672.女王の来訪
原野に吹く涼やかな風。空に輝く太陽は心地よい空気を作る。
のどかな風景の中、整備された街道を一台の馬車が走っていた。
稼ぎ始めた商人が使うような少し背伸びしたような外観。マナリル式の意匠。
平凡な服装の御者が手綱を引き、どこかで雇ったであろう装備も整っていない輩が二人ほど護衛として付いているだけの何の変哲も無い馬車だった。
その馬車は一見、ベラルタに向かうただの商人の馬車の一つに見えるが……野盗がこの馬車を襲いでもすれば、恐らくその野盗達に次の日は来ないだろう。
護衛として付く二人の佇まいはその見た目に反して精悍。
体内では今か今かと魔力が渦巻いており、野盗や魔獣が立ちはだかった瞬間、その命に魔法が向けられるのは間違いない。
平凡な装いをした御者も、偽装こそしているがその目は周囲に目を光らせている。
そして何より馬車には尋常ではない"現実への影響力"を持った防御魔法が張られており……内部は狂暴化した魔獣が襲い掛かってもびくともしないであろう。
「夏にやると蒸し暑くなりそうよ。エリン」
「今が春で幸いでした」
「そうね」
偽装用の外観とは違い、内装は天井にガザスの意匠を凝らした特注品。
長旅でも体が痛くならないようにと設置された上等なシートに座るのはガザス国女王ラーニャ・シャファク・リヴェルペラとその護衛魔法使いエリン・ハルスターの二人だった。
馬車はエリンが得意とする結界魔法――防御魔法の一種――が何重にも張り巡らされていた。
エリンは片腕ながらもかつて大嶽丸との決戦において命を一つ消費させた事もある一流の魔法使い。
一国の女王がこのような少人数で来れるのはアルム達への信頼とそしてエリンの腕があってこそだ。
馬車の周囲を固める護衛二人と、御者に扮している魔法使いの腕も確かな実力を持っている。
「万全を期すならマルティナも連れてきたかったのですが……」
「駄目よそれは」
ラーニャは日差しも当たっていないのに輝いて見えるダークブラウンの髪をかく。
「何事だと思われてしまうもの。ガザスの魔法騎兵隊ハミリアの新隊長であるマルティナまで不在なんてなったらね」
「そうでした。今回はあくまでガザス留学のメンバー選定の為の視察でした」
「そうよ。霊脈の調査内容やカンパトーレの不穏な動きなんてマナリルには持っていかないんだから。私達は視察しに行くだけ」
「仰る通りです」
エリンが座ったまま深々と頭を下げる。
頭を上げると、ラーニャはカーテンの隙間からちらちらと外を気にしていた。
「……ラーニャ様、他に目的は無いんですよね」
「勿論。視察だけ視察だけ」
「では……そのうきうきとした表情をもう少し抑えてみてはいかがでしょう。とある方に会いたいのが私の結界魔法をもってしてもだだ漏れになってしまいそうです」
「大丈夫。私は信頼しているわ。エリンの魔法を」
「ではカーテンを開ける頻度をもう少し……心配せずとも昼には着きますから」
「わかったわ。仕方ないものね」
そう言いながらも、少しするとラーニャは再びちらっとカーテンをめくる。
当然ベラルタはまだ見えない。
「ラーニャ様?」
「少しだけ少しだけ」
「ラーニャ様。お顔が外に見えてしまいます。ラーニャ様? カンパトーレが不穏な動きを見せているってさっき自分で言いましたよねラーニャ様? ラーニャ様聞こえていますか? ラーニャ様!? そんなに見てもベラルタは近くなりませんよラーニャ様!!」
ベラルタが近付くいていくにつれてカーテンを何度もめくる困った女王様を連れて、馬車は妖精の加護を受けながら進んでいく。
エリンの言う通り、ラーニャがどれだけ見ても到着が早くなることはなく……馬車は予定通り昼頃にベラルタに到着した。
門では通常と変わりない審査を受けて、ラーニャを乗せた馬車はベラルタへと入っていく。
それはベラルタの住人からすればいつもの光景であったが、ラーニャにとっては未開の地に足を踏み入れるような期待があった。
「あれがベラルタ魔法学院……アルムさん達が通う魔法学院ですか」
窓越しに見えるベラルタ魔法学院を見て、顔を綻ばせるラーニャ。
去年までラーニャも通っていたガザスのタトリズ魔法学院は歴史ある建造物であるのに対して、ベラルタ魔法学院は白を基調にしたシンプルな外観だ。
だが、ベラルタの中心に建つその佇まいは城のようであり要塞のようでもある気がした。
城下町に値する街の風景は学院と違って古都のような雰囲気を持ち、時折建物の間から見える木々と調和している。
「許可証を持った人間しか住めず、住民全員が生徒とここの住民のためだけに店の経営や施設の管理を行う街全てを使った育成機関……壮大なスケールですね。魔法大国マナリルならではの」
「住民の選別はどうやっているんでしょうか……? マナリルは何故か呪詛魔法だけは発展してませんでしたよね。制約を課せないのでは……」
「そこは魔法大国マナリルです。これの力でしょう」
ラーニャは細く綺麗な人差し指と親指で、やらしい丸を作ってみせた。
エリンはそれを見て嫌そうに眉間に皺を寄せる。
「おやめください、はしたない……」
「でも一因ではあると思うわ。呪法で縛るよりよっぽど楽だし、魔法大国マナリルの魔法使いが魔法を使って制約をかけないというのは民への信頼も示せるでしょう? それにここは魔法使いの卵が集まる街……一般市民の治安は最高クラスでしょうから、背く人も必然少なくなるわ」
「なるほど……確かに、平民が犯罪を犯すには最悪の環境ですね」
「一般の兵に加えて、その気になれば百人を優に超える魔法使いの卵が捜索に加われるんだもの。利口よね。真っ当に生きるほうが」
よくできてるわ、とラーニャはついに窓の外に釘付けとなった。
ベラルタに入って少し気が緩んでいるのだろう。
エリンは注意しかけたがベラルタに入っている事と、もうすぐでベラルタ魔法学院に着くので見逃す。彼女も何だかんだラーニャに甘いのである。
ベラルタ魔法学院の門の前に着くと馬車がゆっくりと止まる。
ここまで来ればオウグスの感知魔法の範囲内。
だが、ラーニャにはそんな事は頭から飛んでいた。
門の前で出迎える面々の中に、会えるのを心待ちにしていた人の顔があったから。
エリンに鏡を出して貰い、ラーニャは自分の顔を隅々までチェックしながら自然な笑顔を作り始めた。
馬車の扉が御者によって開けられるまで終わらない身だしなみを続けて、待ちわびた扉が開く音が鳴る。
扉の先には、黒い髪と瞳の少年が待っていた。
「お久しぶりですラーニャ様。お手をどうぞ……お待ちしていました」
「会いたかったですアルムさん。我々ガザスの友人に」
慌てていた事も会えて嬉しいという気持ちも抑えて、ラーニャはアルムの手を取って馬車から降りる。
アルムの胸に自分が贈った勲章が付けられているのを見て……妖精のような輝く笑顔を見せた。
「急なお話で申し訳ありませんが……数日、お世話になりますね」
「ラーニャ様の良い思い出を増やせるように頑張ります」
ベラルタ魔法学院祭まで後一日。
主賓であるラーニャの到着は事情を知る教師陣と"国境無き友"の勲章を贈られているガザス王家の友人アルムの数人によってこじんまりと行われる。
しかしラーニャにとっては、アルムによるエスコートが何よりも嬉しかった。
そんな想いを代弁するように、ラーニャの妖精達は光の鱗粉を撒きながら飛び回る。
いつも読んでくださってありがとうございます。
第九部最終章となります。いつもよりちょっと長くなるかもしれません。




