追憶 木の枝
生まれ育った場所は静寂こそが主だった。
春の陽気と夏の日差し、秋の風と冬の澄んだ空気。
季節の彩を受けて日々が回っていく。
瑞々しい葉はいずれ枯れて、散って、また芽生える。
温かい風はどこからきたのか。寒い風はどこからきたのか。
土の匂いは何処までも優しくて、人間という小さな存在が感じられる豊穣の証。
見上げて、葉の間から見える空はいつだって違っていた。
澄み切った青空、一度たりとも同じ形をしていない白い雲、太陽は世界を照らしている。
夜空はいつだって美しかった。空より広い星々の海。太陽の無くなった空を飾る夜の立役者は朝まで世界を照らしてくれる。
物心ついた時からこの山が全てだった。
古びた教会だけが知っていた人間の跡だった。
シスターの声で目を覚まして、たまに会う村人に挨拶をして。
果物を食べて、獣の肉を食べて。
地平線の果てまで森が続いているのだと思っていた。
山に流れる川は永遠に山を流れ続けているのだと。
木立ちを駆け続ければ、この世界の果てまで辿り着けるのだと本気で思っていた。
季節が回れば獣は増えて、果物が生って、花が咲く。
獣を狩って土に返して、果物を食べて種を撒いて、花が枯れるまで傍で寄り添う。
繰り返す。変化を繰り返す。
それでいいと思っていた。それがいいと思っていた。
ここだけが……自分の世界だったから。
自分が食べている獣や果物のように、自分もいつかこうやって山に還っていくんだと子供ながらに思っていた。
いや、無意識に命とはそういうものだと感じ取っていた。
「そろそろ文字を教えてやろうかね」
「もじ?」
シスターはそうやって俺に何でも教えてくれた。
あの木は何の木? あの花は何ていう花? この果物は何でおいしいの?
あの獣は何で襲ってくるの? 食べていいの? 川にいるのは何?
水の中で何で生きられるの? 何でこんなに痛いの?
シスターは俺に全部教えてくれた。今思えば時々困ったような顔をしていたように思う。好奇心が強い子供だったんだろう。
些細な疑問から命とはかくあるべきかまでシスターに教えて貰った俺はその日、文字を教えてもらったのだ。
「これなあに?」
「これは本さ。さあ、膝の上においでアルム」
「いいの? おひざすわったらおもくない?」
「重くないよ。おいで」
シスターが抱きしめてくれる事は何度だってある。
けれど、自分から膝の上に座るのが何故だが恥ずかしくて、少しもじもじしていた。
見かねたシスターに持ち上げられて膝の上に乗せられたのを覚えている。
それが嬉しかったのを覚えている。
でも、一番の驚きは膝の上に座った事じゃなかった。
膝の上に座って、シスターに寄っかかるように身を預けていると目の前に知らない紙の束が現れた。
さっき教えて貰った本の中には読めない文字と絵が書かれていた。
俺はその時文字が読めなかった。五歳になったばかりだった。
「読んであげるよアルム。ここにはね、お話が書かれているんだ」
「おはなし?」
「そうさ。どこか遠い場所で生まれた、面白いお話さ」
シスターは本を読み聞かせてくれた。
文字は読めなかったけど、シスターの声がこの文字に意味があるのだと教えてくれる。
書かれた絵の意味が自分の中で膨れ上がっていく。
膝の上で聞いたお話はどれも山の中にはない世界だった。
開かれる前は大して興味もわかなかったのに、開いた本の中には別世界が広がっていた。
煌びやかな城、人が賑わう町、悪い事を考える人、知らない料理に知らない服、空を飛ぶドラゴンに攫われたお姫様、そして――魔法使い。
山の中だけが世界だと思っていた、
けれど違った。
木立ちを駆け続ければ森を抜けて広大な平野に、流れる川はいつか大海に。
同じ世界の変化ではなく別世界。
自分がいる場所は世界ではなく、故郷と呼ぶのを知った。
「まほう……つかい……!」
故郷の外に、憧れがあるのを知った。
どこまで歩けばその憧れに辿り着けるのだろう。
歩いても歩いても、暗くなる前に森を抜ける事はできなかった。
その時は子供だからできないんだと思っていた。
大人になればなんだってなれると思っていた。
……そうじゃないと教えてくれたのもシスターだった。
「……」
ある時、木の枝が川を流れていた。
それを追い掛けた。
追っかけたら、どこまで行くのかを知れたような気がしたから。
川原の石に滑りそうになりながら、追って追って。
どこまでも追ってやろうと思った矢先に。
「あ……」
木の枝は岩に引っ掛かって止まった。
でもいつかは。
いつかは岩から抜け出してきっと。
そう思っていたら木の枝は岩から外れて、流れの勢いのまま川原のほうに投げ出された。
そこから木の枝は弱い流れに揺られはするも、流れる事はなかった。
五十メートルも追い掛けないまま、木の枝は止まったのだ。
川を流れ続けて大海に飛び出すと思っていた木の枝は、あっさりと止まってしまったのだ。
それが恐くて。とても恐くて。
俺はその木の枝を拾って村中を回り出した。
「俺、魔法使いになれるかな?」
誰かに心の底から、なれるさ、と言ってほしくて。
自分の未来を後押ししてくれるような川の流れが欲しかったんだ。




