729.警告
『起きろ』
暗くて冷たい場所。目を開けても何も見えない黒。
夜より深く、光はどこにもない。
そして何かを引きずるような音が、ここでは絶えず聞こえてくる。
何度も見る夢の中。夢の中とは思えない息遣いが聞こえてくる。
そんな中、耳元に聞こえてきた声はぶっきらぼうな女の声だった。
『起きなさいこの愚図』
ずるずる、と何かを引きずる音に紛れて聞こえてくる女の声には心底からの嫌悪が含まれている。
この場所にある命は二つだけ。
自分と引きずる音を立てている何かの二つ。
声は一体どこから聞こえてきているのだろう。
アルムは目を開けるが、暗闇である事には変わらない。
ずるずる、という音だけがただ不快に聞こえてくる。
だが……こちらを嫌っているだろう女の声は特に不快には思わなかった。
「夢か」
『あなた馬鹿なの?』
「……この声…………」
目を開けて、聞き覚えのある声だと気付く。
『人間の癖にこんなに私達に近付くなんて……初めて会った時から思っていたけど、やっぱり馬鹿なのね』
「……褒め言葉か?」
『死ね』
辛辣な一言が返ってくるが、アルムは当然のように受け止める。
確かに声の主は自分に死んでほしいだろうと納得して。
『ああ、いや、やっぱり死んでもらうのは困るわ。そうじゃなきゃ……恥を忍んでここに来た意味もない』
女はアルムに求めた要望を撤回する。
無論、死ねと言われて死ぬわけがないがアルムにはそもそも撤回する事が意外だった。
ふと、暗闇の中にひらひらと何かが舞っている事に気付く。
舞っていたのは色付いた葉だった。
夜より深い闇の中に、目が覚めるような紅が散る。
『私達の理想を否定しておいて……許さないわよ』
それは怨みであり、後押しであり……そして呪いでもある。
いつの間にかアルムの周りに出来た落葉の絨毯は、まるで血のようだった。
「……」
次の瞬きでアルムの視界はトランス城の客室の天井に変わる。
微睡みもないアルムはすぐさまベッドから飛び起きた。
窓の外に変化はない。スノラの町には悲鳴もなければ、破壊も、虐殺もない。
昨日と同じ静かなスノラの朝だった。
「あれは忠告じゃないのか……?」
険しい表情を浮かべながら制服に着替える。
何故夢の中でこんな声が聞こえるのかはわからないが、ただの夢ではない確信だけは何故かあった。
理由はわからないが、何度も何度も何故かあの場所を夢に見る。
「トランス城の中は……」
「うひゃあ!?」
部屋の扉を勢いよく開き、急いで廊下に飛び出すとスノラに滞在中の世話役であるメイドのジュリアと出くわす。
驚きながらも銀のトレイをしっかりと支えており、乗せたコーヒーと温タオルを落とす事はない。
「おはようジュリア」
「おはようございますアルム様……あの、急いでどうされました? 朝食にはもう少しかかりますが……? あ、タオルよろしければ……」
「ありがとう……城内で何かトラブルはあるか?」
アルムはジュリアに勧められるままタオルで顔を拭く。温められたタオルが寝起きの顔に優しい。
ジュリアは何故アルムがそんな事を聞くのかわからない様子で首を傾げた。
「いえ、至って平和な朝ですよ……? あ、そろそろミスティ様のお気に入りの茶葉が一つ無くなりそうなのがトラブルといえばトラブルになりますかね……?」
「……そうか、何も無いのか」
今回は本当に夢だったのか?
アルムの脳裏に可能性が一瞬よぎるが、こびりつくように記憶している声が夢なわけがないと訴えてくる。
「ミスティは?」
「ミスティ様でしたらもうそろそいらっしゃると思いますよ」
「私がどうかしましたか?」
丁度、廊下の角から曲がってきたミスティが二人に声をかける。
夏とはいえ朝の空気が少し冷えるからか薄手の服にカーディガンを羽織っている。
ジュリアは一礼し、アルムは早足でミスティに近付いていく。
「おはようございますアルム。ジュリアさんも」
「おはようミスティ。急に何だが……ちょっといいか?」
「なんでしょう?」
「朝食を終えたら一緒に出掛けないか?」
突然の誘いにミスティは驚きからか目を丸くし、ジュリアは顔を赤らめる。
驚いていたミスティもようやく何を言われたかをしっかり飲み込み、頬を染めて手をわたわたさせながら視線を泳がせた。
見つめるアルムの視線はひどく真剣で、ミスティが朝から浴びるには刺激が強い。冷えた朝の空気も今や暑いくらいだった。
ミスティは深呼吸しながら胸に手を当て、早くなった自分の鼓動を確かめながら見つめてくるアルムに意を決して視線を合わせる。
「で、デートのお誘いという事ですか……?」
「いや違う」
「ええ……」
舞い上がるのも一瞬なら落胆も一瞬。
あまりに正直なアルムの答えに、朝の空気は変わらず冷たいままという事をミスティは思い知った。
期待を裏切られたショックを受けながらも、アルムの表情がひどく真剣な事に気付いたミスティはすぐに切り替えた。
「少しまずい事になるかもしれないんだ」
「……詳しくお聞かせ願えますか?」
スノラは北部有数の観光地である。
文化的価値、町の景観、料理から芸術に至るまで北部どころかマナリル全土の中でも上位に位置する場所だろう。夏は避暑地として、冬はその絶景を目的として年に二回来訪する貴族もいるくらいだ。
店は貴族向けや大衆向けにと区画が分かれており、貴族だけでなく近隣の平民が奮発すれば観光客として訪れる事もでき、"戴冠祭"の時期にはさらに多くの人で賑わう町である。
観光地としての収入が主であるのもあって、景観を守る事に余念がない。酔っ払いの外出は時間によって規制されたり、ポイ捨てに非常に厳しい規則があったりする。歴史的に価値ある建造物や像などに落書きをしようものなら罰金程度では済まない。
そんなスノラを支える清掃関係の仕事の支援も充実しており、清掃業はカエシウス家が支援しているのもあって給与もいい地元の人気職の一つだ。時間を問わず観光客や店員に混じり、町の景観を守るために日夜奮闘している。
「酔っ払いか……?」
「おいおい、まだ昼だぞ……」
いつも通り担当区画の清掃に来た二人組は南門の近くの路地で誰かが座っているのを発見する。
その手には割れたワインの瓶が握られていて、傍目から見ると酔っ払いにしか見えたい。
初めてというわけではなかったが、昼の時間に路地で酔い潰れているのは珍しい。
「あんた! 宿はどこだい!? そんなもん持ってたら危ないよ!!」
二人組の片方が声をかけるが、反応はない。
仕方ないな、と黒いフードに近寄って肩を揺さぶった。
「おいあんた! 酔ってるのかもしれないが……」
肩を揺さぶるとその勢いで黒いフードがとれる。
酔っ払いの正体は女だった。
いくらスノラが治安がいいからと夜に一人でこんな所にいるのはおかしな話だろう。
しかしもっとおかしいのは……その女の目がこちらを黙って凝視している事。
そして、その瞳が黒く輝いている事だった。
酔っ払いを起こそうとした男の背筋に寒気が走る。
「あんた……その、目は……」
「綺麗でしょ?」
黒く輝く瞳。
その瞳が縦に長く変わる。
まるで、別の生き物のように。
女は恍惚の笑みを浮かべて――
「大蛇様と同じにして頂いたの」
――生贄としての役目を果たす。
割れて鋭利になったワインの瓶を、自分の首に突き立てて自害する。
噴き出した血が肩を揺すっていた男にかかり、一欠片の恐怖を生む。
「ひっ――!」
「おい!!」
女は大蛇という存在をこの世界に繋ぐための楔だった。
疑似的に宿主としての役目を与えられた女は、消え行く意識の中最後の役割を果たす。
「【異界……伝承】……!
【疑似顕現・蛇神戯画】」
女が唱え、その意識を手放すと同時に怪物は現れる。
その姿は全長百メートルは超えているだろう巨大な黒い蛇。
狭い路地にその巨体が収まりきるわけもなく、出現と同時に周囲を家屋を破壊していく。
「ぶぎゆぁ――!」
「だずげ……!」
近くにいた二人が助かるはずもなく。
一人は今際の言葉すら言う間もなくその巨体に潰され、もう一人はつまみのように大蛇の口に呑み込まれていった。
『がががが! 信者の宿主もどき一匹ではこんなものか……まぁ、十分だ。
さあ、どうするかえしうす? そして"分岐点に立つ者"よ』
本体に比べれば矮小な"現実への影響力"に大蛇は笑う。
それでも、力無き人間を喰らうには十分すぎた。




