649.拒絶の夢
「……またか」
最近何度も見る夢だった。
暗くて冷たい場所。何も見えない黒。
死後の世界があればこんな場所だろうか。
しかし、自分と目の前にいる何かは間違いなく生きている。
ずるずる。ずるずる。
何かを引きずる音がした。
目の前の何かは息づいている。
『――――!』
「わからない」
聞こえてくる声は相変わらず何を言っているのかがわからない。
目の前の何かの声ではない。必死な叫びだという事もわかる。
だが内容だけが届かない。
何度も繰り返して見る夢の中で……ずっとそれは変わらない。
まるで誰かに邪魔されているかのようだ。
「夢なのか、現実なのか」
繰り返し見せられた光景に疑問を抱く。
夢や幻としか思えない光景。しかし目の前にいる息づく何かが肌に寒気を与え、伝わらない声の必死さがあまりに生気を帯びている。
「何を恨んでいる?」
白は問う。
目の前で蠢く黒に。
伝わってくる寒気の正体が感情だと悟って。
「何を怒っている?」
もう一度問う。
隠そうともしない感情が肌を震わせる。
目の前にいるだけでわかる怒気。
その熱量は亡霊のような不確かな存在から伝わってくる曖昧なものではない。
「何を喜んでいる?」
暗闇の中で何かが笑った気がした。
怒りに満ちた怨悪の中にある一滴の喜び。
『――――!!』
聞き取れない必死な声が悲鳴に変わった。
暗闇に劈くような声が響いて、静まり返る。
何も見えなくてもわかる。
ここにいる生命は今二つだけ。そしてこの夢はもうすぐ終わる。
『がががが……! 耳元で五月蠅いものだ』
「……」
初めて、目の前にいた何かが声を上げた。
引きずるような音などよりもはっきり聞こえる。
アルムは初めて、ただの話し声を不快に感じた。
『急かさなくてもよいというのに。我等の敵はか弱き人間共その全て。耳元で飛ぶ者も果てで眠る者も等しく、我等の糧となるのだから』
聞こえて初めてこちらに話しかけているわけではないと気付く。
人間を個として判別しない存在。
こちらの声が届かぬほどの決定的な断絶。
暗闇に立つたった一人をわざわざ見る事の無い価値観。
伝わる怨悪を人の世そのものに向けられているのだと気付いて……目の前の光景は途絶えた。
『崩壊は静観を選び、邪龍は庇護を知り、悪鬼は無手に消え、毒虫は愛に堕ちた。
日食も途絶えたならば――今度こそこの星は我等の物。さあ、千五百年前の続きを始めよう』
勝利を謳う声だけを残して。
ベラルタ魔法学院本棟。
まだベラルタの街が起き始め、学院に生徒が来るには早い時間……三年生の教室は静かに開いた。
「む、今日も来たなアルム」
アルムが教室に入ると、中ではファニアが座って待っていた。
早朝とは思えないきっちりとした様子なのは流石と言った所か。
男装の麗人のような格好がさらにファニアの鋭い雰囲気を強く醸し出している。
だがふと見せる表情には色気があり……彼女の美貌が垣間見える。会っているのがアルムでなければ感情も揺れ動くであろう。
「おはようございますファニアさん」
「ああ、おはよう。実に熱心でいいな。ちゃんと今日も来たか」
「自分だけひどいのは困りますから……」
数日前からアルムは早朝を使ってファニアに演技の指導をしてもらっている。
それもこれもアルムの演技の問題であり……普段でさえ感情表現がわかりにくいというのに、台詞を読み上げている時はさらにわかりにくく、あまりに淡々としているのである。
南部のトヨヒメ事件の際、一緒にイプセ劇場に舞台を見に行ったファニアはそれが見過ごせず、このような時間を設けたというわけである。
しかし、今日のアルムは無表情なだけでは片付けられない異変が見て取れた。
「……どうした? 顔色が悪いぞ……? 体調が悪いのならやめておけ。お前が万全でなければ問題だ」
「いえ、なんでもありません……最近少し夢見が悪いもので……。すぐに治ります」
体が重いわけでも、痛いわけでもない。
しかしアルムはあの夢を見た日の朝はどうも気力が削がれているような気がしていた。
しばらくすれば普段と同じようになり、問題なくなるのが救いと言えよう。
ファニアが訝しむような目で教室に入ってくるアルムを見つめる。
「な、なにか?」
「夢か……お前は本を読んで夜更かしする事が多いと聞く。そのせいで健康にいらない影響があるんじゃなかろうな?」
「いや、最近は控えてます」
「それならいいが……では何か話したい事などはあるか? 私でよければ相談に乗るぞ。近しい者には相談しにくい話もあるだろう。誰かに話せば幾らか気も楽になる時がある」
今度は心配そうにこちらを見つめるファニア。
南部では一緒に任務にあたった間柄ではあるものの、アルムとファニアはそれ以上の関係にない。
それでもこうして本気で心配してくれるのはひとえにファニアの人柄だろう。
アルムを心配する姿にはアルムが魔法生命に関する重要人物である事も、ガザスとの関係維持のための人材であるという打算も無い。
大人として、強くともまだ少し子供である学院の生徒を想う心があるだけだった。
「ありがとうございます、ですが悩みとかは全くありませんので大丈夫です」
最近見る夢の内容は見ている時ですら意味も分からず起きると更に曖昧だ。そんなふわふわとした話をした所で何も変わる事はないだろう。
心配してくれるファニアのありがたさだけを受け取ってアルムはやんわりと断った。
しかしファニアが微妙な表情でアルムの肩に手を置く。
「いや、悩みが無いと言い切られるのもそれはそれで……自分の演技の事については少し悩んだほうがいいぞ……? 今のままではその……あれだ……うむ……」
「す、すいません……」
「よし、今日も短い間だが厳しく行くぞ。お前が大丈夫と言ったんだからな」
「はい……」
改めて人とのコミュニケーションの難しさを実感しながらアルムは頷いた。




