が好きだった花を」
私はしばらく顔を上げることができなかった。
涙は止まらずそれでいて心は晴れたように。
悲しみは癒えずとも、失ったと思い込んでいた幸福が確かにここにあった。
「フラフィネくん! それにサンベリーナ殿! 嫌だろうが僕と来い! 打ち合わせ通り僕達だけで小隊を作る! エルミラが落ちた分の火力を僕で補う! 防御は全て任せた!!」
「仕方なく一緒に行って差し上げますわ!」
「うちは別に嫌じゃないけど……ヴァルフト大丈夫なん?」
「誰に物言ってんだ! 【千夜翔ける猛禽】!!」
青白い顔でヴァルフトは血統魔法を唱え、再び巨大な白い鳥が現れる。
片腕を失ってもなお戦意を保ち、血統魔法を使ったヴァルフトを気遣いながらももルクスとサンベリーナ、フラフィネの三人は白い鳥に飛び乗る。
「ルクス……さっきみてえな回避はもう無理だ。俺は操作だけに集中する」
「……わかった」
治癒はされていても痛みが完全に治まるわけではない。
ルクスに耳打ちをするとヴァルフトは飛び上がる。
「ミスティ殿! わかってると思うが前に!!」
「『ええ! 狙いは変わりません! すでに破壊した首以外の核です!』」
後方で俯瞰しながら戦況に関わっていたミスティも前に出る。
エルミラとベネッタどちらも欠けてしまった今、大蛇に対する手数が足りない。
「討伐部隊の攻撃に乗じて接近する! 鬼胎属性の首の能力には注意しろ! エルミラがいない今あの魔力を浴びたら本当にアウトだ! くそ! 僕の恋人凄いな!!」
「この状況で惚気るんですの!?」
「うざ! 意外にうざいし!!」
「必死に自分を鼓舞してるんだ! 弱い奴だと笑ってくれ!!」
普段のルクスらしからぬ言動は本人の語る通り自分を鼓舞するための声。
乗った白い鳥が飛び上がる中、ルクスは必死に自分の中に生まれた弱さを追い出す。
――大蛇の首が再生したのを見た時、自分が立ち止まったのを感じた。
全部無駄だったのか。
エルミラやベネッタ、学院長や討伐部隊の奮闘が全て無意味だったのかと膝を折りかけた自分がいたのをルクスは認める。
【絶望しかけた弱者が先導するのか? 我等に隠せると思うたかアオイの息子――ルクス・オルリック? 貴様の心に巣食う弱さはどれだけ取り繕っても隠せぬぞ……我等の呪詛を浴びれば帰ってはこられまい?】
捌の首はそんなルクスの心に芽生えた弱さを感じ取る。
鬼胎属性という精神に影響する属性ゆえか。それとも神獣としての力なのか。
自分に向かってくる主力たる人間の中、弱所を見つけたように大蛇は嗤う。
「ずいぶん嬉しそうで何よりだ。隠す気なんかさらさらない。僕は弱い。そんな事……アルムと出会ってからずっと思い知らされてる」
嘲笑われようとも関係ない。ずっと負けているのだから。
何故自分はとアルムと比べて雨の中立ち止まった事だってある。
自分は弱い。そんな事わかっている。今更笑われた所で関係などあるはずがない。
「それでも僕をここまで連れてきてくれたのはアルムだ。同じ道を歩く友人達だ。ここで出会った人達だ……今もミスティ殿の言葉が立ち止まった僕を引っ張り上げてくれた。
弱いからこそ僕は出会いと繋がりを大切にしながらここまで来れた。間違っている自分を正してくれる友人と立ち止まる僕を奮い立たせてくれる恋人のおかげで」
弱いからこそ自分以外に大切なものが多くできた。
弱いからこそ強く在りたいと願えた。
人間の弱さを嘲笑う大蛇に対して、ルクスは決して欠陥などではないと断じる。
自分がこんなにも恵まれているのはそんな自分の弱さがきっかけだと理解することが出来たから。
【開き直るとは哀れだな人間】
「君こそどうしたんだ? 君にとって人間が弱いなんて当たり前の事……今更僕に向かって突き付けるなんておかしな話じゃないか」
【……何が言いたい?】
ルクスが乗る白い鳥は大蛇の頭と同じ高さに。
大蛇とルクスの視線が交わる。互いの瞳は共に、同じ金の色をしていた。
「弱っていない僕がそんなに恐いか大蛇? このルクス・オルリックが!」
【がががが! 弄ぼうと思えばずいぶん調子に乗ったものだ! 貴様の死体は呪詛に沈めて塵芥になるまで眺める事にしよう! 二度と立ち上がれないように!!】
「そんな未来は来ない。ここは僕が大切な人達と出会った場所、君みたいな怪物には勿体ないし似合わない。ここは……ベラルタは……"魔法使い"を目指す者の場所だ!!」
声と共にルクスの心に芽生えた弱さが吐き出される。
立ち止まってもいい。また歩き出すことが出来るのなら。
そうやって出会いと別れを繰り返して、自分が幸福だと気付くのだとルクスはもう知っている。
黒い魔力から伝わる重圧に怯むことなく、大蛇との戦いに再び臨む。
大蛇が呼んだ暗雲を切り拓くように。
「……立派になった。本当に」
そんなルクスと大蛇の問答を聞いて、父であるクオルカは一筋の涙を流しながら通信用魔石を繋げる。
「ヴァン殿……少々頼みがある」
ミスティ達含め討伐部隊の士気は戻ったが、依然として戦況は不利なまま。
破壊した首は再生し、対魔法生命の主力は次々と落ちていっている。
それでも、もう諦めている者はいなかった。




