745.混迷に落ちよ
「お腹が空きました……」
小さな村で座り込む白い服を纏った女性がいた。
いや、もうここを村を呼べる状態にはないだろう。
小さくも家畜と共に暮らしていた人間の集団は夕暮れが夜に変えるまでに彼女の夕食と変わっていた。
家はただの瓦礫に変わり、生活の跡は消えて赤い血がまき散らされて、あるのは凄惨な現実のみ。血だけがそこらに撒かれていて、人間の死体が一つもないのが不気味さを加速させる。
お腹が空いたと言いながら、女性は細長い肉を食べていた。
指だ。キャンディのように口の中で転がして、パキョパキョ、と小気味いい音を鳴らしながら骨ごと食べている。
「お腹が空きました……」
ため息とともに立ち上がる。
村にいた数十人を腹に入れてもなお、女性は飢えを訴えた。
村で飼われていた牛などの家畜はそのまま残っていたが、それには目もくれず女性は歩き出す。
村人を惨殺し、血で滴っていた衣服はいつの間にか真っ白に戻っていく。
「食べても食べても空腹なまま……。主よ……これは試練なのですか……? それとも主に用意された糧を全て食べきってない罰なのでしょうか……?」
自分が何をしているのかを正しく認識できないまま女性は食べる。
食べる。食べる。食べる。
その身に収まるはずがない量の人間を食していく。
理屈もわからぬまま、魔法生命として強くなっていく。
「ただの人間にはなんと厳しくも辛い試練……ですが、私はきっとやり遂げてみせましょう」
早く逃げろと脅威を伝える誰かすらもうここにはいない。
女性は手を合わせてぼそぼそと祈り始める。
村を一つ滅ぼし、村人全員を腹に入れたとは思えない女性は祈りを終えると……そのままその場に寝転がり、無垢を纏ったまま寝息を立て始めた。
「君は大蛇に従わなくていいのか?」
滝の音がする。男の前には滝があった。
水を絶えず下に叩きつけて轟音を立てており、男の声はかき消される。
男が立つ薄暗いこの場所は滝の裏だが、滝がほんのりと白く光っているおかげか周りを確認できるくらいの明るさが保たれている。
ここは近くにある村からは穴倉と呼ばれて気味悪がられ、人の寄り付かない霊脈だ。大手を振って出歩けない怪しい人物が滞在するには都合がいい。
男は余計な装飾もないどこにでもありそうな平服を着ているが、腰には刀を差している。刀は常世ノ国の武器であるため、見る者が見れば常世ノ国の兵士、もしくは魔法使いである事がばればれだ。
そんな身分を隠しているのかひけらかしているのかわからないアンバランスな風体をした男の声は穴倉に反響するが、そこには男一人しかいなかった。
『私は大した怪物ではない』
声は不自然なほど透き通って聞こえた。
水を叩きつける滝の音など関係無い。
『人間を殺した記録は残っていない。殺戮を繰り返した事も無い。人を喰らってもいない。僕によって無辜の命は散ったことはなく、社会を動かす貴人の命が奪われた事もない。だというのに、吾はさも大妖のように扱われる……何故だと思う?』
「……吾輩の質問は無視かな?」
『無視じゃないよー! これは前置きだよ宿主さん。人間はこのように会話をするだろう? しないのかね?』
「人によるかな」
『なら私がこんな話し方してもいいよね!』
「こんな事を言うのは何だが……吾輩が不快になるとわかっているのだからあからさまに色々混ぜないでくれ。声が一緒で口調だけころころ変えられるとあまりにも気持ちが悪い」
『いや悪いな宿主……悪気がないという事だけはわかってくれ。俺様は不安定なのだ。掴みどころがない男なのだ』
「その言葉はそういう意味じゃ……いや、いい……それで? 何故なんだ?」
宿主と呼ばれた男は頭を抱えながら、自分に宿る魔法生命に話の続きを促す。
自分の疑問は置いておいて、先に話をさせてやろうと思ったのは当然、先程のように頭の中で口調だけが変わった一人数役で会話をされるのが嫌だったからである。
しかし、その渋々を隠さない譲歩がこの宿主と魔法生命が良好な関係を築いている要因でもあった。
『拙者は不吉を運んだからだ』
「運ぶ?」
『そうだ。やった事といえば夜と黒煙と共に鳴いただけ……ただそれだけで自分は人間を震え上がらせる大妖と扱われた。何も傷付けておらず、何も殺してなどいない……ただ鳴いただけで人間は恐怖で病に伏し、祟りを恐れて祈祷を行い、専用の塚まで建てた。それほどに人間に恐れられていた』
誰も殺していない。誰も傷つけていない。誰も喰らっていない。
それにも関わらず鬼胎属性の魔法生命として存在する。呪詛の塊として扱われている。
宿主の男からすればにわかには信じ難い。しかし宿主として繋がっているがゆえに嘘ではないというのがわかってしまう。
『人間は、自分には想像も出来ぬ暗い運命を最も恐れる』
それは何もしていないというには邪悪な声色だった。
この声の主に口角があるのならば限界まで上がっていたと思えるような。
『未来に起きるかもしれないだけの暗い運命は人間の恐怖によっていくらでも想像され、膨れ上がり、そして現実を蝕む。石ころを蹴れば大地が揺れる、などという馬鹿らしい妄想をしている誰かがいたとして……その者にとってはいずれ来る現実なのだ。
俺はその暗い運命を運ぶとされて呪詛となった。私は人間にとって理解できない存在ゆえに不吉を呼ぶ妖怪と定義されたのだ。拙者そのものが国を滅ぼす災害にならぬように……ただ不吉を運んでくる前の存在とし、あたしを殺せば不吉は訪れない、とね』
不吉を運ぶ怪物を殺せば不吉は訪れない。
なるほど、確かに道理と言えるだろう。
しかし、怪物本人からすればそれは濡れ衣ではないだろうか、と宿主の男は思う。
自分に宿る魔法生命――鵺は何もしなかった怪物と言えるのではないか。
何故……この怪物は喜々として自分が殺された話を語っているのだろうか。
『先程の問いに答えよう宿主……何故大蛇に従わないか』
「え? あ、ああ……覚えていたのか」
『言っただろう。これは前置きだと』
「答えてくれるとは思っていなかったからありがたい。それで? 何故なんだ?」
顔が見えているわけではないのに笑っているのがわかる。
自分の中にいる怪物が未来に起きる不吉を想像して、満面の笑みを浮かべている姿が宿主の男の目に浮かんだ。
人間の想像力ではそれが限界だったが、もっと醜悪な表情をしているだろうという確信もあった。
『どうせなら……もっと、混沌とさせたいではないか』
「どういう……意味だ?」
『大蛇に従っていたら、大蛇が人間を殺し、大蛇が人間を喰らい、大蛇が支配するだけのわかりやすく暗い未来になってしまう。そうだろう?
人間からすればあまりにわかりやすく、想像しやすい未来でありわかりやすく倒さなければいけない存在がいるだけじゃあないか! この不吉がいるというのに? この恐怖がいて!? この殺意がそんなつまらぬ未来を迎合すると!?
人間が恐れるものはわかりやすい悪意やどうにもならない災害だけではない……理解が及ばない存在や現象こそが人間に際限のない恐怖を想像させるのだとこの鵺は知っているというのに、ただ大蛇に従うなど生き返った意味がない!!』
鵺は人間の未来はもっと暗くできると高らかに言い張る。
宿主もまた人間だという事をわかっているのかそれとも忘れているのか。
それでも、宿主の男に伝わってくる感情は呆れるほどに純粋だった。
「その結果が首狩りか? これもずいぶんありきたりだと思うが……」
宿主のの男は後ろを振り向く。
振り向いた先にあるのは氷漬けにされている八つの生首だった。
それは今までこの二人(一人と一体)が狩ってきた人間の首であり、宿主の男が今更驚くようなものではない。氷漬けにしたのも宿主の男の魔法によるものだ。
八人の殺人……他の魔法生命がやってきた事に比べれば小さく、倫理や道徳を放棄すれば人間でもやれてしまいそうな範疇である。
「君達魔法生命は人間を喰って力を取り戻したいんだろう? 何故首だけ狩って……しかも食べないんだ?」
『当たり前だろう。自分は神になりたいなどと思っていない……俺様が求めるのはさらなる混沌。この世界の人間では思いつけない不吉をこの世界に運ぶことに他ならない。この首は生贄だよ。まだ足りないからもう少し欲しいな。協力してくれたまえよ?』
「吾輩が君に協力するのは今更だから構わないが……生贄とは何に使うんだ?」
『私達は霊脈を通じて異界より来た。魔法生命の存在そのものが世界は渡れるものであると示す"現実へに影響力"を有する魔法そのもの……そしてこの世界にはガザスの女王のような異界の力を扱う人間までいる。
これだけの条件が揃っていて何故誰もやらないのかと私には信じられなかったくらいだとも。
俺は不吉を運ぶ怪物! であれば、やる事など一つしかないだろう!? 大蛇は素晴らしい怪物だが……アポピスが消えた今、競争相手がいないつまらないレースでは人間達も殺され甲斐が無いだろうに!』
もっと混沌を。
もっと恐怖を。
もっと凄惨で暗い未来を。
不吉を運ぶ怪物は人間の辿り着く行く末を最悪の形で願っていた。
『宿主よ、"九尾の狐"という化け物を知っているかな?』
鵺は心底からの笑顔を浮かべて自身の目的を宿主に語る。
宿主の男にその表情は見えなかったが……その瞬間だけ滝の音が止まったかのようだった。
国を跨いで悪を振りまき続けた魔性の名を、男は初めてこの世界で耳にした。
いつも読んでくださってありがとうございます。
後三話で前編終わりです。




