644.侵入者チヅル2
「っ……。まさかね。負けるとは思わなかったね」
研鑽街ベラルタ地下。
『シャーフの怪奇通路』が無くなり、ただの複雑なだけとなった地下通路でとある少女は怪訝な表情を浮かべた。
管理のための人間もいない夜の時間帯、照明用魔石に照らされるその顔はアルムと戦っていたチヅルだった。
「予定が狂ったね。仕方ないね」
その肩には小刻みに動く大きな袋を担いでいた。
入念に下調べした地下通路をチヅルは歩いていく。
しばらく歩き、地上に出る階段に到着するとチヅルは肩に担いでいた大きな袋をゆっくりと降ろして入り口を開ける。
「ひっ……!」
大きな袋の中に入っていたのは子供だった。
子供はチヅルの顔を見ると怯えたように眼差しを揺らす。
チヅルは子供と視線を合わせるようにしゃがみこんだ。
「ごめんね。恐い目に合わせて。もう大丈夫だから帰っていいよ」
「え……? か、帰れるの……?」
「うん、あそこの階段から街に行けるからね。街に出たら大人の人に助けてって言って助けてもらいなね」
チヅルがポケットに手を突っ込むと子供はびくっと肩を震わせるが、ポケットから取り出したのはマナリルの金貨だった。
チヅルはその金貨を子供の手に柔らかく握らせる。
「これはお詫びね。恐い思いさせちゃったからね。ごめんね」
「く、くれるの……?」
「うん、でも許さなくていいからね。これはただの自己満足だからね」
「じこ……?」
「まだ君には難しいね。乱暴な事してごめんなさいって意味だね」
チヅルは笑って子供の頭を撫でる。
いつの間にか子供から恐怖はなくなっており、震えは止まっていた。
「君が見たあの兵士さんも生きてるから安心してね」
「ほ、ほんとう!?」
「うん、本当。捕まっちゃうから気絶させただけだね。お姉さんは悪い人だからね」
「やっぱり……悪い人なんだ……」
「うん、だからお姉さんの事を聞かれたら全部話しちゃっていいよ」
チヅルがそう言うと、子供は意外そうな表情を浮かべた。
「え、い、いいの……? 秘密にしなくて……?」
「秘密にしたら君も悪い子になっちゃうでしょ? 君は悪い子になりたい?」
「う、ううん……お母さんに怒られる……」
「だから喋っていいよ。お姉さんがここにいたとかお姉さんがこんな事言ってたとか聞かれると思うから、全部喋っちゃっていいからね」
チヅルはそう言うと階段のほうを指差した。
「ほら、もう行っていいよ。協力してくれてありがとうね」
「ほ、本当にいいの……?」
「うん、ちょっと遅いかもだけど晩御飯食べてしっかり寝てね。恐くて眠れなかったお母さんと一緒に寝なね」
「こ、こわくなかったやい!」
「そっか。君は強いね。じゃあ、さようなら」
チヅルが手を振ると、子供は走って階段をかけていく。
一度止まってチヅルのほうを振り返ったが、チヅルが手を振ったままなのを確認すると子供はそのまま街のほうへと上がっていった。
「……誰が私を倒したんだろうね」
チヅルは子供を解放し終わると、踵を返して拠点を変えるべく走る。
地下通路を駆けながら、拭えぬ疑問が纏わりつく。
突如消えた二人の自分。
そして流れ込んできた二人の自分からの感情。
余裕。驚愕。感心。そして最後のほうに感じた恐怖。
先三つはわからなくもない。だが恐怖? 自分は何に恐怖を感じたのか?
チヅルにはそれがわからなかった。
間違いなく死ではない。分身に自分自身の自我はあるが、本体がここにいるのは分身もわかっていることだ。
「まさか記憶を持ち帰れないなんてね。困るね。本当に予定外だね」
チヅルの分身は万能に見えて決して万能ではない。
分身はチヅルと同じ自我と記憶を持ち、さらにはその時点での服装や武器までも分身として出現させる破格の"現実への影響力"を持つが……分身となった以降の記憶は自動で共有されない。
記憶の共有をするには本体に触れなければいけないという条件がある。
ファニアの感知魔法を掻い潜るのに人海戦術を選んだのはこの条件ゆえでもあった。
分身をひたすら街にばら撒いて、敵に見つかりそうな分身だけ消して他の情報を持ち帰る。
それを何度も繰り返し、時間をかけて情報を収集しにいく。
チヅルからすれば敵を警戒して時間をかける方法を選んだのだが、それが逆にファニアを混乱させる事に成功していた。
「街の構造を把握するために分身を使いすぎていたね。魔力が回復してからのほうがよかったね。……いや、それは結果論だね。一年生相手なら二人で十分だったはずだもんね」
使い手本体との接触が無ければ分身の得た記憶は共有されない。
つまり、アルムとルクスと戦った二人のチヅルが見た光景は本体のチヅルに情報として蓄積されていない。
共有できるのは感情と位置くらいなもので、本体のチヅルは何が起こって自分が二人やられたのかを把握できていないのである。
オウグスの感知魔法が届いていない学院近くギリギリに配置した二人の分身がやる事は一年生を誘導して情報を聞き出す事……驕るわけではないが、一年生相手なら二人いれば戦闘になっても問題なく対処できると踏んでいた。
「教師か四大貴族が駆け付けた……? いや、それなら二人目はすぐに撤退するはずだよね」
という事は無名の誰かに見つかったのか。
それなら押し切れると判断してもおかしくない。
一つ解せないのは――。
「……無名の使い手に私はやられないよね」
無名の使い手に自分二人が敗れたのであればベラルタ魔法学院の層は予想以上。
流石は魔法大国と言わざるを得ない。
とはいえ、流石に一年生にやられたとは考えにくい。であれば駆け付けたのは上級生か。
しかし、自分が恐怖を抱いた理由がわからない。
伝わってきた動揺にこちらまで背筋が凍った。それほどまでに強い相手だったのだろうか。
「失態だね。私の魔法はどこまでばれたかな」
せめて、勘のいい相手ではない事を祈る。
チヅルの目的はマナリルの転覆ではないし、生徒を殺す事でもない。
まだ潜伏を続ける必要がある中、血統魔法の情報がどこまでばれたかは今後に関わってしまう。
自身の理想が遠のく気がして、チヅルの顔に影が落ちる。
「ごめんなさい王様。もう少し時間がかかるかもね」
遠い地にいる仕える主人にチヅルは届かない謝罪をする。
こうなった以上、生徒との接触はもう警戒されているだろう。しばらくは大人しく潜伏し続けなければいけないが……そうもいかない。
チヅルは懐から新聞を取り出す。日付は一昨年の夏のこと。二年ほど前にトラペル領ミレルの町を救ったミスティ達の話が載る記事だった。
「どこにいるの……"神殺し"。あの百足を殺したのは一体……!」
わかっているのはあまりにも限られた情報。
新聞の一面に載る名前はヴァン、ミスティ、ルクス、エルミラ、ベネッタの五人。
ミレル湖の輝きを取り戻した未来の魔法使いを讃える記事。
「一番可能性が高いのはこのミスティ・トランス・カエシウスとベネッタ・ニードロス……カエシウスと聖女、だね」
……そこにはチヅルが求めているたった一人の名前が無い。
平民であるという理由で名前を隠された少年の名が。
「なるほど、使い手本体に記憶がいかない……それなら分身が逃げた理由も説明がつくねぇ」
「確証はありませんが……」
「いや、可能性は高い。自我を持つ分身という"現実への影響力"を考えればそれくらいのデメリットはあってもおかしくない。まぁ、メリットが強すぎるから厄介なのは変わりないんだけど……」
オウグスはアルムの推測に納得したように頷く。
戦うだけ消耗するのを危惧してたが、そう仮定すれば意味も生まれるというものだ。
厄介な事に変わりはないが、対策の傾向は見えてくる。
「今日はもう遅い。明日改めてそのチヅルという魔法使いの人相を描いて街中に注意喚起しよう。それだけでも動きにくくなるはずだからねぇ」
「敵の目的は後回しですね」
「現状はね。子供の捜索も兼ねて警備を増やす方向で行くよ。敵の目的が情報ならそれだけでも効果は高いはずさ」
「はい、治療は終わりましたよ。制服の予備はありますか?」
「ありがとうございます。はい、部屋にあるので大丈夫です」
話も一段落ついた所でアルムの治療も終わる。
着ていた制服はボロボロな上に血塗れで着れるような状態ではない。
ボロボロの制服は処分に回り、学院から支給された白いシャツをアルムは着た。
「二人共ご苦労だった。明日改めて話を聞くために呼び出すとは思うが……ゆっくり休んでくれたまえ」
「はい。そうさせてもらいます」
「失礼します。お二人共」
オウグスとログラに頭を下げ、アルムとルクスは医務室を後にした。
仕方ないとはいえ外はもうすっかり深夜だ。急いで寮に帰らなければいけないが、それでも疲労からか足取りはゆっくりだった。
「アルム、今日は流石に本読んで夜更かしはやめてくれよ?」
「いや、流石に疲れたからそんな事はしない……魔力は問題ないが気力がな」
「はは、君の事だから有り得ると思ってね」
「それは否定しないが……」
「そこはそんな事無いと否定しないと……ミスティ殿とかに怒られるよ?」
「む……確かにそれは気を付けよう」
アルムとルクスは学院の本棟を出て門へと。
あんな事があったというのに二人はいつも通りだ。
「ん?」
「あれ?」
「あ……」
そんな二人が学院の門まで歩いていくと、そこには二人を待っていたように一人の女子生徒が立っていた。
門の近くに立っていた女子生徒は先程チヅルに襲われたばかりのセムーラだった。
気まずそうに金の長髪を指でいじりながら、アルムのほうを見つめている。
「セムーラ? どうした?」
「じゃあアルム。また明日」
「あ、ああ……じゃあなルクス」
「あ……ルクス様、助けて頂きありがとうございました」
「それを言う相手は僕じゃないだろ?」
セムーラに何かを察したのかルクスは自分の寮の方向へと小走りで行ってしまう。
門に残されたのはアルムと気まずそうにしているセムーラだけとなった。
「どうした? 護衛を付けられて帰ったと聞いたが……」
「あ、えっと……その……」
セムーラからはっきりとした答えは返ってこない。
しかし、何かを言いたそうにしているようで口を開いたり閉じたりしている。
「……とりあえず帰ろう。寮は?」
「え、あ……第五寮……です……」
「夜も遅い。送ろう」
「あ、そ、そんなつもりでは……!」
「いいよ。行こう」
「は、はい……」
アルムのはっきりとした物言いに何かに迷うセムーラが逆らえるわけもなく。
アルムが歩き出すと、セムーラはアルムの一歩後ろについて歩き始めた。




