654.遅刻
「ミスティ。ボクいくねー!」
「はいベネッタ……わざわざ来ていただきありがとうございました」
朝早くミスティの様子を見に来たベネッタは一通り目の腫れに効くケア方法を教えたり、話を聞いたりし終わると……時間ギリギリで学院に向かおうとしていた。
玄関先まではミスティとラナが見送りに来てくれている。
昨日の一件で泣き腫らしたミスティの目はやはり一晩ではまだ赤く目立つ。
なにより、誤解とわかっても受けたショックは完全には拭えないようでいつもより元気も無かった。
この状態で学院に行けばアルムが気付き、どうしたのかと詰め寄ってくるに決まっている。ミスティとしてはそれだけは避けたかった。
「へへへ、いいよいいよー! ボクが心配だっただけだからさー! じゃあラナさん、時間をおいて優しくマッサージしてあげてくださいー!」
「はい、先程教わった通りでよろしいのですね?」
「はいー! やさしーくですからねー! 明日の朝も目立つようならあったかいタオルをあててあげたりしてあげるといいかもしれません!」
ラナはベネッタに教えてもらった事をメモすると深々と頭を下げる。
「承りました。このラナ……明日までにミスティ様の目の腫れを直すべくこの命を捧げます」
「いや、そこまではー……」
「ラナってば冗談が上手いんですよ? 私も何回も騙されているんです」
ミスティはくすくすと笑っているようだが、頭を上げたラナの目は完全に本気である。
冗談に見えないんだけど、という声をベネッタは心の中にしまうのだった。
「それにしても本当に昨日何があったんです? ミスティ様がここまで落ち込まれるのは記憶が正しければお母様が昏睡状態になった幼少の時くらいですが……」
「うーん……これ言っちゃうとラナさん刃物持って飛び出しそうだから内緒かなー……」
「ベネッタ様の私へのイメージは一体どうなってるんです?」
自分がそんな恐ろしいイメージになっているのが納得いかない様子のラナ。
しかし、昨日あった事を話せばたとえ誤解でも本当にやりかねないと思わせるのもラナである。
「じゃあミスティ今日はゆっくり休むんだよー。一日中だらけちゃえ。明日から頑張ればよし!」
「はい……他の皆さんにも謝っておいてください」
「謝る必要無い無い! でも伝えとくねー! いってきまーす!」
「いってらっしゃいベネッタ」
「いってらっしゃいませベネッタ様」
二人に元気よく手を振りながら、ベネッタは杖を突きながら小走りで学院へと向かう。
ミスティの家から学院までそこまで距離は無いが、距離が無いがゆえに長居してしまった。
かつかつ、と杖の音を立てながら走る目を閉じた少女は絵面だけ見ると危なっかしい。
「遅刻はいやだー。何かやだー。怒られないけど何かやだー」
周りに誰もいない事を確認し、即興の鼻歌を歌いながらベネッタは駆ける。
かつかつ、と杖を突く音も楽し気に聞こえてきた。
ミスティの家が建っている小さな丘を下り、大通りに出るための路地へと入る。
「……?」
路地に入って少し走ると、目の前に誰かが現れた事に気付いてベネッタは止まった。
「えっと、誰かな? 遅刻しちゃうよー?」
目の前に現れた誰かは魔力の大きさからして平民ではない。見覚えのある感じもない。
一年生か二年生かなと考えたベネッタは生徒を心配する声をかけた。
「なるほどね。盲目ってのは本当なんだね」
「……誰ー?」
感心するような声にますますわからなくなってベネッタは首を傾げる。
そして思い出す。この街に今潜伏している侵入者の話を。
「聖女ベネッタ・ニードロスだね」
「あなたが……アルムくんの言っていたチヅルさん?」
ベネッタの前に現れたのは平民のような地味な装束を着たチヅルだった。
二人が相対するのは狭い路地。ベラルタの街全体が仕事の準備にいそしみ、生徒達もほとんどが学院へと着いたであろう今……ここに訪れる者はほとんどいない。
アルムの名前を出すと、チヅルはぴくっと反応する。
(アルム……? 学院唯一の平民だとかいう……何故その男が私の話をするんだろうね……?)
そこまで考えて、チヅルは先日、一年生から情報を引き出そうとした際に消された二人の分身の事を思い出す。
まさか先日の分身二人が消えたのはそのアルムという平民の仕業だったのかと。
ベネッタもまたチヅルの空気が少し変わった事に肌で気付き、あえて質問を重ねた。
「まさか……」
「えっと……ボクに用ですかー?」
「あなたが関わったミレルの事件について知りたかったんだけどね。そのアルムって人も知りたくなったね」
「……? それって……どっちも同じ意味なんじゃー?」
「!!」
ベネッタが困惑気味に答えると、チヅルの目の色が変わる。
濁った橙色の瞳は光を見たように輝きを帯びていた。
「あれ……ミレルの事件は秘密なんだっけ……? 怒られるかなー……?」
ベネッタがそんなのんきな心配をしていると、チヅルはすらりと短刀を抜いた。
両の手に構える短刀は当然、アルムと戦った時と同じもの。
「じっくり話してもらいたいね。もし話さないなら手荒い手段をとるしかないね……そのアルムという男についてを話してくれれば何もしないよ」
「……」
ベネッタもチヅルが何かを構えた事には気付いたようで少し表情が強張る。
しかしすぐにため息をついて、チヅルに言い放った。
「そんな事言ったって……友達を売るわけないでしょー? アルムくんはねー、ボクの大事な友達なんだからー!」
「うん、そうだね……。本当に残念だね。目が見えない人を相手するのは気が引けるよ」
言いながら、チヅルは石畳の床を蹴ってベネッタへと刃を向けた。
すでに唱えていた強化による身体速度はベネッタに到達するまでに二秒もかかるまい。
魔法使いの戦いにおいて強化を含めた補助魔法を唱えているかどうかは勝敗を分ける。
背後から不意を打たずとも、強化による身体能力は発揮するだけでその差は不意打ちに等しい。
「……乱暴だなー」
しかし、そんな強化を唱えているかどうかの差は……今のベネッタの前では意味を為さない。
「――!?」
両手の短刀で足と杖を狙おうとチヅルが視線を落としたその時、不可視の鎖で縛られたようにチヅルは自分の動きが止まった事に気付く。
正確には止まったのではなく……ベネッタに向けて跳んだ体がそのまま固定されていた。
(な、なにが起きて……!? 魔法を唱えた様子は……!)
チヅルは動かせる眼球でベネッタを見た。
「そんな事したら危ないですよー、情報が欲しいならちゃーんと交渉しないとー」
変化は一つ……先程まで閉じていたベネッタの眼が開かれている。
銀色の魔力光で輝く瞳はチヅルの姿を映し出し、そしてベネッタの口から出たのはゆるい忠告だった。
(魔眼……!? いや、本物の目に付随してないね……ま、まさか魔法で目を作ってるの!?)
子供のようにあしらわれる自分と、ベネッタの目についての驚愕で心が揺れる。
強化された身体能力で先手をとったはずが、ただ閉じた目を開いただけで詰まされる現実に、チヅルは追撃の魔法を唱える事すら忘れていた。
いや、忘れていたのではない。ただ直感で無駄だとわかってしまった。
自分の魔法とベネッタの相性が悪すぎる事を悟って。
「えっと、ここにいるチヅルさんは多分分身……ですよねー? 本体はどこかに隠れたままかー、本当に便利だー……」
そんなのんきな感想を言いながら、ベネッタは杖を振り上げる。
チヅルは諦めたように抵抗しようとしていた体の力を抜いた。
「こ、これが聖女……! ベネッタ・ニードロスか……!」
「ごめんなさいー。ボク達演劇の練習で忙しいので……できれば終わるまで襲うのは勘弁してくださいー!」
ベネッタはそんなクラスメイトに言うような頼み方をしながら、チヅルの頭に杖を思いっきり振り下ろす。
するとチヅルの姿は溶けるように崩れていき、ベネッタによる拘束の影響も消える。
ベネッタの血統魔法は魔力のある生命に対してしか発揮されない。どうやら体が崩れた瞬間に分身は生命の判定から外れるらしい。
「うわー……本当に溶けてるやー……何か不思議ー……」
ベネッタはチヅルの姿がアルムとルクスから聞いた通りになった事に興味を持ったのか、少しの間消えていく様子を観察する。
チヅルの分身が何もなかったかのように消えていくのを見届けて……ベネッタは自分がさっきまで急いでいた事に気付いた。
「や、やばいー! こんな事してる場合じゃない! 遅刻しちゃうー! 急げ急げー!」
突然の襲撃者に心を乱される事も無く、ベネッタは危なっかしく走っていく。
普段がどれだけ緩く、無害な少女に見えようとも……ベネッタもまた死線を潜ったベラルタの三年生。
本体が出てくるならばともかく、分身だけでどうこうできるほどその実力は甘くない。
「なんか……思ったより恐くない人だったようなー……? 気のせいかなー……」
いつも読んでくださってありがとうございます。
セーフでした。




