748.隠さぬ本音
魔法生命――鵺の宿主である男、ノブツナ・ヤマグチは常世ノ国でも有名な家でもなければ本人も有名な人物ではなかった。
自分のやりたい事もよくわからず、学び舎をそこそこの成績で収めながらただ祖父から譲り受けた刀を振る事が好きなだけの少年だった。
特徴と言えば常世ノ国の男子にしては長く伸びた青い髪くらいなものだろうか。祖父がそうしていたのを真似してその長髪を後ろで結めばそんな特徴も目立たない。
ノブツナは自分の欲があまりない男だった。
当主になどなってもなぁ、と弟に家督を譲った。
弟は泣いて喜び土下座しながら礼を言ってきていたが、ノブツナにはとっては当主になる事はどうでもよかったのでここまで感謝されるのかと驚いた。あまりに弟が喜んだので本音を言えぬまま家を去った。
魔法使いになって出世するのも何か違うなぁ、と指名してきた部隊に別の者を推薦した。
推薦した者は学び舎時代の同級生だったようで土産を持って家まで礼を言いに来た。お前のお陰で密かに憧れていた部隊で働ける、と喜んでいたがノブツナにとっては感覚で断っただけの事だったので愛想笑いをするしかなかった。何度も礼を言われている内に、本当の事を言えば水を差すだろうと口を閉ざした。
ノブツナはこの二つの経験から自分の本音がどうであれ他人の目には善人に映る場合もあるということを学んだ。
庭で刀を振っていれば真面目に鍛錬する若者に見えるし、弟に家督を譲れば弟思いの兄に見え、他人を推薦すれば周囲をよく見ている人格者に映る。
本音がなんであれ、現実の行動さえよくしていればある程度は真人間に映るのだと。
家も継がず、魔法使いにもならなかったノブツナが選んだ仕事は門番だった。
元々貴族だった青年が、高名な貴族とはいえ他の貴族に仕えて門番をするというのは本来なら他者にとって奇に映るだろうが……今までの行いからかノブツナが悪く言われることはなかった。
むしろ貴族出身の門番なんて頼もしいことだとも言われるくらいだった。
本音はただ刀を腰に差していてもおかしくなく、休憩時間に刀を振っていても熱心な若者と見られて都合がいいからだった。金を稼ぎたいわけでも偉くなりたいわけでもなく、そこそこの給料を貰ってそれなりの生活ができればよかったノブツナにとって理想の職だった。
貴族として、魔法使いとしてなどどうでもよく……どちらかといえば刀を振るうだけの剣士になりたかった。当たり前だがそんなものは大昔に廃れていて、職として成り立たない。なのでこうして刀を振れる職場というだけで満足だった。
――そんなノブツナに転機が訪れた。
「いつもありがとうございます」
使わせてもらっている庭の隅で声を掛けられた。
誰かと会話するよりも刀を振りたかったが、雇われている身として受け答えしないわけにもいかないのでノブツナは手を止めて振り返った。
「――――」
「最近、門番になられた方でしょう? いつも我が家を守って頂きありがとうございます。初めてお会いしますね……私はアオイ・ヤマシロ。このヤマシロ家の当主でございます」
烏の濡れ羽色をした髪に柔らかな黒い瞳。
一人だけ光を放っているのではと思うかのような美貌。
下の者に礼を失せず、それでいて高貴さを欠片も損なわない佇まい。
仕えるべき主のことなど気にも留めていなかったが、ノブツナはその名前を心に刻んだ。言葉が咄嗟に出ず、ただその笑顔を眺めることしかできなかった。
「鍛錬中に申し訳ないのですが、少しお耳に入れなければいけないことがあるのです……よろしいですか?」
「は! な、なんでしょうか!」
「たまにお庭に猫さんが来ることがあるのです……なので、猫さんを見かけたら刀を振るのを少し止めて頂いてもいいですか? 猫さんが怯えてしまってはいけませんから」
「わ、わかりました! アオイ様!」
「ありがとうございます。それではお邪魔しました。今日は猫さんもいらっしゃらないようなのでご自由にお過ごしくださいな」
そう言ってアオイという女性はお付きの者を連れて廊下を歩いて去っていった。
去っていくその後ろ姿にノブツナは釘付けになった。
「アオイ様……」
一人庭の隅に残されたノブツナは名残惜しむかのように名を呟いた。
「アオイ……様……」
家の当主になりたいとも思わなかった。魔法使いになりたいとも思わなかった。
金持ちになりたいとも、偉くなりたいとも思わなかった。
ただ刀を振っていればよかった人生に訪れた転機に、ノブツナはよだれをすすった。
「なんて、綺麗な御方なんだ――!」
口から零れそうになった欲望を何とか、彼女を見た時に抱くであろうありふれた言葉に変えて踏みとどまる。
誰かに聞かれればこの天職も失うだろう。
ノブツナは誰にも聞かれるわけにはいかないありったけの欲望を心の中で叫んだ。
(ああ、あの首を斬って飾ることができたらどれだけ満たされるであろうか!!)
自分は刀を振るのが好きだったのではなく、ずっと人の首を斬りたかったのだとノブツナが気付いた瞬間だった。
視界に今彩りが足されたように世界が輝いて見えた。
花の香りも、池で跳ねる水も、広がる青空までも……全てが愛おしくなった。
自身の欲望を自覚して、俯瞰したように遠かった世界が一気に近くなったことにノブツナは喜びを覚えた。
これが生きるということなのだ。
これこそが生を実感するということなのだ。
自分の欲望を自覚する――たったそれだけで蛹から蝶へと変わったかのようだ。
ノブツナは喜びに震えながらその日の仕事を終えた。
……きっとこの欲望は他者には受け入れられないものなのだろう。
けれど心配はいらない。
本音というのは外に出さなければ、何を思ってもいいのだから!
その日以来、ノブツナは刀を振る時に人の首を斬る想像をする事にした。
唯一の趣味だった素振りの時間が今まで以上に多幸感で満たされた。
何人、何十、何百の首を斬っても熱心だと褒められる。どれだけ素敵な時間なのか。
熱心な青年という現実と首切りの欲望という想像の合間で……ノブツナという人間はその人格を完成させた。
魔法生命――鵺の宿主になれたのは必然だった。
アオイが常世ノ国から逃げた後、ノブツナは鵺の宿主となった……二人の失敗を経て、ようやく適合した鵺という魔法生命はノブツナに語り掛ける。
『本音を心の内だけで片付けてもいいのか?』
それは蜜を目の前で垂らすような誘惑だった。
ノブツナにとっては娼婦百人に誘われるよりも甘美で価値がある。
『せっかくの二度目の命。自分はやりたい事をやるぞ』
この本音は心の中だけ許されるはずなのに。
……倫理が、外されていく。
『私は喜んでいるわよ。童と話の合う人間が宿主になってくれるなんて思ってもみなかった』
学び舎で詰め込んだ道徳が塗り潰されていく。
鬼胎属性の魔力のせい?
否。断じて否。
『Iは生前、何もできなかった。人を喰らうこともしなかったし、作物にも手を出してない、ただ不吉を運んだだけ。その不吉も運ぶ前に僕は殺された。
未練を持って死ぬのはとても、辛かった……それは俺様が一番よくわかっている。後少しで人間の都一つを魔で満たすことができたかもしれないのに――!』
「未練……か」
『ああ、そうとも……宿主はその本音を心の内にしまったまま死ねるのか?』
「……」
できる、と答える事ができなかった。
本音とは隠すものとして生きてきたノブツナにとってあまりにも本質を突いた問いだった。
好青年として見られている現実と首斬りの欲望という本音の狭間で揺れる。
揺れた時点で、答えは明白だったのかもしれない。
『自分は自分のやりたい事をやってみるぞ! 生前ではできなかったことに挑戦しようではないか! 自分の欲望をせき止める必要がどこにある!?』
「そんなことをしたら、吾輩は人間とは言えなく……!」
『何を言っている? 自分の欲望を隠したまま死ぬほうが人間とは……いや、生き物とすら言えないと思わないか?』
鵺はノブツナにとって一番欲しい言葉をくれる相手だった。
人間とは違う残虐な思考と常識が……人間の社会に溶け込めないと理解し、心の中にしまっていたノブツナの欲望を簡単に引っ張り出していく。
『なあ宿主……素振りはもう飽きたんじゃないのかな?』
人間とは違う残虐な思考と常識がノブツナという首斬り剣士を解放する。
互いに気が合ったためか鵺とノブツナの適合率は高く、宿主の人格が浸食されることもない。
それでいて神になる気はなく……ただ互いの欲望を補完するだけのコンビが誕生した。
『欲望が晴れないか? 宿主よ?』
「ふうむ……どうやら、吾輩はただ首を斬れればいいだけではないらしい。やはりあの日見た女性のように美しい女性の首を斬らねば満足できないらしい」
『宿主は面食いだな。いや、面斬りか?』
鵺とノブツナは物騒な雑談を繰り広げながら街道を歩いている。
ノブツナは凍らせた生贄の首九つを背負っており、まとめている風呂敷を広げたらその場で即席のホラーショーの開幕だ。
「君が吾輩と同じように首だけを斬り始めた時は何事かと思ったが……生贄という目的がちゃんとあって安心したぞ」
『生贄を作るついでに宿主がやりたい事を僕もやりたくなったのだ』
「感想は?」
『ふうむ……特に面白くもなくといったところかな』
「残念なことに同感だ。吾輩もそこらの人間の首を斬るだけでは特に面白くもなかった」
『にゃららら! やはり斬るなら美人がいいか。宿主にとって首だけの頭というのは芸術品と同じなのだろう……そこらの凡作では満足できないということだな』
笑いながらも自分を理解してくれる鵺の言葉にノブツナも笑顔を見せる。
ああ、次こそは斬りたい首を斬れるだろうか、とノブツナは腰の刀に目をやった。
しばらく街道を歩いて、見えてきた看板にノブツナの表情がつい綻ぶ。
そんなノブツナの頭の中に、鵺の嬉しそうな笑い声も聞こえてきた。
『ほうら着いたぞ! ここが目的地のオルリック領だ』
「おお! ここにアオイ様の遺体があるのか……楽しみだな鵺!」
『宿主が見惚れるほどの首だ……さぞ九尾の器に相応しかろうよ』
目的は埋葬されているルクスの母親――アオイ・ヤマシロの遺体。
まだ見ぬ異界の怪物を宿すに相応しい器を求めて、怪物達はオルリック領に足を踏み入れた。
「なあ鵺! 一回! 一回くらい首を斬ってもいいだろう!? 一度でいいから首だけになったアオイ様を見たいのだ!」
『興奮するな宿主よ……まぁ仕方がない。一回だけだ。器にならなくなったら困るからな。だが骨になっている可能性もあるぞ』
「よいよい! 骨となってもあの首はさぞ美しかろう」
その足取りは羽のように軽く、街道を跳ねるように走っていく。
 




