658.生き方
「ふんふーん……」
街が橙色に染まる夕暮れの頃。
鼻歌ととんとん、という包丁の音がキッチンに心地よく響く。
ミスティ宅の使用人ラナは今晩のデザートの準備をしていた。
丁寧に切った林檎を鍋に並べてからワインを入れ、砂糖とメープルシロップ、シナモンを加えて火にかける。アップルパイ用のコンポートだ。
ミスティとラナ二人分とは思えない量だが、これはお見舞いに来るであろうミスティの友人達を想定した量だ。
当然、見舞いに来る予定など聞いているわけがないが朝にベネッタが来ていた事を考慮すれば学院後に数人の友人が寄るであろうことは容易に想像できる。
ラナはカエシウス家の使用人の中から選ばれたミスティ付きの使用人。であれば、ミスティ周りの人間関係を考慮して備えておくのは必然である。
「ルクス様とエルミラ様のデザートは適量、ベネッタ様のは他より少しサイズを大きくして……」
パイ生地を作りながら、来るであろう友人達に合わせてアップルパイのサイズを想定する。
この二年でアルム達四人の食事の傾向、味の好みをラナはすでに把握している。
ルクスとエルミラが多過ぎない量がよく、甘いものが大好きなベネッタには他よりサイズを大きく切ったほうが喜び、そして味の好みはミスティに合わせて。
全員に満足してもらうべく、それらを考慮した上での調理だ。
「アルム様は何でもおいしいと食べるので気にしなくていいのが楽ですね……」
アルムはいつでもラナの料理を残した事はなく、おいしいとお礼を言うので正直細かい好みはわからない。
少量でも多量でも、とりあえず自分の分は残さないという事くらいしかわからないが作る側のラナにとっては楽だった。
なお、今日は周りに止められてアルムが家に来ない事をラナは知らない。余ったのならそれはそのままラナの夜食へと変わる。
「っと……そろそろミスティお嬢様にお茶をご用意しなくては……」
ラナは忙しなく動いているものの、余裕のある振る舞いがそう感じさせない。
見たものに気を遣わせないのも優秀な使用人の秘訣だ。
パイ生地を冷やしている間、小鍋に水を入れて火にかける。
熱湯を入れて温めておいたティーポットとカップから熱湯を捨てて余計な水気を拭きとる。
ラナは戸棚から茶葉を取り出すと、温めていたティーポットに茶葉を入れた。
ミスティが落ち込んでいる時にはミスティの好きなミルクティーと決まっているため、ミルクも忘れてはいけない。
「……?」
後はお湯を沸くのを待つだけといった所で微かに扉が開くような音がした。
鍵をかけていたはずだが、もう夕方だ。学院のほうは終わっている。
もうお見舞いに来てくれたのかと、ラナは警戒半分出迎え半分でキッチンからリビングのほうへと向かった。
「どなたですか? 鍵が――」
「いい匂いね。お腹が空くね」
「!!」
普段アルム達も集まるリビングに立つのはラナの見覚えの無い顔。
いや、正確には出会った事のない顔か。似たような顔立ちをラナは紙の上で見たことがある。
(この顔……確か侵入者のチヅルとかいう魔法使い……)
今ベラルタは注意喚起として住民に侵入者であるチヅルの人相書きを見せて回っている。
侵入者のチヅルは真っ白な髪と濁ったような橙色の瞳で、幼い印象の声色と顔立ちをしている。
当然ラナもそれを知らされており、リビングに立っているのが件のチヅルという魔法使いというのはすぐにわかった。
「現在ベラルタに侵入者という形で手配されているチヅル様ですね。この家にはカエシウス家の次期当主ミスティ・トランス・カエシウス様がいらっしゃいます……どのようなご用件でしょうか?」
「冷静だね。いい使用人だ」
自分に対する敵意すら感じさせないラナに感心するチヅル。
情報の無い相手に目的を話させるべく礼を忘れない態度。警戒心を持っているはずだが、それすら気取らせない自然な佇まい。
かといって、侵入者を完全に受け入れているわけではないとアピールするような壁のような存在感。
魔法使いを前にしてここまで自然体を貫ける使用人は珍しい。バックに四大貴族がいるという威を借りた振る舞いではなく、たとえ殺されてもこうするべきだと自分で決めた姿だった。
「単刀直入に言うね。二年ほど前にミスティ・トランス・カエシウスが関わったミレルの事件についてを詳しく……それとアルムという人物についてを聞きたいの。事を荒立てる気はないから安心してね」
「……それはミスティ様をお呼びしろという事でしょうか」
「その様子だとあなたも知っているね? それならあなたから話してほしいね」
「私の口から、ですか」
「知っている事だけでもいいよ。たとえば、アルムという人物についてでもね」
「ご用件は承りました」
喋らない場合は、という脅迫は言う必要も無かった。
チヅルが短刀を抜くと、ラナはその短刀に目を向けてから一礼する。
チヅルはそんなラナの様子に懐疑的な目を向けた。
いくらなんでも武器を取り出した自分に対してまだ変わらないままなどという事があるのか。
「……私が仕えるミスティお嬢様は紅茶に目がありません。なのでいつどんな時に帰っていらっしゃっても迅速に紅茶を淹れられるようにと。私が外出している時間と夜以外は常に紅茶の湯を沸かすための火を起こしているのです」
「……?」
ラナは突然、この家の事情についてを話し始めた。
唐突なラナの言葉の意図が読めず、チヅルはそのまま次の言葉を待つ。
ラナはにこやかな笑顔を浮かべた。
「その火の使い方は水を湯にするのも家を燃やすのも変わらないということです」
「!!」
きい、とラナの背後にあるキッチンとリビングを繋ぐ扉が開く。
警戒していたのか元々完全に閉じていなかったのだろう。
唐突な言葉と笑顔に注意を誘導させ、長いスカートで隠れた足で扉を開いたようだった。
「……それで? それが何の意味があるっていうの? この家が燃えるだけだね」
「そうでしょうか? ベラルタで情報を集める怪しい密偵とカエシウスを攻撃した敵魔法使い……少なくともチヅル様の立場は変わるのではないでしょうか?」
「……」
ラナに言われて、チヅルは一瞬言葉に詰まる。
それはまるで自分の立場を見透かしたかのように的確で、自分の正体がばれているのかと錯覚するほどだった。
そこらの下級、上級貴族ならばともかく……チヅルはカエシウスの敵になるわけにはいかなかった。
チヅルは魔法使い。ラナはただの使用人。
どう見ても命を握っているのはチヅルのはずだというのにまるで立場が逆転している。
「どこの手の者かは存じ上げませんが……御引取下さい。ミスティ様は現在お休み中です。そして私がミスティ様やそのアルムという人物についての情報を話すこともありません」
「無理にでも話してもらうと言ったら? 家に火を付けるなんて悠長な事させるわけないよね」
「ならば、仕方ありませんね」
「っ!!」
ラナはどこに持っていたのか、先程まで林檎を切っていた包丁を取り出してちらつかせる。
チヅルはそれでこちらの短刀に対抗する気なのかと一瞬思ったが……そんな考えがどれだけ甘いのかを目の前の光景で思い知る。
ラナは取り出した包丁を迷わず笑顔のまま、自分の首に突き付けていた。
「今ここで私が死ぬ事に致しましょう。いくらあなたが強化をかけていると言っても……この状態になってしまえば私の自決を止めることは難しいでしょう。私が死ねば私が何の情報を持っていようと関係ありませんから」
「……下手な脅しだね」
「そうでしょうか? ベラルタに侵入した敵魔法使いがいる中でのカエシウス家の使用人の死……。たとえ無関係でもあなたの仕業だと思われる事でしょう」
チヅルはラナの言葉につい歯噛みする。
ラナの言う通り。すでに侵入者がいると知れ渡っている状況でそんな事件が起きれば関連性があると思われて当然。
何らかの目的がある侵入者からカエシウス家の敵という最悪の状況へと変わる。
チヅルは今、マナリルがラーニャ来訪前という慌ただしい状況ゆえに潜伏が許されているようなものだ。カエシウス家の使用人を殺したとあらば流石に状況は変わってしまう。
チヅルからすればそれだけは避けたい。なにより……チヅルの目的のためにも完全に敵対するわけにはいかなかった。
「ミスティ様に仕えて十三年……不敬ながら本当の妹のように思い、そして仕えるべき主人として心より尊敬するミスティ様を裏切るような真似を、私がすると?」
ラナの声色が怒気に染まる。
包丁を握る力は強くなり、刃は首にくっついていて少しでも動かせばそのまま首を切り裂いてしまうだろう。
そうたとえば……その手を止めるために飛び込もうものならラナの命は無い。
しかし、ラナの目を見たチヅルは確信する。
この女は自分が行動を起こせばその瞬間、躊躇いなく自分の首を本気で裂くと。
「平民の身からミスティ様付き使用人までに上り詰めたこのラナを甘く見るな魔法使い……! 苛立つようであればあなたに嘗めた口を利くこの首をとっとと掻き切るといい。ミスティ様の情報を私の命一つで守れるのなら安いもの。
さあ、あなたがやらないのなら……私自らこの首を掻き切ってやるぞッ!!」
それは脅しではない本気の殺意。
紛れもない一対一。魔法使いと平民という力の差。圧倒的に不利な状況であり、命を失うのはラナのほうのはずなのに……まるで脅迫されているのはチヅルのほう。
(忠誠心が高すぎるね……これは無理だ)
魔法使いと対峙しても味あわないであろう剣幕にチヅルは折れるしかなかった。
こちらを見る据わった目は今にも握った包丁で首を切り裂きそうで、最悪の事態を避けるためにも退くしかない。
「邪魔したね。探る相手を間違えたみたいだね」
「お帰り下さい。ミスティ様の髪の毛一本、爪の垢すら渡す気はありません」
「仕方ないね。ならこれだけは伝えてほしいね。私は敵になりにきたわけじゃないって」
チヅルはそのままミスティの家から出て行く。
ラナはチヅルの姿が見えなくなるまで自分の首に包丁を突き付けたままだった。
チヅルの姿が窓からも見えなくなって安心したのか、ラナは突き付けていた包丁を離してその場に崩れ落ちる。
「はぁー……恐かったですね……」
他に誰かがいれば、お前のほうが恐い、とツッコまれそうな呟きを口にして……すぐにラナは立ち上がる。
そして何事も無かったかのようにキッチンに戻って、今のやり取りの間に沸いたお湯を茶葉を入れたティーポットに注ぎ始めた。
「ラナ……? 何か大きな声がした気がしたけど……誰か来たの?」
奥の私室で休んでいたミスティが眠たそうな目をしながらキッチンを覗き込んでくる。
部屋で眠っていたのだろう。寝起きのせいか少しふわふわしている。
「いいえ、何でもありませんよミスティ様。もうすぐミスティ様の好きなミルクティーをお持ちしますね?」
「うふふ。やったぁ……ラナ大好き……」
「はい、私もミスティ様が好きですよ」
ミルクティーに喜ぶミスティの笑顔に優しく微笑み返して、ラナはミスティに何の違和感も持たせる事なく紅茶を淹れる。
まるで招かれざる来訪者など最初からいなかったように。
これが元貴族の上級使用人達を差し置き、平民出身のラナがミスティ付き使用人として選ばれた所以。
カエシウス家にではなくミスティに仕えているとすら言われる。使用人ラナの生き方だった。
いつも読んでくださってありがとうございます。
甘いものが食べたかったので書きました。




