682.呪われた魔法使いとお姫様5 -幻想曲-
たった一言で救われた。
口元を閉じ続け、姿を偽り、自分の呼び方すら変えていた私は……あの日、世界の全てから石を投げられていたような錯覚から解放された。
"綺麗な白い歯だと思うが"
彼にとっては大した事のない言葉だったとわかっている。
彼は嘘も誤魔化しも苦手な人。ただ思ったままを言ってくれた。
自分の世界に閉じこもった私にとって、それがどれだけの救いだったか。
トラウマでしか無かった牙を、彼は綺麗だと言ってくれた。
ただそれだけで私の世界は広がった。
私を恐がる人もいれば、受け入れてくれる人もいる。そんな当たり前の事実に彼は気付かせてくれて……この牙を見せるのはまだ恐いけれど、それでも見せても大丈夫だと心の底から思える友達も出来た。
彼のその一言で、私は今とても多くのものを貰っている。
……けれど。
私はあの人に、何をあげられたのだろう。初めて出来た私の好きな人に。
「きゃあああああああああああ!!」
舞台の上に現れた赤眼白毛の狼――魔獣エリュテマの出現に観客席から悲鳴が上がる。
一部は騒然とし始めるが、舞台の演出と思っている生徒もまだいるようでパニックにはなっていない。
ラーニャの護衛もエリン含め判断がつかないのか険しい表情になるも行動を起こせずにいた。
あれがただの演出であれば、下手に魔法を撃ちこんだ瞬間両国の関係に軋轢を生むきっかけになりかねない。
しかし、動揺が無いわけではなく……エリンはラーニャを即座に庇えるように身構える。
「ば、馬鹿な!? エリュテマだと……!?」
「落ち着きなさいエリン」
そんなエリンを諭すようにラーニャが声をかける。
「しかし!」
「彼女は恩人の一人ですよ。私達ガザスの」
「え――?」
ラーニャの冷静な態度とその言葉でエリンもようやく思い出す。
大嶽丸によって行われたガザスの王都侵攻の事件。その前哨戦と言わんばかりにガザスの王都シャファクが利用している水源の一部に毒が盛られた。
その毒の解毒薬となる薬草を運んできたのがエリュテマを率い、自身もエリュテマに変化していた少女だったという報告を。
「あの時の……? いや、ですが……あれは……!」
エリンはもう一度舞台のほうに目を向ける。
アルムと向き合う魔獣エリュテマは暴れる様子も無ければ、襲い掛かる様子も無い。
それどころか……劇を続けるためにアルムと一緒に観客席のざわめきが収まるのを待っているかのようだった。
舞台の上にゆっくりと降り続ける雪は物語の時間がまだ止まっていない事を観客に伝えているかのよう。
「ま、まさか……あそこまで獣化に特化して……!?」
「何より驚嘆すべきは獣化特有の精神変化が起きていないこと……エリュテマの精神構造をイメージできているということです。使い手が」
一体どんな人生を歩んだらそんな事が可能だというのか。
それこそ自分が妖精と一緒に人生を過ごしたように幼少から魔獣と過ごしでもしなければ無理なのではないだろうか。
ラーニャは自分の肩にとまっている妖精をちらっと見る。小人に羽が生えたような可愛らしい外見だ。普通の人間には見えないし、いても特に害がある存在でもない。
このような存在とならばともかく、肉食の魔獣が人間と過ごせるとはラーニャにも到底思えなかった。
「ヴァン殿も自慢していましたが……なるほど、宝石揃いというわけですね。この世代は」
最初は悲鳴が上がったが、ざわついていた観客席はしばらくすると落ち着きを取り戻していった。
ラーニャが避難しない事と、舞台の上に立つアルムが特に驚いていない事がこれは劇の演出だと理解させたようだった。
アルムは観客席の声が収まったのを確認したように見つめて、舞台の上で大人しくしているエリュテマのほうを向いて頷く。エリュテマのほうも応えるように頷いた。
短くも確実に意思疎通できている仕草が、観客達にも一層の安心を与える。
『雪夜の山など、人間が来る場所ではなかろう』
「喋った!?」
観客席にいた生徒の一人が驚愕からか声を上げる。
その生徒はすぐに口を押さえた。
批難するような目で見る者もいるが、仕方ないだろう。
エリュテマは会話できる魔獣ではない。そも会話できる魔獣は伝承によって伝え聞く程度しかいないのだから。
観客席に静寂が戻ったのを確認し、舞台は続く。
『驚いた。喋る狼……俺の旅もここで終わりか?』
『終わると悟るには早い力を持っているではないですか』
『わかるのか?』
『魔法の心得ならば多少あるから』
『二度も驚かされることになるとは思わなかった』
ゆっくり、ゆっくりと降る白い雪。
アルム演じるリベルタの頭や肩にも赤眼白毛の狼の頭や背にもそれは等しく降り続ける。
『白い狼。あなたの名前は?』
『ネロエラ。あなたは?』
『リベルタ。旅人さ』
ネロエラ演じる魔法使い――から急遽変更された魔狼ネロエラとリベルタが自己紹介を終えると、リベルタは荷物を下ろして腰かけた。同じように、ネロエラも座る。
『人間は変わった魔法を使うんだな。いや、別段変わっているというわけではないが……便利、そう便利だな』
『母から教わった魔法だ。こんなの使うやつは俺しかいない』
『そうか。リベルタも私と同じで異端か』
『私も同じ?』
どういう事だ、と興味津々に身を乗り出しながらリベルタが問う。
『狼とは普通、群れをなすでしょう。だが……見ての通り私は一人だ。追い出された憐れな狼というわけだ』
『俺も同じだ。追い出された。呪いの子だってな』
『呪い……? ああ、あの呪われた国から来たのか?』
『知っているのか?』
『ああ、あそこからは嫌な感じがするから……だがリベルタからはその嫌な感覚が無いようだけど?』
『つまりそういう事だ……濡れ衣ってわけだ』
『……なるほど、お互いに苦労する』
リベルタとネロエラが笑い合う。
もう、観客席で見ている生徒にエリュテマに怯える生徒はいなかった。
今舞台の上にいるのは狼役のネロエラ。そしてリベルタの旅路で出会った……リベルタと境遇を同じくする同志だった。
前のシーンまで自身の理不尽に嘆きながらも進もうと語るリベルタを知っているからこそ、観客席は旅路で出会った同志の存在を喜ばしく思った。
無表情だったリベルタが笑っている。それはこの舞台にとって意味あるものだと観客席にいる者達も気付いている。
しかし、それでも肉食の獣と人間。
リベルタの笑いはどんどんと小さくなっていく。覚悟を決めたような表情を見せた。
『……俺はネロエラ、あんたに食われるのか?』
『リベルタは食べられたいのか?』
『そうじゃない。けれど、諦めなければいけない時というのはある……食うなら一思いにやってくれ』
リベルタは両腕を差し出すように前に伸ばした。
しかし、牙はその両腕に立てられる事は無い。
『本当に?』
代わりに帰ってきたのはさらなる問いだった。
ゆっくり、ゆっくりと雪が降る。
『私には、リベルタにその言葉は似合わないように見える。濡れ衣を着せられ、私が住むこの山までこうして君が歩いてきたように……君はまだ諦めてなどいないじゃないか』
『これしかやり方を知らなかったんだ』
『いいや違う。きっと違う道はあったのに、君は今の道を選んだんだ』
『追い出されたからさ』
『いいや、私にはわかる。君の足跡は決して、仕方なくこの道を選んだ歩みじゃない。何かを信じ、力強く歩んできた者の足跡だ』
ネロエラは天を仰ぎ、そして遠吠えを一つ。
観客にどう聞こえたかはわからない。
けれどそれは、目の前に座る友に向けて響き渡る。
『だから私は友として君の背中を押したい。君の旅路の途中で出会った者として……最大限の敬意を込めて。君は決して諦めてなどいない。この山から君の旅の無事を祈っている』
『ネロエラ……』
『さあもう行くといい。山の寒さは人間の体には堪えるでしょう。私の声でしばらくは獣も寄り付かないはず……吹雪く前に下山して君の道を行け。そしていつか、また会おう』
『……ありがとう、ネロエラ』
リベルタは荷物を背負いなおして、ネロエラに背を向ける。
旅路で出会った不思議な狼と心を通わせ、リベルタは先へと進む。
一歩歩み出したと思えば、リベルタは振り返った。
『なあ、なんであんたは追い出されたんだ? こんなにいいやつなのに』
『……特に特別な理由はないよ。この見た目を恐がられたのさ、よくある話さ』
それは舞台に現れた時の観客のざわめきを指しているかのようだった。
悲鳴が上がり、動揺した観客席は予定通りだったのではと錯覚を起こさせると同時に観客達の心に少し罪悪感が残る。
今は、そんな事ないのにと舞台の上の登場人物にこの気持ちは伝えられない。
『そうなのか……でもそんな事は無い。少なくとも、俺から見たあなたは美しい』
観客席と心を通じ合わせたかのようなリベルタの台詞。
ネロエラにそう告げて、リベルタは今度こそ背を向けて――
「とっても嬉しい。けど、その言葉はあなた自身に向けてあげて」
「――」
「ずっと、応援してる。あなたから貰った言葉を胸に」
舞台袖に向かって歩こうとした時ネロエラからの言葉が返ってきた。
台本に無い台詞にアルムは一瞬戸惑い、出かかった声を喉奥に押しとどめた。
何だ。
俺が飛ばしたのか。
リベルタを演じるアルムの心に動揺が走る。
いや、リハーサルでもこんな台詞は無かった。予定ではここで別れの言葉を言い合って暗転するはずなのだ。
『さようなら、我が友リベルタ』
『……さようなら』
何事も無かったかのように、台詞は台本へと戻る。
薄闇の中にあった白い風景は舞台の暗転と共に消えていった。
照明が消えた舞台に向けて、拍手が送られる。
舞台袖に掃けたネロエラは魔法を解除して人の姿に戻る。
終わったセットなどが置かれている舞台裏の端っこで肩に乗った雪を払っていると、凄まじい勢いでフロリアが駆け付けた。
少し息を切らして前に立つフロリアに、ネロエラはにこっと笑みを見せる。
フロリアはその作り笑いを見て、座っているネロエラと同じ視線になるようにしゃがんだ。
そしてネロエラの手を取ると、ネロエラは口を開き始める。
「フロリア、私ね」
「うん」
フロリアが頷く。
「やっぱり、駄目だった。言えなかった」
「うん、頑張ったね……」
「私は、自分の事ばかり、だから」
「そんな事ないよ」
ぽつぽつと話すネロエラに、フロリアは優しく応える。
ネロエラの声は、震えていた。寒さとは別の理由で。
「私はアルムから貰っているだけで、あげられるものが無いから。私じゃ駄目なんだ……私じゃない。私ができるのは、友達としての応援だけなんだ」
「真面目だなぁ、ネロエラは」
「ごめんねフロリア、せっかく応援してくれたのに」
「何言ってんの。あなたがそう決めたんでしょ」
「……うん、いつかは言うかもしれないけど、でもそれは今じゃなくて……そして多分私が言う時のその言葉は告白って形じゃないんだと思う」
「それでいいの?」
「ああ、いいんだ。私は、もう貰ったから。無縁だと思ってた感情とフロリア達と友達になれた幸せな現実を、どっちも……あの日に貰ったんだ……!」
抑え込んでいた感情と観客席に届かぬよう耐える嗚咽の代わりのように、ネロエラの瞳からボロボロと涙が零れ出す。
ネロエラの真っ白な肌に涙が落ちる。雪が降り積もるように。
フロリアはそんなネロエラを涙ぐみながら抱きしめた。自分より小さな友人の決断が、変化を恐れたのではなく想いを寄せた相手を思いやった末に出したものだとわかってしまったから。それしか、することができなかった。
「ああ……とっても素敵な、恋だったなぁ」
ネロエラは呟いて天井を仰ぐ。
冷える体の胸の中、想いだけがその熱を持ったまま。
赤い瞳の先に見える理想はどこにもなく。
口元に見える牙が抱く忌々しい記憶はいつか、大切な思い出へと変わっていた。




