754.オルリック家
「夜属性……? 何だそれは?」
「自分達の属性の天敵です! 父上! そいつから離れ――」
『遅い』
完全に黒煙と化した鵺の前足が音もなく伸びる。
目視では獣の足なのかただの黒煙なのか識別できない。
だが黒煙はゆらりと揺れて、その意思のまま撫でるように【雷光の巨人】の剣に触れた。
「なに……!?」
鵺の足が触れた剣先から徐々に【雷光の巨人】の雷属性が消えていく。
流石のクオルカもこの事態を予想できなかったのか表情には動揺が表れていた。
自身が誇る最強の魔法であり長年貴族として強く在り続けたオルリック家の歴史の結晶がこうもあっさりと崩れる姿は記憶になかったのである。
『流石に血統魔法……触れた瞬間に消滅とはいかないが……』
巨躯に走る雷の魔力も消え、黄色の魔力光も消えた。
【雷光の巨人】はただ騎士の形をした魔力の塊に成り下がる。
血統魔法を支えるのは魔法としての在り方と家の歴史そのもの。汎用の魔法のように夜属性の魔力に触れた瞬間に自壊するような事こそなかったが、属性をかき消されて魔法の"現実への影響力"は当然激減する。
そう、魔法と魔力の間に位置付けられる曖昧な魔法……無属性魔法のように。
『にゃららら! ハリボテだ』
「こりゃいかん!」
鵺が口のような黒煙を開くと、そこに黒い魔力光が集中する。
属性が消え、ただの巨人となった【雷光の巨人】からクオルカはすぐさま飛び降りた。
『【捌奈落】』
鵺の口から放たれる黒煙のブレスが巨人を呑み込む。
本来の"現実への影響力"を失った巨人がその威力に耐えられるわけもなく……巨人は黒煙に包まれそのまま融解し、ただの魔力となって霧散した。
「属性の特性に干渉できる属性か……"浸食"の特性を有する闇の派生属性だな?」
「流石父上、理解が早くて助かります!」
「理解が早くても対抗策が思いつかん。数十年前の戦争時にはこのような属性は無かった。水の派生である毒属性なるものは見たことあるが、ここまで極端な特性ではなかったはずだ」
夜属性は元々は常世ノ国で生まれた属性であり、常世ノ国と密かに交流があったカンパトーレの魔法使いくらいにしか周知されておらず、そのカンパトーレですら近年まで実用化に足る使い手がほとんどいなかった属性だ。
魔法大国と言われるマナリルでも変異させたのはリニス・アーベントのみであり、ダブラマですら使い手が存在しない(ダブラマは代わりに鬼胎属性が発現しているが)希少性を持ち……クオルカのような熟練の魔法使いですら存在を知らないのである。
いわば初見殺しに近い属性。そして相手が人間ならまだしも、敵が巨大な怪物とあらばその脅威は遥かに増す、
「『炎王の祝詞』」
「『雷鳴一夜』!」
夜属性が無効化できるのは直接魔力が触れた魔法のみ。使い手の肉体そのものに影響する補助魔法は無効化できない。
それを知っているルクスとファニアは向かってくる黒煙の獣に対抗すべく、すぐさま強化の魔法を唱えた。
『にゅららら! 肉体の性能で競うか? この俺様と?』
しかし……それだけで勝てるなら対魔法生命に苦心するわけがない。
鵺は嗜虐を望む意地の悪い笑みを浮かべながら、黒煙の爪を伸ばす。
敵は少し小さくなったとはいえほぼ誤差だ。見上げればやはり二十メートルはあるだろう。黒煙の体に代わり、動物の肉体の力強さがなくなっただけで脅威度はさして変わらない。
そんな怪物が前足を無造作に人間に振るえば、当然結果は見えている。
「ぐ……うううううううううううあ!!」
「ぐ……むうっ……! 老体には効く……!」
『にゅららら!!』
術も何も無いただ前足で薙ぎ払おうとした一撃をルクスとクオルカが体を張って軌道を逸らす。完全に防ぐなど今となっては高望みだ。
鬼胎属性と夜属性の共存する肉体だからか"現実への影響力"は少し下がっているものの、人間を殺すだけならば大して違いもない。
わかりやすい相性による劣勢。属性による絶望。生命としての性能による蹂躙。
だがそれで思考を止めて諦めるようならば……とっくの昔にこの男は死んでいる。
「ファニアさん! 宿主を!!」
ルクスは口内で血の味を感じながらも鵺が吐き出したノブツナが走っていった方向を指差す。
「核があるとすればあっちだ! 機動力があるファニアさんが追ってくれ!!」
「心得た! 【夜空駆る光華】!」
ファニアは剣を構え、血統魔法を唱える。
重なる声と共にファニアの体が燃え上がり、炎に包まれながらファニアの目が赤く輝いた。
ファニアの血統魔法は魔法を纏う事による高速移動。足に力がこもる瞬間を逃さず、鵺はファニアに飛び掛かる。地面を揺らがせながら黒煙となった巨体が宙を舞う。
「「【雷光の巨人】!!」」
飛び掛かる鵺の横から二体の雷の巨人がその巨体を活かして突進する。
触れた瞬間、二体の巨人はどちらも雷属性の魔力が消失するが……巨体による突進の威力はそのまま残っており、ファニアの前方から鵺の巨体をどかした。
巨体と巨体がもつれて倒れ、周囲に地響きが響き渡る。
「こいつは僕と父上で抑えます!!」
「行けファニア殿。ルクスの言う通りそちらは任せる」
「了解。ファニア・アルキュロス……任務を遂行します」
ファニアは血統魔法による高速移動でその場から飛び立つ。
向かうは宿主。狙うは魔法生命の核。
この場にいる二人を信じてファニアは飛んだ。
『無駄な事する……自分が向かえばいいだけの話だ』
起き上がった鵺は高速移動するファニアを視線で追う。
その間を遮るようにルクスは鵺の前に立った。
ほんの少しの時間稼ぎになればいいとルクスは鵺に語り掛ける。
「その姿……一体化した宿主を切り離すなんてリスクが高い事をしなければなれないんだろう? 煙のような姿から察するに、実体を有する宿主と一体化すると成立しないってところかな」
『それがどうした? その程度わかったところで我を倒した気にでもなったか?』
「いいや? だがいいのかい? 一体化しなければ霊脈への接続は難しいんじゃないのかな?」
『霊脈の接続……? にゅららら! 安心するといい、余は神の座などに興味は無い』
「なんだって……? ならば何故オルリック領に来た? 僕を殺しに……なわけないか。僕を殺すならアルムやミスティ殿のほうが優先のはずだ。君達にとっては特にね」
それはルクスの自己評価が低いのではなく真っ当な分析からの結論だった。
鵺はそんな冷静なルクスを見て笑う。
黒煙の顔で表情が見えないというのに、その笑みは残忍で不快を催す絵画のよう。
『僕は不吉を運ぶ怪物。私の目的は世界に不吉をもたらす事にある……であれば、今のこの世界はあまりに安定し過ぎている。人間と大蛇の対立構図など不吉には程遠い』
「……軽く言ってくれるね」
『そうとも。二年前までは様々な魔法生命が散らばり、思い思いに人間を蹂躙していた……生きて話を聞いているだけで酒も人もうまかったというのに、貴様らによって魔法生命の数も減った。ファフニールも大嶽丸も、大百足もいなくなってモルドレットは戦線を離脱……アポピスも復活しない。そんな世界、吾輩は望んでいない』
喉から聞こえる雷鳴のような笑い声。
鵺は呪詛をばら撒きながら自分の欲望を語る。
世界をもっと混迷に。歩けば呪詛と恐怖に出会うような。
人間と怪物。怪物と怪物。人間と人間。
疑い合い、恐怖の衝動に動くようになり、怯えて眠るような日々こそ望み。
大蛇だけが脅威の世界は鵺にとってはあまりに望みからかけ離れている。
大蛇が勝てば人間は支配されるが、その世界は人間の敗北によって安定してしまうだろう。人間が望んでいない形であるとはいえ、そんなもの鵺にとってはつまらない。
人間が勝てば人間はその勝利に希望を見てしまう。そんな世界も鵺は望まない。
ならば――新たな勢力を生まなければ。
『鵺の目的は常世ノ国の巫女にしか出来なかった新たな魔法生命の召喚――そしてその魔法生命の宿主としてアオイ・ヤマシロの死体を使うことだ』
「……あ?」
ルクスの額に青筋が張る。
鵺の目的があまりに許せぬものだったからか……憤怒に満ちた血が顔に上って、明らかに普段とは違う顔を見せた。
その表情を見て鵺は満足そうに黒煙を漂わせる。
「……こいつは何を言っているルクス?」
「……」
話が半分ほどしかわかっていないクオルカの表情も険しく変わる。
ルクスのように完全に表に出しているわけではないが、鵺を見る目付きは当然のように鋭くなった。
『貴様なら死体を宿主にする術は知っているだろうルクス・オルリック? スピンクスやサルガタナスがそうだった。あの二体はさして位が高い存在ではないゆえに宿主の蘇生まではかなわなかったが……余が召喚するは国を跨いで神獣と呼ばれる"九尾"、奇跡の一つや二つ起きてもおかしくはない』
「……」
にたり、と鵺は笑う。
黒煙で正確な形は見えずともその悪辣さが垣間見えるような変化だった。
死者の復活……本来ならば有り得ない話だが、魔法生命が話すからこそその言葉には真実味が増す。なにせ魔法生命そのものが二度目の生を歩む生命体なのだから。
だが鵺にとってルクスの母親が蘇るかどうかなどどちらでもいい。
奇跡を望む人間の前に砂粒程度の希望をちらつかせて心を弄ぶ……ただそれだけのこと。不吉をもたらし、世を不安定にもたらさんとする在り方ゆえだった。
人間の精神が不安定になれば当然、人の世は不安定なものになるのだと鵺は知っている。
『母親に会いたくはないか? 一目見たくないか?』
「……」
ルクスは黙ったまま鵺を見つめている。
『妻を愛していると言ったな。であれば、悼むよりも再会したいのではないか?』
「……」
クオルカは黙ったままルクスを見ている。
『人間に奇跡は起こせない。だが星と神ならば可能だ。私は神に並ぶ獣をこの世界に呼ぶ……自分は神になる気は無い。だが奇跡を可能にする者を呼ぶ土壌がこの星にはある。
神無きこの星で奇跡に縋るというのは、この上なく幸運な巡り合わせだぞ?』
鵺はそんな二人の無言に改めて笑顔で応えた。
人間はどうしようもなく弱い。だからこそ幸運や奇跡を切望する。
一番大切な人間との再会という奇跡を前にして、ルクスは無言を破った。
「話は終わったか?」
『……ほう?』
ルクスを見て鵺は怪訝な声を上げ、クオルカは満足そうな笑顔を浮かべた。
「最初こそ怒りを覚えたが……あまりに的外れな高説に馬鹿らしくなったよ。わざわざ自分から時間稼ぎをしてくれてありがとう」
『ふむ……餌がよくなかったか?』
「いいや? 恐らくは僕にとって最も魅力的な提案だったとも。母上との再会は僕が一番望むことだ」
鵺にはわかってしまう。ルクスの心は本当に揺れていない。
「母上は言った。あなたが立派になる所を見たかった、と」
『ならば――』
「なればこそ、その心残りを母上亡き地で示すのが僕のやるべき事だ。お前の言葉に乗った僕はきっと、母上の見たい僕じゃない」
ルクスの金の瞳に宿る意志。
亡き母をだしに自分の心を弄ぼうとした鵺に対する怒りはある……だがそれでいてルクスの心は平静を保ったままだった。
「母上は人間を脅かす怪物と戦った。これから生まれてくるであろう次代を守るために……ならばその意思を無視する事は母上に対してどれだけの侮辱となろうか。新たな魔法生命の召喚? 奇跡をちらつかせたくらいでそんな蛮行を許すと思ったのか?」
ルクスと鵺の体格差は一目瞭然。
それでもルクスは一歩も引きさがることなく胸を張って立ちはだかる。
対峙し、鬼胎属性の魔力によって恐怖の記憶を流し込まれながらも……その精神は決して揺らがない。
「僕はマナリル四大貴族の一角、オルリック家その次期当主……ルクス・オルリック! この名において僕の大切な人達がいるこの国を脅かそうとする貴様を許さない」
『それは上々。ならば、この夜を前に惨たらしく死ぬといい』
「いいや。僕には追い付かなければいけない友がいる。隣に立つ守りたい者がいる。母上の所に行くにはまだ早い」
ちらつかされた再会の奇跡に惑わされることなく、ルクスは自身の在り方を選ぶ。
貴族として。魔法使いとして。そして彼に相応しい友として。
ルクスの背中を見たクオルカはその姿に涙を流していた。




