732.醜い私
『何故貴様が人間の味方をする?』
南門での出現から十数分……大蛇による被害の規模は想像よりも小さかった。
その原因を見下しながら、大蛇はせせら笑う。
この町にも今の季節とも少しずれた、季節を思わせる異文化の民族服。
血のように赤い紅葉柄の着物を纏う、額から二本の角を生やした女性……否。鬼を。
『貴様が人の世に交わる魔性だからか? 紅葉?』
『勘違いするな。誰が人間の味方などするか』
大蛇に立ちはだかるのは死んでいった魔法生命の魔力残滓その一体。
宿主であるグレイシャと一緒にアルムに葬られた魔法生命――鬼女紅葉。
人心が恐怖する象徴を呪いの力とし、一言口を開けるだけで人間の心を逆撫でする魔法生命は今、大蛇から人と町を守っている……ように見える。
少なくとも、対峙する大蛇にはそう映る。ベラルタで対峙したミノタウロスがそうだったように。
ミノタウロスや紅葉が行ったのは、霊脈に記録された魔法としての自分を楔とした自己意志による無謀な顕現だ。宿主というこの世界と繋がる強固な楔がないこの状態は長く続かず、ましてや生前の力を完全に発揮する事はできない。
言うなれば壊れかけ。言うなれば消えかけ。
割れてばらばらになったティーカップを、未練という糊で無理矢理接着して使うような歪さ。
それでも、魔法生命がもう一度体験できる奇跡には変わりない。
大蛇にとって、紅葉の行動はあまりに不可解だった。必ず手に入るわけではないせっかくの権利を、まさか自分を邪魔する事に消費するなど理解が出来ない。
『この地は貴様にとって殺された忌むべき地だと思っていたが……死んで呪いと怨みから解放されたか? あの"分岐点に立つ者"……アルムという男を手助けするとは』
同胞であるはずの魔法生命の妙な行動に、大蛇は好奇心から問う。
ミノタウロスの時はただの気まぐれかと思ったが、二度目となると奇妙が勝る。
元から人間に味方した魔法生命ならばともかく、人間と敵対した魔法生命が今更何を思ってこんな行動に出ているのか。
問われて、紅葉は心底からの嫌悪を表情に浮かべた。
『最悪なものを二つ並べて……あの下民のほうがましだっただけ。誰が好き好んであんな愚図を助けるか……今日少し繋がっただけで反吐が出る。お前が許せないから肩入れしているだけよ』
『……我等が許せない? 何をした?』
大蛇には紅葉に憎まれる覚えがない。そも遭遇したのはこれが最初だ。
人間からであれば、覚えてない事でも食った人間のどれかの事だろうと思えるが……同じ魔法生命である紅葉に自分が何をしたというのか。
『……あいつらは覚えていてくれる』
紅葉は目を血走らせながら、大蛇を睨む。
『下民もあの妹も心底嫌いだ。出来る事なら顔の皮を剥ぎ、剥き出しになった肉を火鉢に押し付けながら、指を切り落として食わせたい。
けれど、少なくともあの二人は私の愛した人を……グレイシャを一生忘れないでいてくれる。お前のように、霊脈ごとグレイシャの記録を食い荒らそうなんて事はしない』
グレイシャを殺したアルムを怨んでいるのは変わりない。殺したいほど憎んでいる。
けど少なくとも、あの男は忘れない。
理想を求めたグレイシャの在り方を否定せず、真っ向からぶつかったアルムは必ずグレイシャを覚えていてくれる。
ミスティの姉ではなく、グレイシャ・トランス・カエシウスとして。
それはグレイシャの願いであり、何より望んだ記憶の形。
紅葉自身、認めたくはなかったが……きっとあの男はグレイシャの一番の理解者だった。盲目な愛を向けていた自分よりもグレイシャの本質を理解していたに違いない。
『あの下民は……お前のように、喰らった誰かを忘れない』
だからといって、自分の愛に何もできないとは思わない。
たとえ盲目であったとしても大切な思いだったのには変わりない。
こうして、魔力残滓として顕現する力が残っているのがその証明。
『許せない……許すものか……! 私の愛したグレイシャの記録を残す為なら、私はあいつらの味方でも何でもしましょう。お前がここの霊脈を狙うと言うのなら、喜んでここを守りましょう』
『人間に絆されたか』
大蛇は嘲笑する。
人の世に侵された、憐れな怪物を見る目をしながら。
『人間の味方などするものか! 私は死んでも……何度生まれ変わっても、グレイシャの味方なだけだ!!』
鬼は吠える。
たった一人の人間への愛を。
『たかが民話の雌鬼が……本気で我等の邪魔を出来るとでも?』
『酔い潰れて殺された神話の恥さらしが大層な口を吐くのね? 鬼に生まれれば討たれた逸話も美談になったでしょうに』
好奇心と疑念を優先した時間は終わった。
理解できない感情と理由をぶつけられた大蛇に、もう紅葉への興味は無い。
興味が失せたのなら二の足を踏む理由はもうどこにもなかった。
『感謝するがいい。無駄死にした宿主の元へ送ってやる』
『無駄死にじゃないわ。あの人は理想に生きた』
『――滑稽』
『人を生贄かつまみにしか見ていないあなたにはわからないでしょうね。
人間の生は落葉のように儚くて脆くて、泥に塗れるように醜くなるけれど……それでも、見惚れるほど美しい在り方を選べるのよ』
始まるのは一方的な蹂躙。
千五百年前から存在する魔法生命と、とっくに消えた魔法生命の魔力残滓。
神話の怪物と、民話の魔性。
伝承の格も、魔法生命としての状態すら劣っている。
今まで大蛇を抑えられていたのは大蛇の好奇心がもたらした気まぐれに他ならない。
それでも紅葉は術を行使し、大蛇に歯向かい続ける。
腕が食われ、角が折れ、魔力の一欠片になってもその鱗に食らいつく。
数分か、それとも数十秒か。自分に与えられたこの世界での最後の権利を紅葉は消費した。
消える瞬間、最後に頭にちらついたのが愛し合った一人の姿ではなく、あの日対峙した二人の姿だった。思い出すのも苦いはずの、最後の戦いで自分達が死んだ日の事を。
何て憎たらしい。最後まで邪魔な男。
あの男を怨んでいるのに、本当に消えるその瞬間までグレイシャと二人きりにさせてくれない。
"――ああ、あなたが怨やましい"
これは口が裂けても誰かに言うつもりはない余談だが。
私はあの時、氷の中から現れた真っ白なあの男に恐怖しながら……その在り方にほんの少しだけ、憧れたのだ。身を挺して腕の中にいたあの妹のために戦う姿にあの男の理想を見て。
だからこうして、私は無様に消えていくのだろう。
本当に苛立つ事実だけれど……あの男のように出来ないとわかっていても、私も愛した人のために、あんな風に体を張ってみようと思ってしまったのだった。
要は、あの男に張り合いたかっただけの醜い女なのである。




