730.主役に立つのは
「……っ!?」
机の上に本を積み上げ、自室で勉強に勤しんでいたミスティの弟……アスタ・トランス・カエシウスは顔を上げて立ち上がる。
今の今まで集中していたアスタの突然の行動に、教育係として付いていたメイドのラナも目を丸くする。
「アスタ様、どうされました?」
「何か……きた。町のほう」
「町の……」
「御姉様……? ううん、違う……これはもっと……」
アスタのいる部屋は配置の問題もあり、山のほうに面していて町は見えない。
何よりアスタは今の今までずっと机に向かっていたのだ。町の様子がわかるはずもない。
ラナはアスタは少し前まで勉強を抜け出し、トランス城の隠し通路を使ってこっそり町のほうに行っていた事をアルム達から聞いた事があった。グレイシャの起こした事件でアルムに助けられて以来は目標が出来たらしく、そんな素振りは見せなかったが……ついに限界が来たのだろうか。
ラナは一瞬息抜きを求めての発言かと思ったが、アスタは小走りで廊下のほうへと出る。
「アスタ様……どちら、に……」
「あ、あれだ……!」
廊下の窓にへばりつくアスタと窓から見える光景に言葉を失うラナ。
いつもなら窓から美しいスノラの町が見えるはず。
長く過ごした自慢の故郷であり、自分が仕えるミスティが愛する町だ。
夏の日差しは町に流れる運河を照らし眩く、冬は雪によって化粧をする美しい町。
その美しい町に、塔のごとくそびえたつ異物がある。
長い体を起こすその姿は、蛇だった。
重い色の似合わないこの町に、悪意で塗り潰したかのような黒の塊。ここからでも見える黄金の瞳は富とは程遠い狂気を孕んでいる。
現れたのは南門近く。警備の人間や魔法使いが対応するはずだが、果たしてあの怪物に対抗できるのだろうか。
「あ……」
大蛇を凝視して鬼胎属性にあてられたのかラナの足がふらつく。
鬼胎属性の恐ろしい所は、実際に被害を出さずとも恐怖さえ与えればそこに在るだけで"現実への影響力"を増す事だ。
大蛇のいる場所からラナのいるトランス城まではかなりの距離がある。ここにいれば大蛇に殺される事はまずないだろう。
だが、怪物というのはその存在だけで恐怖を与える。
神話や伝承の中に閉じ込めてなお魔性を発するのが、怪物というものだ。
「ラナさんしっかり!」
「あ、アスタ様……も、申し訳ありません……大丈夫です」
ふらつくラナをアスタが横から支え、ラナの視線は大蛇から逸れる。
ラナの手を握るアスタの手は、ラナが思ったよりも少し大きい気がした。
アスタはラナの手を握ったまま、窓に視線をやらせないかのように自分のほうに向かせた。
「歩ける? それならすぐにお母様にご報告を! 指示に従いながらイヴェットと一緒に使用人の指揮をとって! みんなを落ち着かせるには上級使用人のラナさんが必要だよ! 僕はお父様にご報告してくるから!」
「あ……み、ミスティ様とアルム様にも……!」
「大丈夫! ミスティ御姉様とアルムさんは町のほうにお出かけされているからこの事態に気付いているはず! なによりお二人はあの怪物との戦いは経験があるはずだから僕達よりずっと強いし、心配ない!
ラナさん! お二人にお父様やお母様、それに僕もいる!! 大丈夫だよ!!」
誰に言われるでもなく、アスタが自分を勇気づけているのは明白だった。
毅然としているように見えるが、アスタの手もほんの少し震えている。恐いのだ。あんな怪物が町に現れれば当然だ。
それでも自分を勇気づけるために向ける視線は強く、ただ守られているだけの子供とは違う。
教育される子供ではなく、貴族として振る舞う姿にラナは平静さを取り戻した。
数日前、アルムとミスティの噂を耳にして泣いていた子とは別人のよう。
「じゃあお願いします! あんまり町のほう見ちゃ駄目ですよ!」
「かしこまりました!」
最後にラナに念押しするとアスタは執務室のほうへと走り出す。
ラナはその背中を見送りながら、ぽつりと呟いた。
「ご立派に……なられているのですね……」
自分が仕えるカエシウス家の未来を想像して、ラナを縛る恐怖が消える。
窓から見える怪物に心を囚われる事無く、ラナはセルレアの私室へと急いだ。
「お、動いたかな?」
スノラに向かう山中、空気が変わったのを察知するのはカンパトーレの魔法使いグライオス。
引き連れている部下達は何の話かわからないようだが、グライオスの表情から作戦が始まった事を察する。
「念のため当日は楔のやつとの連絡は絶ってたから確証はないがなぁ……通信用魔石で連絡とれるかどうか確かめてくれる?」
「やってみます」
部下の一人がイヤリングにしている通信用魔石に魔力を通すが、反応はない。
それどころか通信用魔石がどんどんと黒ずんでいく。
「あ、やばい。捨てろそれ」
「は、はい! ひっ! ひっ!」
連絡しようとした部下は魔石から伝わってくる不穏な雰囲気に追われたのかイヤリングを耳から引きちぎり、恐怖のまま地面に思い切り叩きつける。
耳からはぽたぽたと血が落ちるが、部下の視線は自分が叩きつけた黒ずんだ通信用魔石に釘付けになっており……息が荒くなっていた。
嫌なものを触ってしまったかのように、その部下は自分の手を何度も払う。
「魔石に刻まれてるのが魔法式である以上、感知魔法の一種だから仕方ない……呪法の塊の魔法生命様に繋いだらそりゃこうなるわな」
「どうしますか? 痕跡になりますが……」
グライオスの隣を歩いていた女性が問うと、グライオスは苦い表情を浮かべる。
「あのね……それ隊長の君が決めるのよ」
「そ、そうですが……やはり実質の隊長はグライオス様なので……」
「……この魔石を見る限りスノラのほうではもう作戦の第一段階は開始してんのよ。それを知ってて、作戦通り隊長にはなりきれないってのはおかしな話じゃない?」
グライオスの冷たい眼差しに、その女性は背筋を伸ばす。
「し、失礼しました! あ、いえ……わ、悪いなグライオス!」
「そうそう! やればできんじゃない」
処罰覚悟の馴れ馴れしい言葉遣いが好印象だったのかグライオスは笑顔に変わる。
作戦に忠実に。どれだけわかりやすく、傍から見て馬鹿らしくても敵が冷静さを欠けばばればれの欺瞞も真実に変わる時がある。
戦場とは思ったよりも不安定で、思ったよりも予想外の事が起き、情報が入り乱れる場所なのだ。
「んで? 隊長的にどうする?」
「……さ、作戦が始まっている中、触れるのが難しい魔石の痕跡を隠すために試行錯誤している時間的余裕は無いと思うので、シャルニーフ隊員の耳の治療だけ行いながらスノラに向かうのが最善だと思います」
「副隊長の僕もそう思います! 隊長! スノラまで後二十分くらいだしねぇ!」
恐る恐る口にした方針をグライオスに肯定され、偽隊長の女性はほっとする。
相手はあのグライオス・マーグート。『氷狼』の二つ名を持つ今はいないクエンティ・アコプリスと並ぶカンパトーレの中でも最高峰の魔法使いの一人。
部下の面倒見はよく、休みは平民が行く居酒屋に普通に行くような人当たりのいい人物ではあるが、自らが魔法使いとして妥協を許さない人物でも有名だ。
そんな人物の前で、作戦は始まっていますが判断を下せません……などと言った暁には偽隊長から死体その一に変わるだろう。
「さーて、時間的にもカエシウス家が大蛇様の対処を始めた辺りで……真打ち登場って感じで行けそうか」
「聖女や灰姫の滞在中、たっぷり休みましたからね」
「そうそう、おかげで体調もばっちり……まぁ、あの三人が来なかったらとっくに始められたわけだから感謝なんかしないけどな!!」
グライオスが頬を膨れさせながら怒りを声にすると部下から笑いが上がる。
魔石が黒く変わり、一瞬揺らいだ味方の士気は戻って良好。残るは自分の能力だけだ。
「さあ、怪物の前座の後に堂々と登場してやろう。どんだけ怪物が凄かろうが……大体のお話ってのは人間が主役に立つもんさ」
かつてスノラで起きた事件で怪物の存在よりも二人の人間が注目されたように……今回の主役は自分だと、グライオスは笑う。
信仰しているはずの大蛇を、怪物と言い放ちながら。
いつも読んでくださってありがとうございます。
ここで一区切りとなります。明日は一区切り恒例の幕間の更新となります。
明後日も更新しますので、是非読んでやってください。




