番外 -姉ちゃんは聖女様5-
「はっ……! はっ……!」
自分で何とかできると思っていた。
俺だって魔法使いの家系だ。魔法を使える才能だってある。
それに練習だってしている。
だから俺は急に魔獣が出てきたって、動じずに魔法を唱えてその場を切り抜ける。
白状すると、そんな妄想を俺はしていた。
培った自信と頭の中に浮かぶ妄想がどれだけ脆いのかを知る。
魔法の練習と戦う練習は違うのだと思い知らされる。
背中を見せて、必死に逃げる俺の姿はきっと魔獣からしたら餌にしか見えないのだろう。
恐い。
ギイギイと五月蠅く響く魔獣ヴァーナの鳴き声が。
恐い。
いつも当たり前に来ていたこの山が、魔獣の狩場に変わった事実が。
俺はただ恐怖のままに足を動かした。
「やだ……! いやだぁ!!」
鳴き声が徐々に近づいている事に気付いて、涙が浮かんだ。
当然だ。人間よりも魔獣のほうが速いに決まっている。
人間が魔獣に対抗できるのは強化の魔法をかけているからだ。
俺は魔力もほとんど無くて、恐怖で"変換"もできやしない。
今かけている無属性魔法の『強化』程度では猿型の魔獣であるヴァーナに追い付かれるのも時間の問題だ。
走る。
走る。
子供のままだなんて嫌だ。
何もできないまま死にたくない。
死にたくない――!!
「ぜっ……! ぜっ……! 助け……たすけで……! うが!」
不意に足に走った衝撃で俺はバランスを崩して地面に転がる。
何故こけた?
そう思う前に、起き上がろうとした俺の体に石が投げつけられた。
この投石が足に当たったのだろう。
「あ……あ……」
立ち上がろうとする俺目掛けて走ってくるヴァーナの群れ。
走る事で恐怖を頭の片隅においておけたのもこれまで。
追い付かれるという恐怖と、ヴァーナ達の血走った目に俺は完全に動けなくなっていた。
「ギイイ!!」
「ギギイイイイ!!」
ヴァーナ達の鳴き声が勝者の高笑いに聞こえ始めたその瞬間――
「え……?」
――俺の前で時間が止まった。
止まった。何で? 何が起きた?
俺に飛び掛かろうとしているヴァーナも、木から木に飛び移ろうとしてるヴァーナも、地面を走るやつも、草むらから飛び出そうとしているやつも……全てが。
俺は訳もわからず、立ち上がれないまま突如止まったヴァーナの群れを観察する。
時間が止まったわけじゃない。ヴァーナ達も何が起こったのかわかっていないようだった。ギイギイとまるで会話するような鳴き声だけが聞こえてくる。
一体、何が――?
「よかったぁ……無事でー……!」
「ね、姉ちゃん……!」
「リュカー! もう心配したよー!」
突然の声で後ろに振り向けば、安心した様子の姉ちゃんが現れた。俺を探しに来てくれたのだろう。
だが姉ちゃんは姉ちゃんでも……屋敷で見た時と明らかに違う部分があった。
「姉ちゃん……そ、その目……!」
「ああ、これ? ふっふーん! 自前の目は潰れちゃったけど、ボク思ったんだよねー……目が無いなら自分で作っちゃえばいいんだって! いい考えでしょー?」
「……」
自慢げに語る姉ちゃんの言葉に、俺は絶句してしまった。
けれど、仕方のない事だろう。許してほしい。
マナリルでは人体を使った魔法の研究は禁忌とされている。昔はやっていたが、その昔やっていた研究が全く実らないまま人体実験での被害が増え続けた結果、全面的な禁止となったのだ。
必然、欠損した魔法や臓器を魔法で補うというアプローチが発展するわけもなく……表立った成功例は存在しない。
なのに。
そのはずなのに、目の前にいる。
間違いなくなかったはずの両目の場所に、銀色の瞳を輝かせている魔法使いが。
俺の……俺の姉ちゃんが、潰れたはずの両目を魔法で創り出している――!
「待っててねー、ちゃっちゃと追い払っちゃうから!」
「あ、ね、ねえちゃ――」
姉ちゃんは俺の頭を撫でて不可解な止まり方をしている魔獣の群れのほうへと歩いていく。
制止しようとしたが、姉ちゃんは散歩するかのように群れのほうへと歩いていった。
さっきから一体……何が起こってるってんだよ……?
「驚きましたか?」
「ま、マリツィアさん……」
困惑している俺の後ろから今度はマリツィアさんが現れる。
姉ちゃんと一緒に俺を助けに来てくれたのか。という事は、止まっている魔獣の群れはマリツィアさんがやったのか?
「無事でなによりですリュカ様。ベネッタ様に感謝しなければなりませんね」
「ね、姉ちゃん……?」
「ええ、あの魔獣の群れを止めているのはベネッタ様ですから」
「え……?」
俺は驚きながら姉ちゃんのほうを見る。
姉ちゃんを目の前にしても魔獣の群れ……ヴァーナ達は固まったままだった。
威嚇するようにギイギイと鳴いているものの、その手足はぴくりとも動かない。
ヴァーナ達と同じように困惑している俺を立ち上がらせながら、マリツィアさんは今目の前で何が起こっているのかを教えてくれた。
「ベネッタ様が覚醒させた血統魔法【魔握の銀瞳】はその瞳に映る魔力ある生命をその場に留めます。行動を止めるのではなく生命を在る場所に固定させ、概念にも干渉する事ができる世界改変魔法の一種……小型の魔獣などでは手足はおろか指一本動かす事などできません」
「ね、姉ちゃんが血統魔法を……覚醒……?」
「はい、その力によってダブラマは救われました。とある怪物を蘇らせる儀式を……その血統魔法によって食い止めてくださったのです」
血統魔法の覚醒を姉ちゃんが?
教えて貰ってなお俺の混乱は加速するばかりだった。
……知識だけでなら知っている。
血統魔法の覚醒は才能溢れる魔法使いにだけ許される血統魔法の変革の一種。
血筋と家名に結びつく血統魔法の歴史を次のステージに押し上げる魔法使いの偉業にして、魔法使いが血統魔法を使いこなし、真に自分の魔法として扱えたという証明。
ほとんどの魔法使いが過去からの"抽出"が限界で血統魔法の"現実への影響力"を変えられぬまま終わるのに……あの姉ちゃんが?
「なにが……どうなって……ニードロス家の魔法は……魔力のある生き物の位置がわかるだけの……それだけの魔法のはずなのに……」
「ベネッタ様の瞳の前では生半可な生物は動く事はできません。あの十数匹いる魔獣の群れもじきに……本能で自分達の命の終わりを悟るでしょう」
「え? ど、どういう……?」
「わかりやすくご説明致しましょうリュカ様」
マリツィアさんはにこっと笑った。
まるで自慢の友人を誇るみたいに。
「この場にある命はベネッタ様の瞳が掌握しました。この場にいる生物の生死の権利は今……ベネッタ様のものとなった」
「姉……ちゃんの……」
あれだけ俺を餌として見ていた魔獣のヴァーナが震えている。
わかる。あれは恐怖だ。俺がさっきまで抱いていたのと同じもの。
自分達の命が目の前の人間に握られているのを理解して、絶望しているのがわかる。
諦め、絶望、恐怖……突然現れた支配者によって……まさにこの場は一変していた。
ダブラマの英雄。冗談だと思っていた。
聖女。信じ切れていなかった。
でも、今なら信じられる。
俺が知っていた姉ちゃんとは別人のようで。
「うーん、見た感じ過剰魔力での暴走って感じじゃないなあ……なら殺すのは可哀想かー……この様子だと人里に下りてくる感じも無さそうだし……」
余裕そうな姉ちゃんの言葉にさらに衝撃が走る。
マリツィアさんの言う通りだった。
この場にいる全ての命は今、姉ちゃんが握っている。
姉ちゃんの意思一つで、十数匹の魔獣が生かされる事が決まった。
十数匹いたヴァーナ達は急に動けるようになって、空中に磔されたように止まっていたヴァーナも突然地面に着地する。
解放されたヴァーナ達はもう俺の事なんて見もしていなくて……目の前に立っている姉ちゃんに怯えて後退り始めている。
「今日の所は許してあげよう……何か事情があるっぽいしね! ほら行った行った!」
姉ちゃんの言葉が通じたのか恐怖に耐えられなかったのか、ヴァーナ達が大急ぎで逃げ始める。
一目散に逃げる背中はまるで、この場に一時もいたくないと語っているようだった。
……もう終わったと思っていた。殺されると思うようなピンチだった。
俺にとっては窮地で、殺されるかもしれないという恐怖を味わった一幕。
だけど、姉ちゃんにとっては何て事無い事態。
姉ちゃんが現れただけでこの場には争いの跡どころか、一滴の血も流れない。よくある山の光景がただ残る。
これが、聖女。
これが、実戦を経験した魔法使いの卵。
これが……本物――!
「大人しく遠くの山に帰るんだぞー!?」
逃げ出す魔獣に笑顔で手を振る姉ちゃんの姿は何よりも頼もしくて。
ただ優しいとだけ思っていたその背中は……俺が夢見る魔法使いそのものだった。
「もう帰ってしまわれるなんて……残念です」
「元々、私の滞在はカルセシス陛下に無理を言っておりまして……滞在期間が決められているのです。それにいつまでも故郷を空けているわけにもいきませんから」
今回姉ちゃんとマリツィアさんがニードロス家の屋敷に来たのは本当に無理を言っての事だったらしく……二人は翌日の昼には屋敷を発つ準備を終えていた。
予定通りの時間にニードロス家の屋敷の前に豪華な馬車が停まり、二人が乗り込むのを待っている。
結局……俺は魔獣に襲われたショックと魔力切れで山から下りてすぐに眠りについてしまった。
ぐっすり寝て疲労を回復させた時にはすでに二人は出発の準備をしていて……まるで昨日の出来事は夢みたいだ。
当の姉ちゃんはにこにこと嬉しそうだ。
そわそわとお母様とマリツィアさんが話し終わるのを待っている。
「……そんなに帰りたいんかよ……?」
少し意地悪な質問を投げかけると、姉ちゃんはにひひと笑った。
「うん! ベラルタに帰ったらね……友達と一緒に進級祝いするんだよー!」
「友達……姉ちゃん友達できたのか?」
「し、失礼な! いっぱいできたよ! ミスティでしょー? エルミラでしょー? ルクスくんにサンベリーナさん、フラフィネさんだってそうだし、ネロエラとかフロリアとかー! グレースさんとヴァルフトくんは……うーん……微妙だけど友達カウントにしとこ!」
名前を呼びながら自分の指を順番に折る姉ちゃんの姿はあまりに嬉しそうだった。
あまりに嬉しそうな姉ちゃんの顔を見ていたら嫌味を言ったのが馬鹿らしくなる。
こんなに心からはしゃいでいる姉ちゃんは初めてだ。
「それに……」
「ん……?」
姉ちゃんは黙って最後の指を折る。
その表情は両目が無くてもわかるくらい幸せそうで……昨日の逞しい姿と同様に、知らない姉ちゃんがそこにはいた。
「見守ってないとボロボロのまま突き進んじゃいそうな……放っておけない友達もいるしね!」
ああ、もう寂しくないんだなと……俺のほうが少し寂しくなっていた。
ベラルタにはきっと、姉ちゃんの友達が姉ちゃんのことを待っているんだろう。
"ボクは間違っていなかった"
昨日の姉ちゃんの言葉の意味がようやくわかったような気がした。
姉ちゃんは出会ったんだ。大事な人達に。
きっと、自分の両目と引き換えにしてでも守りたい時間があって……姉ちゃんはそれを守り切ったんだ。
だから、後悔してないんだ。どれだけの覚悟が必要であったのか、俺には知る由も無いけれど、きっとそういう事なんだろう。
「ベネッタ様、そろそろ……」
「うん、行こっかマリツィアさん!」
お母様とマリツィアさんの話が終わり、姉ちゃんとマリツィアさんが馬車に乗り込む。
姉ちゃんは窓から顔を出して俺達のほうに大きく笑顔で手を振っていた。
「お邪魔致しました」
「いってきますお母様ー! リュカー!」
俺とお母様はそんな姉ちゃんに手を振り返す。
久しぶりに会った姉ちゃんは昔と変わらず優しくて、昔と違って寂しそうじゃなくなっていて……弟の俺が自慢したくなるような姉ちゃんになっていた。
「いやぁ……でも聖女は似合わねえよな……」
改めて考えてみたけれど、お淑やかさをごっそり引き算したような姉ちゃんにはやっぱり似合わない。ダブラマの英雄はともかく聖女は……何というか柄じゃない。
こんな事言ったら怒られるかもしれないが……弟なんだからこれくらいは許されるだろう。
そうだろ? なあ、聖女様?
俺は次会ったらそうからかってやろうと密かに決めて屋敷に戻る。
姉ちゃんが楽しそうに話す、ベラルタ魔法学院を改めて目指す事を本気で決めて。
――後日。
ニードロス家現当主であり、ベネッタの父親であるポルフォス・ニードロスは隣領のパーティから帰ってきてこの事を知る。
「だ、ダブラマの大貴族が来ていた!? どうして教えてくれなかったんだい私の可愛いレトラーシャ!?」
「だってポルフォスあなた……パーティに行ったらいつも数日は帰ってこないでしょう。それにニードロス家の恥……ではなく、当主のあなたの手を煩わせる必要も無いかと思ったものですから」
「れ、レトラーシャ……? 今私の事を恥と言わなかったかい?」
「気のせいですよポルフォス」
「というよりもベネッタが帰ってきたなんて……はっ! レトラーシャ! ベネッタに当主になるように言っておいてくれただろうな!?」
「……勿論、母親としてしっかり言葉をかけさせて頂きましたよ?」
「そ、そうか! 流石はレトラーシャだな!」
「ええ、ベネッタのためになるようにと心を込めて言葉をかけました」
「そうかそうか! がははは! 流石は私の妻だ!」
そんなポルフォスはレトラーシャに軽くやり込められていたそうな。
いつも読んでくださってありがとうございます。
今回の番外シリーズはここまでとなります。
 




