789.天龍
大蛇のガザス出現から数日後。
事態は再びマナリルで起こる。
マナリル貴族トラペル家が治めるトラペル領の町ミレル。
丘陵地帯に広がる葡萄畑とワイン作り、そして霊脈であり輝く湖として有名なミレル湖が注目され始めたばかりの観光地。
そしてマナリルで初めて魔法生命の被害が確認された場所でもあった。
「終わった……」
「そんな……」
ミレル湖に駆け付けたのは元ベラルタ魔法学院の生徒だったラーディス・トラペルと使用人であり元常世ノ国の魔法使いであるシラツユ・コクナ。
彼らの今日の一日はいつも通りになるはずだった。
朝食を食べて町の視察。そして家に戻って領地運営についての勉強。
専属の使用人シラツユと一緒に息抜きをしながら、順風満帆な生活を今日も過ごす。
二年前、魔法生命によって町を半壊させられた時から必死にミレルの町を立て直し……ようやく傷も癒えたという時に現れたのは巨大な蛇の怪物だった。
【ほう、素晴らしい……素晴らしい霊脈だ】
ミレルに現れたのは疑似顕現した大蛇の最後の首。
魔法生命との戦闘経験がある彼等は、肌に伝わる威圧感と逃げ出したくなるような嫌悪感からその蛇の怪物――大蛇が魔法生命である事が即座にわかってしまう。
彼等にとっての嫌な記憶が蘇る。
それほどにこの地での戦いは鮮烈だった。
次の瞬間には惨たらしい死を覚悟して、終わっても故郷が消える悪夢を見た日もある。
当時は居合わせたアルム達によって救われたが、今はいない。
「くそ……俺の代でこんな試練を何度も……」
「坊ちゃん。住人の避難を……」
「それは父上と君の兄に任せよう……俺達は駄目元で交渉だ」
ラーディスは冷や汗を垂らしながら前に出る。
たったそれだけが苦痛だった。
「そこの魔法生命! 俺はこの地の次期当主ラーディス・トラペル! 何用か!!」
【ん……?】
数十メートルの巨体で這い、ミレル湖に入ろうとしていた大蛇はラーディスの声で振り返る。
大蛇の目には餌が二人いる程度の認識だ。
しかしラーディスのほうではなくシラツユのほうには少し興味を持ったらしい。大蛇はシラツユに視線を向けるも、シラツユは目を逸らしたりはしない。
【ほう? そこの白髪の女……元宿主だな?】
「……シラツユ・コクナと申します」
時間稼ぎを少しでも出来るならとシラツユは答える。
すると大蛇は笑い出した。
【がががが! 龍に似た匂いが少し香ってきたかと思えば……魔力残滓も残っていない所を見るとさぞ"現実への影響力"の低い魔法生命だったのだろうなぁ? ゴミの宿主になるのはさぞ不愉快だっただろう?】
「――っ!」
大蛇の言葉は的確にシラツユの神経を逆撫でする。
激昂しかけるシラツユをラーディスは制止した。シラツユに宿っていた魔法生命白龍はシラツユにとってかけがえのない友人であり、トラペル家の庭には墓もある。
魔法生命である事と友人である事は決して矛盾しない。人間に人それぞれの個があるように、魔法生命にもそれぞれの個があるのだから。
【元宿主など少し珍しくて興味を持ったが……本当にそれだけだな。少し時間を割いてやっただけでも感謝するといい未来の家畜共。我等に必要なのは霊脈のみ。この地の霊脈は中々に良質だ。我等の本体が目覚める前に食い荒らしてやろう】
「待て! 問いに答えよ! ここは俺達の領地だ!!」
【……】
最初に問いかけたラーディスはほぼいない者として大蛇は扱う。
人間を見下す大蛇にとって興味の無い人間の声は鳴き声に等しい。
問いに答える意味など当然無く、話に付き合う理由もない。
大蛇は黙って霊脈の湖に入ろうとすると、
「待てよごらああああああ!!」
【ほう? 小賢しさだけは消えたか人間?】
ラーディスに戦意を向けられて大蛇はようやく振り返った。
ラーディスとシラツユはゆっくりと大蛇に向かっていく。
勝算は無いが、魔法生命を霊脈に近付ける危険度は嫌というほど知っている。
「トラペル領時期領主の底力……見てから無視しろ魔法生命!」
【がががが! 向かってくるのなら食らってやろう。口に飛び込んでくる餌を吐き出すほど我等は無粋ではないからな】
騒ぐだけならただの鳴き声だが、立ち向かってくるなら餌として扱う。
肩を震わせながら向かってくるラーディスに鬼胎属性の魔力で肌を撫でる。
だが止まらない。大蛇の目から見て大したことのない人間である事は間違いないが、恐怖を押し殺す別の何かがラーディスを前へと進ませていた。
【これだから人間は度し難い。愚かである分には支配しやすいがな】
大蛇が口内の牙を見せ、舌なめずりのように舌を出したその瞬間――
『そこだけは同意じゃな』
【!?】
大蛇の背後のミレル湖から水飛沫を上げて何かが飛び出した。
辺りに広がる一層濃くなる鬼胎属性の魔力。霊脈の光すら陰るのではないかという黒の魔力光が姿を現し、大蛇の巨体に絡みつく。
【大百足だと!? 貴様!?】
『あはははははは! 儂の魔力残滓が残る霊脈で背を向けるとは……何と愚かか!! 普通の蛇と同じ首一つ! この儂が可愛がってやろう大蛇!!』
「お、大百足……!」
シラツユが絶望の色を顔に浮かべる。
鎧のような黒い赤黒い体節。体節から生える刃物のような無数の足。
頭には生命を嗅ぎ分ける鞭のような触覚と肉を引き裂く牙のような顎肢。
現れたのはかつてミレルを半壊させた魔法生命――大百足。
大蛇の背後からその長い体を絡みつかせ、大蛇の動きを封じるように無数の足が鱗に食い込んでいる。
大蛇の体は暴れ、叩きつけられた体で地響きが辺りに響き渡った。
ラーディスとシラツユは暴れる大蛇から離れるべく急いで下がる。戦うと決めはしたが戦う前に怪物と怪物の戯れに巻き込まれては一たまりもない。
【何のつもりだ貴様! 貴様のような毒虫が人間の味方をすると!?】
『人間の味方ぁ……? はっ……やはり儂とお前は相容れないのう!?』
鱗に食い込む大百足の足が徐々に強くなる。
かちかちかち、と大百足の顎肢が鳴った。
かたや本体ではない疑似顕現。かたや生命としてのカタチを失った魔力残滓。
互いに本領を発揮できずとも、互いの鬼胎属性の魔力がぶつかり合う。
【貴様ほどの魔法生命が何故こんな事に力を使うというのだ! この霊脈を穢せば貴様の力も多少は増す! 貴様の未練をどうした!? 魔力残滓として残ったその力を何故!?】
『寝ぼけてるのか? それともただ理解ができないか!?』
【紅葉もそうだ、ミノタウロスもそうだった! 何故貴様らは我等に逆らう!? 我等は【八岐大蛇】! 日の本で生まれし呪詛の神獣! 人間もそうだ! 我等に従えば繁栄が約束されるというのに!】
『ああ、わかっていない。本当にわかっていない。お前は強いがゆえに……生命の本質をわかっていない。生命とは生き汚くあり、何故生き汚くあるかをその身をもって知るがいい!』
ぎちぎち、と大百足の無数の足に更なる力が込められる。
刃物のような無数の足が黒い鱗を徐々に引き裂き、大百足の魔力が大蛇の魔力を上回る。
『神獣大蛇何するものぞ! 儂は大百足! 龍を食らう日の本最強の怪異その一つなれば!!』
【この……! この大蛇が首一つとはいえ……っ……! 人間に殺された毒虫ごときに……!!】
『この儂をごときと見下すかぁ!? 愉快愉快! お前の愚かさに免じてそれくらいの強がりは許してやろう! そしてその言葉……そっくりそのまま返してやろうではないか!!』
無数の足が鱗を完全に引き裂き、切っ先は大蛇の肉体をそのまま引き裂いていった。
大蛇の魔力を大百足は完全に上回り、大百足の顎肢が大蛇の黄金の眼に突き刺さる。
【ぐ……じゃああああああああああ!!】
『大蛇ごときが!! 百足に勝てるわけないじゃろうがぁ! くくく……! はは! ははは! アハハハハハハハ!!!』
大蛇の体に絡みついた大百足の無数の足に力がこもり、ギロチンのように両断した。
無数の足は大蛇の体はぶつ切りのように切り刻み、大蛇の頭は大百足の顎肢に食い千切られる。
引き裂かれた大蛇から噴き出た黒い血の雨と、大百足の笑い声がミレルの霊脈に降り注いだ。
伝承にて、大百足は龍神の一族を食い荒らす怪物として記される。
すなわち彼女は龍の天敵。魔力残滓となり弱体化してもそれは変わらない。
百足とは龍を超えて天に辿り着く者。その身に宿す名の通り、大百足は大蛇の呪いをこの地から一片も残さす食らいつくした。
それは決して人間のためなどではなく、自らの欲望によるもの。
『これで大蛇の封印は全て消えた! さあ見せてみよ……儂は見届けよう。神無き星で紡がれる分岐点の戦いを!』
ラーディスとシラツユが呆然とする中、大百足はどこかへ消えていく。
今をもって大蛇の封印である首は全て消失した。
千五百年の眠りを経て、この星に眠っていた呪詛が目覚める。
いつも読んでくださってありがとうございます。
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