767.忘れていた願い
「あ、あの……お風呂……。いただきました……」
「お、ちょっと待ってな。今できるからさ」
私はお風呂から出ると、キッチンでシスターが昼食を用意してくれているようだった。
私のお腹はずっと鳴っている。
目の前のシスターを食べればいいのに、私は何故かそうしなかった。
こうしている間にも徐々に私の体は死に向かっているはずなのに。
私はシスターの指示通り、キッチンの隣の部屋のテーブルについた。
椅子が三つある。元は三人暮らしだったのだろうか。
「はぁ……」
風呂に入る前に案内されたが、この教会はとっくに寂れていた。
何を信仰していたかもわからず信者などいるわけもない。
シスターも何かを信仰しているわけではないそうだ。
だけど、異教だろうが寂れていようがこの教会は元いた世界の教会と似た形をしていて……どこか落ち着く。
「はいお待たせぇ! シスター特製魔獣の肉入りビーフシチューだよ!」
「あ、ありがとうございます……」
シスターが持ってきてくれたのは煮込み料理とパンだった。
濃厚そうな煮込み料理のスープはとろみがついていてほんのりと赤ワインの香りがする。
スープの中には肉と玉ねぎ、人参といった具材が山のように盛られている。どうやらスープを飲むというよりもスープを絡ませた具材を食べる料理のようだ。
「パンは勝手にとっていいからね。ほら食いな」
「はい。それでは……主よ。今日も私達の日ごとの糧を与えてくださった事を感謝致します」
シスターは私の祈りが終わるまで待ってからスプーンを手に取ってくれた。
私もお祈りを終えると、スプーンを手に取ってシチューを掬う。
掬った具は人参だった。
そういえば、この世界に来てから人間以外を食べてない、と思いながら……私はスプーンを口に運んだ。
「おい……しい……」
味が、した。
濃厚なスープのコクとまろやかな味わいと煮込まれた人参の優しい甘さ。
どれだけ食べても無味だったはずなのに、こんなにも口の中で味が踊っている。
「お、よかったー……いやぁ、こんな場所だと客にご馳走するなんて機会ないからね。ほら遠慮しないでいっぱい――」
いつの間にか、私は涙を流していた。
何の涙かはわからない。
涙を流したままスプーンを動かす手が止まらない。
柔らかくスープの絡んだお肉にくったりとした玉ねぎ、ほくほくとした芋。
魔力は一欠片も回復する事は無かったが、口に運ぶどれもが美味しかった。
「……いっぱい食べな。まだ鍋にもあるから」
「ぁい……! ぁぃ……! おいしい……! おいひい……!」
シスターは涙の理由を聞くこともなく、ただ私と一緒にご飯を食べてくれた。
パンを頬張るとやっぱりおいしくて、スープにつけて食べてもおいしくて、スープだけ飲んでもやっぱりおいしくて……何杯も何杯もおかわりをした。シスターは嬉しそうに鍋にあるシチューを何度もよそってくれた。
私は食べ終わるまで、ずっと涙を流し続けたままだった。
「いやー……鍋全部たいらげるとは思わなかった……」
「ご、ごめんなさい。つい手が止まらくて……それと取り乱して申し訳ありません……」
「いひひ! いいよいいよ! 気持ちいい食べっぷりだったからさ!」
食事が終わるとシスターはお茶を出してくれた。
紅茶ともコーヒーとも違うけれど温かかった。
薬草茶のようなものだろうか。少し渋かったが、お腹によさそうな味がした。
一緒に昼食を食べて、一緒にお茶を飲んで落ち着く。一体いつぶりの事だろう。
何故かさっきまで痛かった頭も痛くない。お腹の音も鳴っていない。
「シスターは何故ここに……?」
「ん? なんだ、やっぱり怪しいかい? こんな服着て教会に住んでるおばさんは?」
「いえ、そんな事は……ただ事情も聞かずにご馳走してもくれる方がどんな方か気になりまして……」
「……かっこよく言えば世捨て人。本当の事を言えば貴族様に逆らって普通に暮らすのが嫌になった逃亡者ってとこだね」
少し間を置いてシスターはぽつぽつと自分の事を話してくれていた。
変な感じがしました。本当は転がり込んだ自分のほうが自分の事を話すべきだろうに。
「若い頃は私もあんたみたいに美人でさ、十五になる時にお貴族様に無理矢理愛妾にさせかけられたとこに反乱起こしてね……反魔法組織ってのに所属してた時期もあった。
私達の時代はまだ横暴な貴族もいてね……税で生活はひもじいわ税を取る割に何もしないわ、私達が明日の食事にも困ってるってのに中々美人だから愛妾になれだなんて言ってくる奴が領主って事実に耐えられなくて逃げたのさ。この修道服ってやつも元々はゲン担ぎみたいなもんでね。もし神様ってのが本当にいるんだとしたら、この服見て少しは助けてくれるんじゃないかって打算さ。結局、何も助けてはくれなかったけどね」
私は神と宗教について説きたかったが、黙る事にした。
今は私にも神の御声は聞こえていない。ならば宗教が一般的ではないこの世界の人間にはもっと縁遠い考え方だろう。
「でもね」
そう言った瞬間シスターの表情がとびきり明るくなった。
「ここで、赤ん坊を拾ったんだ」
「赤ん坊を……?」
「そう。見つけた時は本気でイラついたよ。ああ、やっぱりこの世界は最悪だって……この修道服を通じて神様を恨みたくなった。こんな赤ん坊すらお前は助けてくれねえのかってさ」
捨てられる無垢な命。死ぬはずではなかった人々。
わかってしまう。幾度もそんな戦場を見てきた。
けれどシスターの声色は幸せそうで。
「でも、そこに私がいたんだ。当たり前の事だけど、私は確かにその赤ん坊を助けられる人間だった。きっと人生に疲れてカレッラに来なかったらあの子を拾うことはできなかった。
都合のいい考えだけどさ。いい事なんて何もなかった私のくそったれな人生があの子を拾って母親って呼ばれる為だったのなら……悪い気がしなくなっちまったんだよなぁ……。私は凡人だから色々と間違えて来たけど、それでもここで可愛い息子ができて親友にも出会えて、ようやく私は自分が誰なのかを見つけた気がするんだよ」
「自分が何者か……」
「息子を育てているつもりが私のほうが教えてもらっちまってた。突然訪れた親友がそれを支えてくれた。ここは大切な二人との記憶が詰まった故郷で……私はここにいるのが何よりの幸せなんだってね」
幸せそうに、そして誇らしげにシスターはその笑顔を見せた。
最初にここを廃墟だと思っていた自分が恥ずかしくなる。
教会として寂れてはいるものの、案内されたこの場所はどこも掃除が行き届いていて綺麗だった。
きっとシスターにとってはこの場所が何よりも大切な場所で、この人はここを守るために……いや、息子さんや親友の方と過ごした時間が愛おしくてずっとここにいるのだろう。
「あんたは?」
「え」
「あんたはあるかい? 自分の幸せとかやりたい事ってやつがさ。ここに来るまで何があったのかは知らないけど……部屋ならいっぱいあるから落ち着くまで休みながらゆっくり自分の生き方考えなよ。あ、息子の部屋は駄目だけどね」
シスターに聞かれて、また頭が痛み始める。
思えば、私が何かに辿り着こうとすると決まって頭痛がするようになった。
……けれどもう遅い。
私はようやく思い出した。死に際の中、私が何を願っていたのか。
割れそうなほど痛かった頭の痛みはもう、これっぽっちも辛くなかった。
「……お気遣い感謝致します。ですが、ご馳走様でした」
私はお茶を飲み切って立ち上がる。
シスターはそんな私の様子を見たのか少し慌てて私を引き止めてくれた。
「おいおい、もう少し休んでいきなよ。さっきまであんな苦しそうにしてたんだ。せめて一泊くらい……」
「いえ、いいんです。あなたの言葉で自分がやりたかった事を思い出したんです……私達は一つの人生しか生きられない。ならあなたのように、信じたように生きなければ」
出て行こうとする私をシスターが玄関まで送ってくれた。
頭の中をがんがんと叩くような頭痛が目の前の女を食らえと叫んでいる。
傷ついた核から漏れる私の魔力は限界で、補充をしろと悲鳴を上げている。
――黙れ。
私の願いはもう叶った。
「あなたは母であることを選んでいる……ですが、この世界に来てから私は何も選ぼうとはしませんでした。だから今からでもやるべき事を選ぼうと思います」
「よくわからないけど……元気出たって事かい?」
「はい。さようなら美しいお母様……あなたと食べた料理の味は決して忘れません」
私は一礼して教会を後にする。
私のような怪物がいつまでもこの場所にいるわけにはいかない。
「またいつでもきなよー! 飯くらいなら食べさせてあげられるからさー!」
後ろからシスターの声が聞こえてきた。
振り返るとこちらに大きく手を振っていて、私はもう一度ぺこりと頭を下げた。
精一杯元気そうな笑顔を浮かべて、私は森の中へと入っていく。
「はぁ……! はぁ……!」
体が重い。
傷付いた核から魔力が漏れ出て行く。
命のカタチが崩れていく。
人間を一人食べるだけでもう少し延命できる。
けれど、私はもうやるべき事を決めたのだ。
最後にある魔法生命としての嗅覚がどこかに向かっている。目的地はわからない。
【何故食わなかった】
頭の中で声がする。
この世界に生まれてからずっと植え付けられていた蛇の声が。
私はその声を無視して歩き続ける。
人間のいない所へ。誰もいない山の中に。
「今まで……何故気付かなかったのでしょう……」
歩きながら後悔を呟く。
それは今となっては無意味なことだけど。
「食事とは幸せなことのはずなのに……私、今まで全く幸せではありませんでした……」
それでも言葉にしなければ。
私はもう二度と自分を取り戻せない。
「何故……自分が化け物になったことに、気付けなかったのでしょう……」
自分の頭の中に巣食う悪に唆されるがまま非道を行った怪物。
自分が何者かを自覚しないまま死ぬのは無責任すぎる。
償えないのならばせめて、罪と一緒に逝かなければ。
「――私、ずっと一人だったのに」
なにより、認めないままではこんな私を迎え入れてくれたシスターに報いることが出来ない。
せめて、私の欲望を思い出させてくれたたった一人の人のために。
人と向かい合ってご飯を食べる幸福。
戦場という地獄の中、仲間と共に歩んだ道。
忘却していた思い出も、一度目の生の死に際で願った未練も全部……思い出させてくれたあの人の優しさに恥じないように、最後くらいは。
「私……もう一度誰かと一緒に、ご飯を食べたかっただけだったんだ……」
魔法生命の意識に従ってどれだけ人間を食べても、この空腹が治まるはずがなかった。
私の欲望は決して一人のままでは叶わないものなのだから。
「あ……」
歩いて、歩いて、辿り着いたのは白い花畑だった。
花一本一本が輝いていて、暗がりな森の中に現れた幻想のような場所。
【穢せ!】
頭の中で再び声がする。
ふらつく体はその花畑を求めていた。
渇き切った喉が水を求めるように、私は無意識に自分の手を……伸ばさないように抑え込んだ。
【穢せ! 貴様の恨みを! 受けた理不尽を! 死をぶつけよ! 霊脈に接続すれば貴様はまだ生き延びれる! 思い出せ! 貴様はまだ終わっていない!! この大蛇が選んだ至上の生命になれるかもしれないというのに!!】
ガンガンと頭の中で声がする。
頭の中から声がするのは当然だ。
異国の伝承……八つの首を持つ蛇の首の一つが私に溶け込んでいる。私はこの声と共に罪を重ねてきたのだ。
曰く、私はこの蛇に選ばれた。けれど……私を選べるのは神か私自身だけだ。
そんな当たり前の事に、今まで気付かなかったなんて。
「残念ね……私はもう、願いを叶えた」
【あれが願い? あんなささやかなものが願い!? 欲望!? 否! 断じて否!! もっと食らえ! 二度目の生であるならもっと求めるものがあるはずだ!!】
「諦めなさい悪しき龍よ……。貴様の八つの首が一つ……このジャンヌ・ダルクが貰っていく……!」
私は白く輝く花畑……霊脈には入らず近くの木にもたれかかる。
ここはきっと誰かにとっての思い出の地。
ただ最後に辿り着いた綺麗な風景として瞳に焼き付けて、私はこの蛇の首と逝くことを決めた。
「ああ……綺麗な場所……」
最後に出会った親切な人。
最後に満たされたお腹。
最後に辿り着いた、美しい風景。
一度目の生の結末に後悔は無い。けれど二度目の最後があまりにも穏やかで……私はこれから死ぬはずなのに、恐怖も無く瞳を閉じることができた。
「化け物の死に場所には……勿体……ない……」
傷ついた核から魔力が消えて崩壊する。
最後の瞬間まで私が殺めた人々に謝罪を重ねて。
それで許されるはずもないけれど、せめて最後はそうやってこの世界から逝こう。
「…………」
――かくして魔法生命ジャンヌはこの世界を去る。
その表情にはもう狂気は無く。
本当に望んだ願いと温もりを胸に、最後に人間としての思い出を魂に刻みながら消えていく。
自分の欲望を忘れて歩き続けた怪物を本当の意味で討ち取ったのは……たった一度の昼食だった。
消え行く女性の頭上では、白い鳩が大空を飛んでいた。
いつも読んでくださってありがとうございます。
ジャンヌ編はこれで終わりとなります。アルムが絡まない最後のお話でしたがいかがだったでしょうか?
今日は自分の誕生日なので感想やレビュー、作者のお気に入り登録などお祝い代わりにしてくださると嬉しいです。




