671.学院祭に向けて3
"俺とミスティが恋人なんて有り得ないだろう"
月が綺麗な夜。私は自室でふとあの日言われた事を思い出す。
思い出すだけで体が冷たくなって、目から涙が零れ落ちる。
覚えているのは刺されたような痛みでした。
無自覚で真っ白な刃は皮膚や体なんてないかのようにすり抜けて、胸の奥をゆっくりと抉っていくようで。
体と心を無理矢理引き裂きでもすれば、こんな痛みになるのかもしれません。
他の誰かに言われても、きっと何とも思わない。
そんな事は無いと否定して、いつもの自分でいられるでしょう。
けれど、あなたが口にするだけで、その一音一音が私を殺す為の言葉のよう。
「こんな事では、いけませんね」
ゆらりと涙で視界が歪む。
濡れた頬に夜風が触れて、私の体温を奪っていく。
あの時は平静を装うだけで精一杯で、真っ暗になってしまったけれど。
……今は違う。
だって、私には被害者ぶる資格はないのです。
私はアルムに何も言っていない。
私はアルムに何も伝えていない。
私はただ勝手に傷ついただけ。勝手にアルムに寄り添おうとしているだけ。
アルムに言わせたのはあの時まではっきりと言葉にしてこなかった私自身。
関係が変わってしまうかもしれないと、誰かに奪られてしまうかもと恐がって……周りに見せつけるように、自分に都合のいい距離感を保ち続けた罰。
だから、この痛みは受け入れなければいけません。たとえ助けてと言いたくなるほど痛くても。
……あの夜、アルムはちゃんと言葉にしてくれた。
グレイシャ御姉様を殺した事に、しっかりと向き合ってくれた。
私に恨んでいいと言って、私に復讐する権利があると言った。
私の世界を壊した事に罪を感じて、恐がって……私に殺される覚悟を持って私と向き合ってくれていた。
マナリルの敵となったグレイシャ御姉様を殺した事を偉大な功績として振りかざす事なんて一度もしなくて……グレイシャ・トランス・カエシウスという人と向き合った上で、グレイシャ御姉様の妹である私に告げてくれていた。
それは、どれだけの恐怖だったのでしょう。
自分を友人としてではなく、仇として見てもいいと選択肢を自分から告げるだなんて。
彼はどこまでも、私の魔法使いだった。
そして、伝えなければいけない言葉を誤魔化さずに告げてくれる誠実な人だった。
「アルム……」
思い出すだけでも、助けてと言いたくなるほどに胸がいたい。
記憶の中のあなたを思い出すだけでこんなに苦しいのに、こんなにいたいのに。
それでも――こんなにもあなたに会いたい。
胸を裂くようなこの痛みはきっと、私があなたを想う証だと思うから。
泣きそうなほど痛くて、吐きそうなほど苦しくても、今ここにあなたが好きな私がいると確かに感じられるのなら受け入れられる。
「……アルム」
小指にはめた指輪を抱きしめるようにしながら、私は彼の名前を呼ぶ。
きっと今夜の私は世界で一番独りで、我が儘で、女々しい。
届くはずのない声と届くはずのない想い。
好きな人の名前にそんな想いを沢山詰め込んで、私は重ねて口にする。
どれだけ言葉にしても、胸の中の痛みも想いも消えてなくなる事はない。
ようやく、この胸の不安も痛みも、特別を加速させる燃料なんだと私は気付いた。
なんて都合のいい感情だろう。
なんて自分を振り回す感情なのだろう。
いつの間にか涙は流れなくなっていて、結局……改めて彼が好きだという事を強く自覚しただけだった。
この恋を、幻想のままにしたくない。
この恋を、現実に叶えたい。
アルムがたとえ有り得ないと思っていても、平民と貴族という壁があったとしても。
私は私の欲望のまま、その壁を思い切り壊しましょう。
「覚悟を決めると、こんなにも違うのですね」
誰かが決めたであろう常識も。
四大貴族としてなんて事も。
カエシウス家だからとか。
輝かしい家柄とか。
恵まれた才能とか。
そんなもの全部全部関係ありません。
だって、常識は私を救ってくれなかった。
四大貴族という肩書きも、カエシウス家という家名は私にとって誇りであり重荷だった。
ずっとずっと寒くて凍えていた私を、家柄も才能も救ってはくれなかった。
それを持っていた人達は、誰も私を救えなかった。
私を救ってくれたのはそんな常識を蹴っ飛ばして、私の声を聞いてくれた人だから。
そんな人を好きになるなというほうが無理なのです。他の人となんてそれこそ有り得ません。
たとえアルム自身が有り得ないと思っていても、私はそれを否定しましょう。
今回の演劇をグレースさんはアルムのためと言っていたけれど、私にとっては私のための舞台。
私の欲望を叶えるための日にしましょう。
「私って、こんなに我が儘でしたでしょうか……? それとも有り得ないと言われてどこか歯止めが利かなくなってしまったのでしょうか……?
……でも、たまには我が儘になってもいいですよね?」
私はあの人の隣にいたい。
その指で私の髪に優しく触れてほしい。
その声で私の名前を呼んで欲しい。
その腕で私を強く抱きしめてほしい。
その瞳と、ずっと見つめ合っていたい。
はしたない女だと思われようとも、そうしてほしいのです。
もう、触れそうで触れられない距離でいる時間は、きっと終わる時。
アルムの都合なんて知った事ではありません。だって、私がそうしたいのです。
曖昧な時間も心地よかったけれど、私はきっとその曖昧な時間を永遠に過ごしたいわけではなかったのです。
「うふふ……有り得ない程度で諦めるなんて、それこそ有り得ませんよね」
私は私の理想のために、あなたを閉じ込める世界を壊しましょう。
それはもう盛大に豪快に。あなたと私の間にある不届きな壁なんて粉々にして。
あなたが教えてくれたんですよアルム。
理想とは不可能を指す言葉ではないのでしょう?
――私の理想はもうあの夜、あなたに恋をした日から決まっていたんです。
いつも読んでくださってありがとうございます。
ここで一区切りとなります。
そして次の本編更新から第九部最終章の更新となります。皆様これからも応援よろしくお願いします。




