738.獣
その場の空気は完全に変わった。
グライオスの雰囲気も、山の空気も。
肌を刺すような殺意と息をすると肺が凍りそうな冷気を纏う……巨大な獣人へと変貌したグライオスは爪に血を滴らせながら、自身が暴力を叩きつけた場所を見る。
氷のオブジェはアルムを捉えてはおらず、アルムはそこにはいない。
『そりゃこれで終わるくらいなら苦労しないって話だ』
肉食獣の眼と化したグライオスの視線が、横から向かってくるアルムを捉える。
左腕から噴き出る血はグライオスの爪が引っ掛かった時にできた傷か。
その血が落ち着く間もなく、アルムは反撃のためにグライオスに魔力の爪を向ける。
アルムが対抗するために選択した魔法は『幻獣刻印』。
狂暴化した魔獣を模したオリジナルの無属性魔法。
否……これしか選択できなかった。
山の中でグライオスの血統魔法そのスピードに対抗できる魔法はこれだけだと瞬時に判断した。
……無属性魔法は不完全な魔法群である。
攻撃魔法や防御魔法、補助魔法などの基本的なものは揃っているが……いわゆる搦め手と呼ばれるような魔法が存在しない。
呪詛魔法に対する『解呪』があっても呪詛魔法は無い。感知魔法に至っては干渉できる魔法は無く、他属性には必ずあるような拘束系の魔法も存在しない。人造人形の召喚なんてもってのほかだ。
最初の魔法といえば聞こえはいいが、各系統の基礎があるわけではなく魔法の基礎となる単純な魔法式しか存在しないのだ。
他の属性魔法とは違い、スピードがある相手に拘束魔法を使う、などという器用な真似はできない。
だからこそスピードとパワーという単純な敵の強みに対して無属性魔法がとれる一番の策は……真っ向から立ち向かう事である。
『力が漲る……肌で感じる……!』
「っ!?」
グライオスは剛腕には見えぬ腕を振るい、アルムを迎え撃つ。
獣人の姿となったグライオスの腕は人間の腕から一回り大きくなった程度。
だが魔力の爪から伝わってくる衝撃は大樹の幹との衝突を思わせる。
筋力ではなく"現実への影響力"に基づく圧倒的な膂力。
『幻獣刻印』の魔力がまだ十分ではない今、魔法生命に匹敵するパワーをアルムは受け止め切る事はできなかった。
「ぐっ……おおおおおおおおおお!!」
『安心しな。今日はもうお前が負けてもミスティ様は無事だからよ』
グライスはアルムの全身を覆う獣型の魔力を破壊し、そのまま山の岩肌に叩きつける。
背中に走る衝撃にアルムの表情が嫌でも歪んだ。
『あんな化け物相手する用の魔力……もう温存する気はないぜ』
グライオスはそのままアルムを岩肌に叩きつけるべく腕をアルム目掛けて放つ。
風のような速度で、剣のような鋭い爪を持った腕が放たれる。
アルムは再生させた魔力の爪で受け止めるが、衝撃を逃がしきれない。
爪での致命傷は避けられるも、衝撃でまた岩肌に叩きつけられる。
バキイン! と『幻獣刻印』で創り上げた手足含めた四つの爪が砕け散っていく音がした。
『どうした"魔法使い"? 動きが鈍いんじゃないのか?』
「……っ!」
言われて、体の変化をアルムは自覚する。
グライオスに反応できているはずが一瞬遅れる。
自分が吐いた白い息を見て、冷気によって自分の動きが鈍くなっている事に気付いた。
「冷……気……!」
『そうだ。俺の家は元々……カエシウスに特化してる』
叩きつけてくる両腕をかいくぐり、アルムは何とか横に跳ぶ。
木々の衝突すら致命傷になりそうな速さだが、グライオスは瞬時に追い付いてくる。当然だ。相手の血統魔法は獣化の性質を備えている……この程度では逃げ切れない。
また腕かと視線を向けた瞬間、跳躍中にもかかわらず人間離れした動きで回転したグライオスはアルムの腹部に蹴りを放つ。
魔力の爪で防御するも、衝撃は腹部に。内臓へのダメージがアルムの額に汗を浮かばせる。
「が……ぶっ……!」
『カエシウスの血統魔法は氷の世界……範囲内の生命全てを凍り付かせる最強の世界改変だ……。だから俺達マーグート家は、その世界でだけは生きられる魔法を築き上げていった』
マーグート家はカンパトーレでも四百年以上の歴史を持つ名家である。
魔法大国であるマナリルであっても通用する魔法の才。
しかしその始まりはカンパトーレという国を阻み続けるカエシウス家への憎しみだった。
お前さえいなければ、お前らさえいなければ、この家さえいなければ。
故郷を閉ざす憎しみが魔法の才によって、マーグート家という特殊な魔法使いの家を生み出す。
敵の命を自由に握る氷の世界。そんな世界に縛られてなるものか。
そんな先祖の思いが、グライオスの代によってついに結実する。
それがカエシウス家の世界に適応した獣人の姿。環境の変化で生命がその姿や機能を変えるように……マーグート家はカエシウス家の世界で生き残るに最も最適な"現実への影響力"を手に入れる。
雪原を走り抜く狼と冷気を纏う性質、決して止まる事のない生命の脈動、そしてカンパトーレの為にとその血統魔法を捧げたマーグート家の"存在証明"。
その全てを"現実への影響力"としてイメージできる才がようやくここに現れた。
『笑っちゃうよなぁ……俺の血統魔法は逆を返せば、カエシウス家の世界で生き残れる力しかないんだ』
家一つが才能と何百年の年月を捧げて対策し、ようやくスタート地点に立てる。
それがカエシウス家。
カンパトーレという国そのものを何百年も抑え込み続けたマナリルの頂点。
しかし、悲願に辿り着いたはずのグライオスの頭には今、カエシウス家を倒すという意思は欠片も無かった。
『それでも、アルム――お前に勝たせてもらうぞ』
「!!」
グライオスの瞳が青く輝く。
人間というよりは肉食獣の目。
しかし、その目に輝く魔力光は獣としてではなく魔法使いとしての意思があった。
(制服に霜……!?)
グライオスの猛攻と同時に、グライオスの足元の地面がパキパキと凍り付く。
アルムの服には霜が降りており、周囲の温度が予想以上に低下しているのかに気付いた。
『寒いと鈍るよな』
「!!」
『北国出身には丁度いい』
白い息と体に降りた霜、そして冷気で鈍った体がアルムの反応を遅らせる。
アルムの右目目掛けて放たれた爪による刺突。
気付いた時には目の前。爪を振るっても間に合わない。
「ぐ……っぁあああああ!」
冷気で固まりかけた思考を研ぎ澄まし、アルムは顔をギリギリで逸らす。
グライオスの爪は背後にあった木の幹をスポンジのように貫通させており、その一撃はまるで槍のよう。
木の幹に腕が突き刺さった瞬間、アルムは十分な"現実への影響力"となった『幻獣刻印』の全速力でグライオスとの距離をとる。
グライオスから離れると周囲の温度も元に戻り、夏の林らしい過ごししやすい気温に戻る。グライオスの血統魔法で変わるのはグライオスの周囲だけのようだった。
グライオスの猛攻を耐えた結果、『幻獣刻印』の"現実への影響力"も上がってきた。これ以上は一方的な展開にはさせまいと、アルムは目を見開いてグライオスの一挙一動を注視する。
『かわしたと思ったか?』
グライオスが地を蹴り、こちらに突進する。
背中の痛みはるが冷気の影響はましになった。速度にも慣れ始めている。
アルムがそう思考した瞬間、見開いた目の右上から、赤い液体がゆっくり、ゆっくりと視界を閉ざしに現れた。
(まぶたを斬られ――!)
先の目を狙った一撃は確かにかわした。かわしたと思っていた。
だが実際にはアルムがかわすその瞬間、グライオスの爪先だけがアルムのまぶたに触れていた。
致命傷には程遠いかすり傷。傷があると気付く事もなかった痛みすら感じない傷。
別の箇所であれば何の問題も無かったであろうが、その場所は最悪だった。
傷口からゆっくりと落ちてきた血がアルムの視界を遮り始める。
一挙手一投足が生死に直結するであろう獣人状態のグライオスが向かってくる肝心な時に。
アルムはすぐさま目を閉じる。血が完全に目に入れば簡単には拭えない。
「『魔剣』!!」
アルムは顔を歪ませ、魔法を唱えながら飛び退く。
無論、今更『魔剣』なんて魔法が通用するはずもない。
だがこの最悪の視界を何とかする方法が思いつかなかった。
先程まで最小限の動きで応戦していたが、片目になったことで距離感が完全に狂っている。
ようやく速度に慣れたとしても、これでは振り出しだ。
放った攻撃魔法は狂った距離感を何とか掴もうという足掻きだった。今のグライオスの突進を受け損なえば最悪の決着になるのは必至。タイミングを計る為だけに一つの魔法を消費する。頬に感じる血の温かさがあまりにも歯痒い。
『あめえよ!!』
「ぐ……っぼ……!」
無論、グライオスが馬鹿正直にその魔法を弾いてくれるわけも、当たってくれるわけもない。
グライオスは獣のようにかがんでアルムの魔法をかわし、人間のように蹴りをアルムに叩き込む。
狙いは先程と同じ腹部。ダメージが蓄積しているであろう内臓にさらに負荷をかけにいく。
アルムは胃の中身を吐き出しそうになるが、グライオスが一瞬かがんだことでスピードが落ちたのか何とか攻撃を受け止めている。
バギイン! とアルムの魔力の爪が砕ける音がした。
アルムは口からよだれを吐きながら、そのままグライオスの脚を腕で掴む。
『いいねぇ! 死に物狂いってのはこうでなくちゃなぁ!!』
グライオスは獣の凶暴性に任せて、足にしがみ付いたアルムを地面に叩きつける。
足はしなる鞭のように地面を叩き、衝撃と地面に挟まれているアルムはボロ雑巾のように扱われる。
『幻獣刻印』で身体を強化していなければとっくに死んでいるだろう。
アルムは体を何度叩きつけられても、グライオスの足を離さない。
アルムの口から出る液体がよだれから血に変わってもしがみ付き続けていた。
『ずっと何の真似――!』
何度叩きつけられても離さないアルムに違和感を持った頃……しがみ付いていたアルムの両腕には壊れた魔力の爪が再生しており、アルムはそのままグライオスの足に突き立てる。
骨ごと抉り、肉をかき混ぜるように力強く。
『がああああああああああ!? ごの……!!』
血統魔法を使ったグライオスが初めて顔を歪め、アルムを地面に叩きつけるのではなく振り払うように足を空中で薙いだ。
しがみついていたアルムは振りほどかれ、振り払われた勢いを着地で殺す。
この一撃が狙いだったのかとグライオスはアルムを睨む。
しかし腑には落ちない。自分が受けた一撃よりもアルムへのダメージのが遥かに大きい。そんな事はアルム自身がよくわかっているはずだ。
一体何故あんな自殺行為を?
グライオスが疑問を抱く中、アルムは顔を上げる。
顔を上げたアルムの表情は……笑っていた。
地面に何度も叩きつけられた衝撃で骨も何本か折れているはず。口の端に固まる血が内臓も傷ついているのを物語っている。
なのにあの笑顔は――
「あんだの周りが……制服に、霜が……降りるほど寒いなら……ははっ……! そりゃ血も凍るよなぁ!?」
アルムは凍り付いた右目の血を腕を使って皮膚に構わず剥がし、遮られていた右目を開いた。
(まぶたの血を止めるため……だと……!)
アルムがとった手段にグライオスは戦慄する。
致命傷になりかねないダメージよりも勝つための最善を選んだ精神性。
血と泥で塗れた制服の上に、魔獣を模した魔法の爪が煌々と輝く。
ボロボロになりながらも戦意を一切損ねないアルムを見て、グライオスもまた抉られた足の痛みを忘れていた。
『何がお前をそこまでさせるんだ……ええ!? アルム!!』
「俺の魔法もようやくあったまってきた! 来い! グライオス!!」
咆哮のように、二人の声が山に響き渡る。
二人がぶつかる様を誰かが見ていればこう思う事だろう。
――決着は遠くない。




