639.暗闇に降りる白
「こっちから聞こえるぞ……!」
カルロスは目を瞑り、耳を澄まして声が聞こえてくる方向を確認する。
路地裏の暗さに怯みもせずに立ち止まっては耳を澄まし、声が聞こえてきたほうに走っていく。
そんなカルロスを放っておけるわけもなく、セムーラとフィンも後を追った。
今やベラルタにはいくつかの路地裏に魔石の街灯が設置されているとはいえ、大通りに比べればまだ少ない。まだ設置されていない路地裏も当然ある。
建物の影が路地に落ち、別の街に足を踏み入れたかのよう。
大通りの横にぽっかりと空いた路地裏はさながら別世界への扉か。
朝になるまでの期間限定の別世界を三人は駆けて、子供の声を目指す。
「カルロス!」
「カルロスさん……! 落ち着いて……」
「ここら辺だ!」
そして三人は路地裏の奥に辿り着いた。
建物と建物が作った行き止まり。誰かの物置と化した木箱やガラクタの山。
なるほど、子供が遊び場にしてしまいそうな秘密基地と言えるだろう。
「だれかぁ……」
「やっぱりだ! おい! もう大丈夫だぞ!!」
木箱の陰から聞こえてくる声の主にカルロスは不安にさせないよう明るい声で近寄る。
自分達ですら若干不安になる暗い路地で迷子になっていた子供だ。不安を取り除いてあげねばという一心で笑顔を作る。
ガタイのいいカルロスの、もう大丈夫だぞ、という声はどこか説得力もある。
セムーラとフィンも何事も無く済んだことに安堵した。
「さあ、ご両親は――ん?」
しかし、木箱の陰を覗き込むカルロスの様子がおかしい。
きょろきょろと辺りを探して、しゃがみこんだかと思うと木箱の陰から一人だけで出てきた。
その指は何かをつまんでおり、困惑した様子でセムーラとフィンに歩いてくる。
「おい子供は?」
「探すのを手伝ったほうがいいですか?」
「いや、違くて……これ……」
カルロスは困惑したままセムーラとフィンに自分が見つけたものを見せる。
セムーラとフィンがカルロスの手元を覗き込むと、カルロスの手にあったのは淡く光る魔石だった。
『だれかぁ……来てよぅ……。恐いよ……!』
その魔石からは三人が聞いた子供の声が発せられており、声が出るたびに魔石は明滅している。
どうやら子供の声の出元はこの魔石のようで、三人共魔石には詳しくないが恐らく通信用魔石だという事はわかる。
「魔石から……子供の声……?」
「ああ……これ通信用魔石だよな?」
「というより、なんで――」
木箱の陰に置かれた通信用魔石。その異質さに疑問を感じてようやく気付く。
気付いてもすでに手遅れ。
――これは罠だ。
「三人も釣れた。いい子だね。子供を助けに来たんだね」
「!!」
「え……?」
「誰……!?」
三人の中の誰でもない声が耳に届く。
声がするほうに一斉に視線を向けると、魔石の街灯の下に一人の女が立っていた。
光の中に立っているのに光の無い濁った橙色の瞳、髪は真っ白にも関わらず何故か光よりも夜の闇と調和する。
幼い印象の声色と顔立ち、そして体格も普通。街で見かけても気に留めないであろう風貌だというのに……その佇まいは堂々としていて見かけ以上の存在感を感じさせた。
「魔法使いを目指してるんだもんね。助けたいよね。子供なら助けたいよね。やっぱりこの方法が最善だったね。衛兵だったら気絶させればいいもんね」
「や……べ……!」
「どうしたの? 顔色が悪いね?」
おかしそうに女は目を細めて、声を出したフィンに笑いかける。
フィンは気付いた。
女の立つ場所は自分達が来た道。後ろには建物が作った行き止まり……つまりは退路が塞がれているという事に。
「何か御用ですか? この魔石の持ち主でしょうか?」
「うん、偉いね。ちゃんと私から情報をとろうとしてるね。震えながら……可愛いね」
「っ――!」
女に言われて、セムーラはかたかたと震える自分の体に気付く。
震えを殺してようやく発した声が無意識の強がりだという事を突き付けられて、セムーラのプライドに傷がつく。
「あな――」
「でもちょっと、うるさいね」
静かに女が動く。冬の夜風よりも冷たい声と共に。
同時にセムーラの右耳に聞こえてくる風切り音。そして何かがセムーラの耳をかする。
顔の横でなにかを通ったようだがその正体はわからない。
後ろのほうから、がぎん、という金属音が路地に鳴り響いた。
「え……? え……?」
セムーラはわけもわからず耳に手を当てる。
すると、どろっとした何かが手に付着した。
その何かの正体を確かめるべく見てみると、手は真っ赤に染まっている。
痛みが走ったのはそれが血だと認識してからだった。
混乱が痛覚を麻痺させていたのか、恐怖で体が鈍くなっていたのか……今更、ナイフで斬られた耳に正しい激痛が走る。
顔の横を通った何かの正体は、凄まじい速度で投擲された短刀だった。
「っづ――!!」
「せ、セムーラ! しっかりしろ!」
痛みと恐怖でその場に座り込むセムーラにカルロスが駆け寄る。
気丈に振舞おうとしていたセムーラの目にはもう女に対する脅えしかない。
ただ耳に手を当てて、目を逸らさない事しかできない。
「ぉ……ぅっ……!」
そんなセムーラを見て、フィンは無意識に一歩下がってしまう。
(み、見えねえ……!)
一瞬でも、甘い考えを抱いた自分をフィンは恥じる。
自分達はこれから命を握られないために戦うのだと思っていた。
だが、それは大きな間違いだった。
自分達はすでに命を握られているのだ。
この路地に入って、罠にかかった時点で勝負は決していた。
もう敵の女は強化や補助魔法をかけ終わっており、万全の状態なのだろう。対して自分達は何も唱えられていない。自分達が何かを唱えようとしようものなら短刀が飛んできて命のほうが先に終わる。
相手は自分達のようにこれから魔法使いになるひよっ子ではなく、本物の魔法使い。
そんな相手の罠にかかった時点で自分達は先手を取られたどころではなく、詰んでいる。そして相手の要求をこれから無条件に飲まされる。その要求が命であっても自分達は拒めない。
「はっ……! はっ……! う、ぐ……!」
「耳の次はどこだと思う?」
怯えるセムーラに、女は答えを示すように自分の目を指差した。
セムーラの顔は青褪め、座り込みながらも逃げるように足が石畳を蹴ろうとする。
「ひっ……!」
「叫んだりしたらわかるよね。それとも目はいらない? 一個だけでいいのかな? 二個ともいらないかな?」
「……!」
淡々とした脅迫と耳を切り裂かれて溢れ出した恐怖がセムーラに自分の口を塞がせる。
目尻に涙を浮かばせて、縋るように女を見た。
「いい子だね。言う事聞けて偉いね」
女は満足そうにうんうんと頷いた。
セムーラはそこでようやく少しの安堵を得る。
だが……セムーラは気付いているだろうか。
魔法を使える貴族が自ら口を塞ぐという愚行を犯している事に。
いや、そんな事を考えている余裕は無いだろう。女はこの場を完全に支配している。
罠を仕掛けて誘き出し、かかった獲物である三人はその時点で精神的に不利。魔法使いの基本である強化や補助魔法を女はかけていて先手どころの話ではなく、そんな中追い討ちをかける魔法を唱えさせないであろう速度の短刀の投擲。
勝負は始まる前に決した。
罠にかかり、女が現れた事でぐらついた三人の精神は目の前の女が格上だと植え付けられていて、セムーラの切り裂かれた耳から出る血は死を連想させて恐怖を加速させる。
恐怖を植え付け、絶対に勝てないと思わせた時点でこの場はもう三対一の構図などではない。
殺す役の女と殺される役の三人という一方的な虐殺の構図。
あまりに無駄の無い支配への組み立て。瞬く間にこの場は女の手に堕ちた。
「せむ、せむー……ラ……!」
「ぅ……ぐ……!」
フィンもカルロスも女に気圧され、震えている。
フィンは後ずさり、カルロスは座り込んだセムーラを支えているようだが実は腰が抜けている。
今度は自分のどこかが切り裂かれてしまいそうでまともな言葉を発する事もできない。そのどこかが命ではないと誰が保証してくれよう。
「私はチヅル。質問に答えるなら命は奪わないからね。安心してね」
三人が声を発する余裕が無くなったのを見計らい、女は名乗る。チヅルという名前らしい。
安心してと言われても三人がそんな言葉で安心できるはずもない。セムーラに至ってはすでに耳を斬られているのだから。
女は三人に笑いかけるが。目が笑っていない。少しでもおかしな動きをしたらもう一本飛んできそうな刺すような雰囲気があった。
これが殺気というものなのだろうか。生唾を飲み込んで緊張を誤魔化す事しかできない。
『だれかぁ……だれかいないの……!?』
通信用魔石から聞こえてくる子供の声が恐怖はさらに煽る。
この通信用魔石の先で泣いている子供はどんな状態なのか。このチヅルという女は何をしたのか。よくない想像だけが頭を駆け巡った。
「私が答えていいって言った子だけが質問に答えてね。破ったら体のどこかがその女の子の耳みたいになるからね」
斬られたセムーラの耳は改めて見ると痛々しい。
真ん中で裂けるように切れていて、流れた血はセムーラの頬や首まで伝っている。
「なるからね?」
チヅルが言うと、フィンとカルロスは首だけで頷いた。
「うん、いい子だね。三人共生きたかったら約束を守ってね? 勿論、質問以外の事を答えたら君達の命は終わるからね。気を付けてね?」
物騒な確認に再びフィンとカルロス、そしてセムーラも頷く。
かろうじて立てているのはフィンだけで、セムーラもカルロスも腰を抜かしていて頷く事しかできなかった。
「……」
「ひっ……!」
チヅルは無言でどこからか短刀を抜いた。
セムーラの口から悲鳴が漏れる。しかし叫んだら自分がどうなるかわかっているからか、すぐに塞いだ手を強める。
「これが君の耳を斬った短刀だよ。小さいでしょ? 小さいけど首に刺したらしんじゃうからね。気を付けてね」
見せてきたのは手の平サイズの短刀。
軌道の消えない速度で投げたかと思えば、今度は見せる事で恐怖を煽る。
受けた傷と同じくらいのいつでも三人共殺せるという現実を改めて見せつけて、完全に抵抗の意思を削ぎ……チヅルの準備は終わった。
そして一歩、薄ら笑いを浮かべながら前へ出る。
セムーラ達三人の体がびくっと震える。最初であればこの一歩も大した圧は無かっただろうが、今チヅルが近寄ってくる恐怖は並ではない。
かちかちかち、と震えで歯が鳴る音がした。
「震えていて可哀想だね。でも大丈夫だよ。少し聞こ……。……?」
女の声と足がぴたっと止まる。
三人に向けた薄ら笑いは消えて無表情になり、女は突如……路地裏から見える狭い夜空を見上げた。
何らかの異変に気付いた女はすさまじい勢いで後ろに飛び退く。
セムーラ達三人もまた女の行動に釣られて視線をゆっくり上に。
「あ……! ああ……!」
恐怖に染まった三人の瞳に、恐怖を塗り潰す白が舞い降りる。
「気付かれたか」
「せ、せ……せんぱあああい!!」
たまらず出たカルロスの叫びが路地に響き渡る。
チヅルと三人の間に割り込むように降ってきたのはアルム。
何故上から? 何でここに?
普通なら湧いてくるであろう疑問よりも先に、恐怖を振り払ってくれる助けが来た喜びが三人の中に溢れ出した。
「刃物を持って夜の散歩か? あまり褒められた趣味じゃないな」
「かっこいいね。凄いね。ヒーローみたいだねぇ……!」
現れた乱入者をチヅルは忌々しそうに睨みつけ、即座に短刀を構えた。
平和なベラルタの街の一角で、静かな声色と猛る殺気が鋭く迸る。




