634.私得最前線
『この地に戻るのは辛かった。枷を嵌められた囚人のように足が止まりそうになった時もありました。故郷の景色を見るのすら、それこそ目を背けたくなるほどに』
ベラルタ魔法学院の本棟。
三年生の教室では大袈裟なほど張り上げた声が響いている。
もっとも、声量はあってもその声は何処かぎこちない。並べられた音を一つ一つ慎重に辿っているようだった。
三年生の教室では今グレースの書き上げた台本を全員がチェックしているかどうかのチェックも兼ねて、全体を通しでやっている。
前に出ているのはアルムとミスティ。
クライマックスに向けて、アルムの役である主人公リベルタが長い台詞を喋るシーンだ。
アルムは立って、ミスティは座り込んでいる。
アルムは台本を片手に、なるべく台本を見ないようにと主人公リベルタの台詞を喋り続けていた。
『何故自分が行かねばならぬのかと諭す声もあった。呪いの中に飛び込む必要の無い人生を送れたのにと……』
台詞に抑揚も無く、表情を作ってもいないし、体はただ立ったまま。
本当に台本に書かれている事を覚えているだけといった印象を抱く。
だが、一先ずはこれでいいという事で一番前でアルムを見ているグレースも止める事をしない。
他の三年生も思う所はあるにせよ、口出しする事は無かった。
アルムの台詞が一度途切れると、座り込んでいるミスティの前で膝をつく。
これもまた台本に書かれている指示通りだ。
しかし、指示通りとはいえ……アルムに急に近付かれてはミスティが何の反応を示さないといえばそうではない。
隣り合う事こそ多くとも、正面からという状況は多くない。
真剣な瞳で見つめてくるアルムにミスティの頬はほんのりと染まり始めた。
『姫、どうか手を。かつて呪われたと言われた自分の手にどうか』
「ぁ……ぇ……」
これもまた台本の台詞通り、そして書かれている指示通り。
呪いの元凶として追放された放浪の魔法使いリベルタが囚われていた姫を救い出し、その手を重ねる事を求めるシーン。
……なのだが。
微笑んで手を差し伸べてくるアルムがお芝居の姿とわかっていても脳内に多幸感が押し寄せてしまう。
自分の想い人が自分の手を求めてくれている。
少し震わせながら、ミスティは台本の指示通りアルムの手に自分の手を乗せた。
『ようやく、触れる事が出来た』
「はひ……!」
ミスティの手が優しく、包むようにアルムに握られる。
触れた部分から伝わってくる体温が染まる頬を加速させていく。
手汗を心配する余裕すらミスティには無くなっていた。
『自分がここに来れたのは故郷の為なんかじゃない。俺は立派な人間なんかじゃないのです』
「はぁ……! はぁ……!」
『俺の足が前を進んだのも、故郷から目を背けずもう一度向き合えたのも』
ミスティの目はかつてないほどに忙しく動き、視線はあちこちに散って定まらない。
直視するにはあまりに刺激が強い想い人の微笑みを目の前にした自己防衛か。
『全ては貴方の為。あの日俺を庇ってくれた貴方の為に』
「~~~~~~~~~~~~~!!!!!」
台本に書かれた指示通り、アルムはミスティの手の甲にそっと口づけた。
そこが囚われたお姫様役ことミスティの限界だった。
ミスティの顔は湯気が出るのではと思うほど耳まで真っ赤に染まり、口はあわわわわ、と言うばかりでまともな言葉が出てこない。
そこには四大貴族カエシウス家当主の姿はなく、あまりに自分に都合のいい出来事と多幸感でパニック寸前になっているただの少女がいた。
「ストップ! ストップ! 休憩! 休憩させて!」
そんなミスティの様子を見たエルミラが進行を遮る。
実際ミスティはくらくらしているようで、焦点が定まっていない。
「まだこの子には刺激が強すぎるわ!! ルクス! アルムと一緒にどっか散歩してきて!!」
「了解! アルム! さあ! 中庭にでも行こう!!」
「え? あ、ああ……いいのか? まだ最後までいってないが……」
「いいんだ! ずっと頑張ったから休憩の時間さ! あははは!!」
ルクスはあらかじめ想定していたのか凄まじい手際でアルムとミスティの手を引きはがし、アルムを必死に引っ張って教室の外へと出て行く。
廊下のほうから、ミスティはどうしたんだ、などとアルムの他人事のような疑問が聞こえてきた。
君のせいだよ、というツッコミは入れられまい。
突然中断させたエルミラとルクスの勢いに、グレースはぽかんと一連の流れを見届けるしかなかった。
ルクスがアルムを連れて出ていった所で我に返ったのか眼鏡の位置をくいっと直す。
「ちょ、ちょっと……あなた達一体何を……」
「ミスティ! 大丈夫!? しっかりしなさい!!」
「ミスティー! しっかりー!」
通しを中断させたとは思えないほど真剣な表情でエルミラとベネッタはミスティに呼び掛ける。
体を支えるエルミラは少し揺すってミスティの意識を元に戻そうとしているようだった。
少しして、ミスティの目の焦点がようやく合った。
そして口を震わすと、ようやくまともな声が出てくる。
「し……」
「な、なに!? し!?」
ミスティは顔を真っ赤なままにしながら震えて、つう、と頬を伝う一筋の涙を流した。
「し……幸せ過ぎて死んでしまいそうです……!」
「泣いたぁ!? どんだけ嬉しかったのあんた!?」
「手の甲にキスなんて挨拶の範疇でしてよ!? どれだけ初心なんですの!?」
幸せなシチュエーションに涙するミスティに、体を支えるエルミラと席について見ていたサンベリーナのツッコミが思わず炸裂する。
しかしそんなツッコミも気にならないほど当の本人は幸せそうにしており……アルムに口づけされた手を大切なもののようにぎゅっと胸に抱いていた。
あまりの幸せに胸いっぱいという感じで口元のほうは緩んでにやけている。
「すんごいレアな姿を見た気がするし……」
「ぶははははは!! ひぃ……! ひぃ……! 腹いてえ!」
「うるさいヴァルフト! こっちはねぇ……いつミスティが爆発するか本気で身構えてたんだから!!」
「そうだそうだー!」
呆れるフラフィネに腹を抱えて笑うヴァルフト。
ただの通しのはずが目の前でミスティの醜態を見れたのだからそれは面白いだろう。
四大貴族カエシウス家の次期当主が手の甲に口づけされたくらいでこの有り様なのだから。
「ミスティ様かんわいい……!」
《フロリア……》
若干一名、ミスティの様子に悶えている者もいるようだが。
「ちょ、ちょっと待って……? アルムとミスティ様は恋人ではないの?」
事態を飲み込むことの出来ないグレースが戸惑いながらも問う。
グレースは二人の関係をすでに友人とは違う関係になっていたのだと思っていたらしい。
エルミラはそんなグレースの問いに呆れたようにため息をつく。
「あのね……馬鹿言わないの! この子はね……そっち方面は奥手も奥手だし、あの男はあの男で恋愛感情が本当にあるかさえ怪しい鈍感男よ! そんな当たり前みたいな進展するわけないでしょうが!」
「何故私が怒られているのかしら……? なんかごめんなさい……」
エルミラの剣幕につい謝罪するグレース。
支えられているミスティはそんな会話は耳に入ってきていないのか、うふふ、とだらしない笑顔を浮かべている。
「しまった……そこら辺もしっかり聞いておくべきだった……。私はてっきりもうそういう関係なのかと……」
グレースは情報不足を反省する。
台本を仕上げた期間を考えれば仕方ないといえば仕方ないのだが、どちらかといえば二人の関係を勝手に思い込んでいた事に関する反省のようだった。
しかし誰がグレースを責められよう。
毎日朝校門で待つミスティの姿、帰りに寄り添う仲睦まじい二人の光景。
そんなものを度々見かければそう思ってしまうのも無理はない。
「グレースちゃんも詰めがあめえなあ」
「黙りなさいヴァルフト・ランドレイト。口を縫い上げるわよ」
「おー、こわ」
「……今更修正するには時間が無いけれど、ミスティ様に負担があるのなら少しシーンを削るべきかしら」
グレースがそう呟くと、だらしない笑顔を浮かべていたミスティが正気を取り戻す。
そしてエルミラの支えを離れて立ち上がる。
「問題ありませんグレースさん。私が慣れればいいだけの事です……本番までにはしっかり演じて見せますのでご心配なく」
「ですが……」
「問題ありません。シーンはこのままでいきましょう。せっかくの素敵な演出を削るだなんて勿体ありませんわ」
「は、はい……ですがその……」
「どうかされました?」
どこか圧のあるミスティにたじたじになるグレース。
だが明らかに問題のある部分をグレースは指差した。
「鼻血が……出ているのですが……」
「え……?」
「わー! わー! ミスティ!!」
「あ、ありがとうございますベネッタ……」
そんなミスティにベネッタがすかさずハンカチを鼻にあてる。
改めて、グレースが躊躇いがちにミスティに問う。
「本当に問題……ないんでしょうか……?」
「も、問題ありませんとも!」
「幸先不安ですわね……」
「ほんとだし……」
先程よりも自信無さげにそう言い張るミスティに、サンベリーナとフラフィネは前途多難な予感を感じざるを得なかった。
いつも読んでくださってありがとうございます。
幸せそうでなによりです。




