追憶 私の女王
彼女の寝顔は童話のようだった。
一夜過ごしたベッドで眠る姿は幻想のような美貌で、見惚れたのを覚えている。
流れるように放り出された銀色の髪は朝日に輝き、白いベッドの無垢すら霞ませる透き通る肌は侵される事のない白銀の雪原のよう。
一枚の布をかぶって上下する膨らみはただそれだけで扇情的に映り、布の上から見える体のラインには惚れ惚れする。
帝に寵愛された事のある私ですら、嫉妬しかねない。
私の宿主……グレイシャ・トランス・カエシウスはそんな現実離れした幻想の住人のような美貌を持っていた。
黙ってその寝顔を見つめているだけで、飽きない。
声が聞きたいという願いを無視されても。
熱い唇が恋しくなっても。
海のような瞳が見えない苛立ちも。
朝日で輝く髪に触れたい欲望も。
その指で触れてほしいという我が儘も。
先に起きた私を放っておくという罪さえ、許したくなる。
彼女に惹かれ、彼女の望むことを優先したくなる。
鬼である私が無言で人間の起床を待つだなんて想像したことも無かった。
「なあに? 紅葉?」
「――」
急に開いた瞳に私は一瞬声が出なかった。
空より深く、海より青い色。
グレイシャが起きた瞬間、その瞳に呑まれるような錯覚があった。
これは私が生前から海と無縁だったからだと思いたい。
でなければ、私は一夜で彼女の虜になってしまったと認めてしまうようなものだから。
「そんなに熱い視線で見つめて……どうしたの?」
「いいえ別に。綺麗だなと思っただけよ」
「あら……起きているほうが美人でしょう?」
グレイシャは私のほうを向くとくすっと小さく笑い、自分の美貌を強調した。
傲慢にも聞こえるその言葉が全く嫌味に聞こえない。純然たる事実だから。
グレイシャは自信家で傲慢のように見えるが、正確には違う。
彼女は謙遜をしないだけだ。自分が美しい事など、グレイシャにとっては当たり前なのだ。
鬼の私が言うのもどうかと思うが、魔性とはこういう人物の事を言うのだろう。
「紅葉も綺麗よ」
「あなたとは違って、角があるけど?」
私は人間に混じって生きる鬼だった。
角を隠しているうちは豪華絢爛に生き、呪いを弾かれ角を暴かれると都を追われた。
角は鬼の象徴であり、私が人に混じれなくなった醜い証だ。
生前は誇らしかったが、今の私は無意識に少し疎ましく思っているのだろう。
鏡の中の私を見る私の目は、額近くに生える二本の角を見て少しぎこちなく笑っている気がするのだ。
「それが、なに? 私は好きよ」
そんな私の心内を読んだかのようにグレイシャは私の角を肯定した。
彼女は愛でるように、白魚のような指で私の角に触れてくる。
一本一本から彼女の熱と思いが伝わるようで、私は愛しさと心地よさからつい目を閉じる。
求めたと勘違いされたのか、今度は角に口づけをされた。
柔らかい感触とわざと聞こえるようにしてくる扇情的な接吻の音が私の目を開けさせた。
「あなたの角……私は好きよ。紅葉」
もう一度、今度は愛を囁くようにグレイシャは私の醜さを肯定する。
「……嘘」
「嘘じゃないわ、わかるでしょう? 私はあなたの宿主なんだから」
グレイシャは私に対しての感情を隠す事はしなかった。
魔力を通じて、宿主であるグレイシャの感情が入り込む。
代わりのように、私の呪いの記憶がグレイシャに流れ込んでいった。
――宿主と魔法生命が本当の意味で繋がる瞬間。
あまりに筒抜けな記憶と感情の交換に、裸体を見せ合っている今よりも恥ずかしい。
普通の人間が受け止めるには難しい呪い……本来なら繋がり続ければ宿主の人格さえ侵食してしまうはずの私の記憶さえ、グレイシャは飲み干した。飲み干した上で私に微笑んでくれた事に背筋に寒気が走る。
私は人間を呪った。
永遠を謳う愛を容易く呪いに変えられる移り気な醜悪さに。
誰かに愛を綴る琴のような口は、一方で誰かを呪う釘のよう。
呪いを世界に定着させたのは人間だ。決して怪物の特権などではない。
だが、そんな風に人間を呪う私を見てグレイシャは微笑み――あろう事か美しいと言う。
今グレイシャの精神は私の魔力に蝕まれているはずなのに、そんな素振りは見えない。
呪いを精神に受けながらも私を見つめるその目はあまりに熱をもっていて、私はつい目を逸らした。
「あ……」
しかし、グレイシャはそれすら許さない。
目を逸らそうとした私の顎を指で軽く捕まえて視線を合わせるように動かす。
そのまま白い顔がそばに寄ってきて、私の唇を奪う。
人間から奪うのは私のはずなのに、私が貪られていた。
溶かされたように唇は自然と開き、差し込まれた舌は私の舌を探すこともなく絡めとる。
香水を注いだように、甘い香りが広がる。絡められた舌は好きなように弄ばれていて……私は浸るように身を任せるしかなかった。
グレイシャが唇を離す頃には、私から目を逸らす気など無くなっていた。
「鬼のお姫様には乱暴だった?」
「グレイシャ……」
「うふふ、あなたが目を逸らすからよ」
私をからかいながら、グレイシャは髪を撫でてきた。
「私は好きよ。あなたの髪、目、手も足も、角も、呪いも、全部愛してあげる」
「それは宿主だから?」
「いいえ、私が私だから。あなたが紅葉だから。人間であっても鬼であっても私を愛するあなたという事実は変わらない」
人間として、鬼として。
鬼女として、貴女として。
魔法生命として、呪いとして。
その言葉は信頼を勝ち取るための出まかせなどではなく、私の全てを受け止めるグレイシャの器量が言わせた言葉だった。
「私が持つ感情は私のもの。家族だから恨まない……怪物だから愛するべきじゃない……そんな一般論知った事じゃないわ。
私は妹を心の底から殺したくて、あなたを心の底から愛してる。その事実は誰に言われようと変わらない。私がグレイシャ・トランス・カエシウスである限り」
グレイシャの理想は普通に考えれば不可能に近い。
妹一人の存在を抹消する為に、過去の国を復活させて歴史を塗り潰す。
子供が語る夢物語のような壮大さだったが、彼女は本気だった。
妹を本気で憎み、父や母、弟には何の感情も無いから捨てる。
家族などという血筋が繋げる縁は彼女にとっては無意味だ。
彼女にとっては本当の意味で心を通わせた者、気に入った者こそ彼女にとって価値がある。
そんな理想を目指す暴君は、ベッドから起き上がった。
「ああ、でも……あなたの名前だけは私が愛さなくてもいいかもね」
「……? 何故?」
起き上がったグレイシャは窓に近付き、半開きだった部屋のカーテンをグレイシャが開ける。
遮られていた朝日がグレイシャの裸体を照らした。
「だってほら……秋になったらみんな、あなたの事を美しいって言うでしょう?」
私はその時、彼女の頭に光の王冠を幻視する。
無論、朝日の輝きが魅せた幻なのはわかっている。
それでも私にとって彼女は紛れもなく、私を従える王だった。
姫と呼ばれた事もある私が傅くような……女王は確かにそこにいたのだ。
いつも読んでくださってくれてありがとうございます。
一区切り恒例の閑話です。とある宿主ととある魔法生命のお話。




