750.親子の語らい
(……眠れないな)
一年ぶりの自室で眠っていたルクスはふと夜中に目を覚ます。
馬車での長旅の疲れを癒し、体を万全にするためにももう少し眠らなければいけないとわかってはいるのだが……もう一度目を閉じても眠れる気はしなかった。
いつもなら問題なく熟睡できている時間だというのに、目が冴えている。
「……水でも飲むか」
ルクスは部屋から出ると食堂のほうへと向かう。
すると食堂には明かりが点いていた。全体を照らすような照明用魔石の光ではなく蝋燭の淡い光のようだった。
ルクスが食堂を覗くと、そこには自分の父クオルカが座って酒を飲んでいた。
からん、とグラスの中の氷が静かな夜に音を立てる。初老の男性と夜の酒……その音が何ともよく似合う絵面だった。
「む……? ルクスか」
クオルカはすぐにルクスがいる事に気付いたのか振り向く。
月に照らされて光る金髪と年季が作り出した渋い顔立ちは今でも異性を魅了するであろう。
「父上、こんな時間にお酒ですか」
「ああ、そんな時もある」
ルクスは水を飲むと自然と父から少し離れた場所に座った。
何となくだが近くには座りがたい雰囲気を放っていた。月光のせいだろうか。
「……ルクス」
「はい」
ただ名前を呼ばれただけだというのに、クオルカのただならぬ雰囲気にルクスの背筋が伸びる。これが歴戦の魔法使いの醸し出す雰囲気というやつなのだろうか。
クオルカはルクスの名前を呼ぶとグラスの酒を飲み、少し間を置いたかと思うと真剣な眼差しでルクスを見つめた。
つい生唾をごくりと飲み込む。ルクスの体全体に緊張が走った。
「本当に……エルミラくんと仲違いしたわけではないんだな?」
「……はい?」
そんな緊張もクオルカの一言で吹き飛んだ。
伸びた背筋が緩むのを自分でも感じる。
「それとも……エルミラくんは私のことを恐がっているのか……? 確かに顔立ちが柔らかいほうではないが、これでも若い時はだな……」
「いや、父上……本当に違うんで安心してください……。心配されなくともエルミラとの仲は良好です」
「本当か? いや、ルクスが言うことならば嘘はないのだろうが……私が原因でもなければ喧嘩をしたわけでもないんだな?」
「はい……諸事情からエルミラと何故二手に別れたかは説明できないのですが、順調に交際を続けているので安心してください」
「そうか……ならばよい」
クオルカはグラスに酒を注ぎながら微笑む。
酒に詳しくないルクスから見てもそこまで上等な酒ではないようだ。察するに平民でも手が届くような安価な酒だろう。
酒を味わいたいのではなく、ただ酔いたいのかもしれない。それか、町で売られていた酒の味が好きなのかもしれない。
後者のほうが父上らしいな、とルクスもこっそり微笑んだ。
「ルクスも卒業すれば成人か」
「え? ええ……」
「そうか……早いな。昨日のようにお前が産まれた時の事を思い出せるというのに」
「父上、流石に昨日のことというのは言い過ぎでは……」
「老いればそんなものだ。お前も私くらいの歳になればわかる。そうか……来年には一緒に酒を飲めるようになるのか」
クオルカはルクスの前にある水の入ったグラスをちらりと見た。
「その時には私がお前の分を注いでやろう」
「では自分は父上の分を」
「ふははは、それは父親冥利に尽きるな」
「当然です。父上を尊敬していますから」
ルクスが感謝を込めながらそう言うと、クオルカはグラスの酒を飲み干す。
長く貴族として生きてきたクオルカでも息子からの喜びを隠せないのか、口角は少し上がったままだ。
息子の言葉を肴にクオルカはもう一杯グラスに酒を注ぐ。酒に強いのか酔っぱらう様子は全くない。
「ルクス、友人とはどうだ」
「今日の父上は少し心配症ですね……心配しなくても仲いいままですよ」
クオルカは遠い目をしながら言う。
「私の学生の頃の友人はみんな死んだ」
父が何を伝えたいのかはわからなかったがルクスの背筋が自然と伸びる。
「今のように安定しているわけでもなく戦闘が日常茶飯事だったからな。ダブラマとの小競り合い、カンパトーレの工作、ガザスの侵攻……マナリルは大国だが他国に囲まれているのもあって私が若い頃は至る所で戦いが起きていた。友人の中には当然優秀な者もいたが……それでも生き残ったのは私だけだった」
「父上の実力があればこそです」
クオルカはルクスのほうに向き直る。
テーブルを挟んでいたが、その距離を感じることはなかった。
しかしクオルカの口から出るのはルクスが想像もしていないことだった。
「ルクス。お前は戦ってもいいし、逃げてもいいのだ」
「な、なにを!?」
「これはお前が私の息子だから言っているわけではない。どちらも正しいのだ」
ルクスは勢いのまま立ち上がる。
昼には自分を魔法使いとして並ぶのを認めてくれていると思った父からまさかそんな言葉が出るのかと。
そしてなにより……マナリルの勇猛な魔法使いクオルカ・オルリックから逃げる選択肢を提示される事に怒りを覚えた。
「お前が死んで悲しむ恋人、そして友人がいるだろう。そしてそれはお前が生きて喜ぶ恋人であり友人でもあるだろう。お前は今日まで強く生きた……そして本当の意味で想い合える人達と出会えたからこそだ。そしてそれは逆も同じだ。お前の恋人や友人が死ねばお前は絶望するだろう。しかし生きていれば抱き合って喜ぶだろう」
「父――」
「ルクス。"魔法使い"になるからと、戦うだけを是とするな」
ルクスの言葉を遮りながら声色が変わったクオルカの言葉が夜に響く。
これが先達である父から子への教育なのだとルクスは実感する。いつの間にか怒りはどこかへ消えていた。
「人間は強く同時にとても弱い。昨日まで勇猛だった者が明日には死に怯える時だってある……ルクス、どちらも肯定できる人間となれ。戦う事も逃げる事もどちらも正しい事を知った上で、"魔法使い"となるのだ」
「脅威が迫ってなお逃げる事が、正しいと? 僕達は魔法使いなのに?」
「ではルクス……お前は恐怖に震え、逃げ出したいと涙ながらに言う友人に、お前は間違っていると言う気なのか?」
「――――」
ルクスの言葉が無くなる。
そんな状況は想像できないが、もしそうなった時……そんな事は言えるわけがない。
そうなった時、本当に戦う事こそが正しいと言えるだろうか?
「脅威に立ち向かい戦うのは"魔法使い"としてなんと素晴らしい在り方だろう。だがそれだけが正しさではない。戦わなければいけない時と逃げだしたくなる時というのは困った事に同じことである場合が多くてな……重要なのはその選択をした本人がその在り方を選んで後悔がなかったかどうかだ」
「後悔……」
「どれだけ勇猛に戦っても死の間際に後悔する事もある。逃げて助かったとしても死にたくなるほど後悔する事だってあるだろう。逆に後悔しない死もあれば、逃げてよかったと思う時もきっとある。だからこそ視野を広く持ち、自分が正しいと思った選択を選び取れ。
それがお前という人間の歩む人生を素晴らしいものにする。自分は間違っていなかった、そう思えるような人生の一歩となる」
クオルカは険しい表情でそう言い終わると微笑む。
魔法使いとしての表情から父としての表情に切り替わったかのように柔らかかった。
「お前の母であるアオイは、常世ノ国から逃げて私と結ばれた」
「母上……そうですね、自分も話は聞いています」
「ああ、アオイが逃げてきてくれたから私はこんなにも幸福な人生を送れている。生涯愛する妻と出会い、最愛の息子が立派に成長した姿を見れている。友が全て死に、虚ろだった人生がこんなにも輝くようになった」
夜が二人を照らす。
父と子の形を照らす。
父から子へのメッセージ。成人前の最後の教育。
立派に成長したからこそ伝えられる"魔法使い"として、人間としての在り方を伝える話。
強く若いという理由だけで命を懸けてほしくない親心がクオルカの声には詰まっていた。
「お前の母が逃げてきたからこそ、私は救われた。私にとっての"魔法使い"は間違いなくアオイだ……母の選択をお前は笑うか?」
「いいえ、そんなはずありません」
「我々人間は誰よりも強くもなれる時もあればどうしようもないほど弱くもなったりする。本当の意味で、弱きを守る"魔法使い"になってくれルクス」
「はい」
短くそれでいて力強い返事を最後に会話は終わる。
グラスに入った氷は溶けて、もう何の音もしなかった。




