630.紛れている
何を見させられているのかわからなかった。
目の前で何かが眠っている。
鮮明に映し出されるそれが何なのかわからなかった。
黒いものがずっと止まったまま。
それが生命である事だけがわかっていた。
ずるずる。
動いた。
地を這って巨大な体を引きずる音が聞こえてくる。
生々しく、ここが現実であるかのよう。
「夢だ」
アルムは呟く。
どこかもわからない場所に座らされていた。
確信をもって現実ではないという事がわかるのに、目の前の何かが現実だという事が何故かわかってしまう。
ずるずる。ずるずるずる。
また動いた。
動くたびに、悲鳴が聞こえてくるようだった。
何かを喰らっているわけでもないのに。
目の前のこれは、動いてはいけないものだと思った。
『――――――!!!』
どこからか声が聞こえる。
しかし何を言っているのかがわからない。
「誰だ」
『――――!!』
こちらの声が聞こえているのか声は返ってくる。
だが肝心の内容が聞き取れない。
諦めて辺りを見渡す。
暗くて冷たくて、辺りの景色を見通す事はできない。
だが不思議と自分の周りにあるものだけははっきりと見えていた。
座る椅子の隣には白い刀が刺さっている。
手には本を握りしめていた。
ひらひらと真っ赤に染まった葉が落ちてきていて。
足の多い虫が顎を鳴らしながら首を這っている。
『――――!!』
「何を伝えようとしてる?」
闇の中で誰かが笑った。
響く叫び声は蝋燭の火のようにかき消された。
その真意を何一つ伝えぬまま。
「………」
目を開けるといつもの天井。
窓の外は暗闇からは程遠い青天の朝。
学院祭開催の発表から数日経った朝の事だった。
「……今日はグレースが台本を持ってくる日だったな」
アルムは呟いて起き上がった。
何事も無かったかのように学院に行く準備をする。
夢は夢。現実は現実。
果たして見ていた光景はどちらだったのだろうか。
馬鹿げているなと自嘲する。
そんな事を考えなくとも……眠る間に見た光景ならそれは、泡沫の夢に決まっているのに。
「おはようございますアルム」
いつも通り登校すると、学院の門の前にはミスティが立っていた。
アルムを見かけると花が咲くような笑顔でこちらに小さく手を振ってくれている。
いつからだったか、こうして待ち合わせするのが当たり前になっていた。
当たり前になっているというのに今日は特にありがたく感じた。
あの妙な夢のせいだろうか。晴れているはずが妙な肌寒さをアルムは感じていた。
「おはようミスティ」
「今日は少し肌寒いですね」
考えていた事を見抜かれたようでアルムはぴくっと体を震わす。
ミスティからすれば定番の雑談のつもりだったのだが、思ったよりも過剰に反応されて逆に驚いてしまった。
「どうされました……?」
「いや……そうか、今日は普通に肌寒いのか」
「え、ええ……風が冷たいと思ったのですが……そ、そんなに驚く事でしたでしょうか?」
「いや……何でもない。行こうミスティ」
夢のせいなわけないか、とアルムは内心安堵すると、安心させるようにミスティに微笑んで歩き出す。
ミスティは少し不思議に思いつつもアルムの隣に並んだ。
「今日はグレースさんの台本完成予定日ですね」
「ああ、グレースのやつ結構きつそうだったけど大丈夫かな……」
「日に日に辛そうにしてましたから少し心配です」
「面倒くさがっていた割に真剣だったからな……少しくらい休めばいいのに」
「グレースさんは根が真面目なんですよ。アルムと似ていますわ」
「俺と?」
アルムが自分を指差すと、ええ、とミスティは頷く。
「いや、流石にそれは無いんじゃないか……?」
「アルムだって私達と一緒でないと休まないですもの」
「そうかな?」
「そうですよ。私達とお茶をしないと一人でどこかに籠りそうではありませんか」
「そうかなぁ……?」
納得いっていなさそうなアルム。
そんなわかりやすいアルムの表情にミスティはくすくすと笑った。
普段無表情なのもあってアルムは特に変化がわかりやすいのだ。
「どんな劇になるのでしょう? こういうのは新鮮なのでドキドキしているんです」
「何か北部の伝承をベースにするとか言ってたけど」
「え? アルムはご存じなんですか?」
「いや、少しグレースに聞いただけでどんな話かは知らない。最低八人に配役があるって言ってたけど、どうなってるかわからないな。話しかけられる雰囲気でもないしな」
「北部の伝承……。どれでしょう……? "カレンデュラの剣"? "氷姫の戴冠"? "雪華の魔法使い"? いえ、歴史からというのも考えられますわよね……それでしたら"ラフマーヌと放浪の英雄"や"幽霊とクロルタ王の涙"という可能性も……!」
唇に指をあてて北部に伝わる伝承を次々に挙げていくミスティ。
いかにミスティといえど劇を自分でやるというのは初めてだからだろう。
その声は弾んでいて三年生でやる劇が本当に楽しみにしているのが伝わってくる。
普段大人びているからか歳相応のはしゃぎ方は新鮮で、気付けばアルムはその横顔を見つめていた。
「そういえばアルムはどんなお話が好きなのですか? 幼少の頃から魔法使いの物語を読んでいたのでしょう?」
「俺? 俺は……」
記憶と一緒に空を見上げて思い出す。
思い出せる記憶をかき集めてみると、どの本も目を輝かせて読む自分がいた。
「何でも好きだったんだよな……魔法使いが誰かを助けるお話なら本当に……。それこそ泥にはまった牛を助けるお話も、凄い怪物と戦う話だって……どれもページをめくる瞬間が楽しみで仕方なかった」
「うふふ、目に浮かびます」
「助けを求める誰かに駆け付けてくれる魔法使いに憧れたんだ。助けを求める誰かの下に駆け付けてかけがえのない存在になってくれる、そんな凄い魔法使いになりたいって」
目を輝かせてページをめくる子供の頃の自分。
自分もいつかこんな風に。
そんな夢をずっとずっと抱いていた。
たとえそれが自分にとって、叶うはずのない夢だったとしても。
「……もうアルムはなっていますよ」
ミスティは心の底から思いを込めてアルムにそう伝える。
自分にとってどれだけ大切か。
誰もが恐れる氷の世界に駆け付け、助けてくれたあなたはあの日から私にとって他の誰よりも魔法使いなのだと。
「ああ、ありがとうミスティ」
「……?」
そんな思いを込めた言葉に、アルムは笑いながら応えた。
しかし、何か妙だった。
返ってきた言葉はおかしくないはずなのに、どこか違和感が拭えない。
まるで何もない空中を押したかのような……手応えの無い感覚。
その違和感を拭えぬまま二人は学院の本棟に到着してしまった。
本棟の入り口には門のほうを見ながら立ち話をしているエルミラとベネッタがおり、歩いてくる二人に気付く。
「お、二人が先に来た」
「おはようー! 二人共ー!」
「おはようエルミラ、ベネッタ……ルクスはどうした?」
「それが聞いてよ。ルクスったら珍しく寝坊してんの」
エルミラは楽しそうにルクスの寝坊を二人に言いふらす。
エルミラとベネッタが一緒にいるという事はエルミラは今日も第一寮にルクスとベネッタを迎えに行ったのだろう。
そしてルクスがいつもの時間に来ない事を面白がっているというわけである。
「ルクスが? 珍しいな?」
「そうそう、来たらいじってやろうって思ってここで待ってるってわけ」
「体調悪いとかじゃなくてか?」
「ちゃんと寮長に確認済みよ。ま、寝坊って言っても普段が早いから普通に間に合うだろうけど、こんな機会中々無いじゃない?」
「それは確かに……絶好の機会ではあるな」
「でしょ?」
エルミラは笑いが止まらないと言わんばかりににやけながら門のほうに目をやる。
アルムも同じようにルクスが見えるのを待つ事にしたようでエルミラと並んで門のほうを見始めていた。
ミスティはそんなアルムをじっと見つめる。
ベネッタやエルミラになんだかんだのってしまうアルムはやはり普段と変わらない様子だった。
「おはようー! ミスティー!」
そんなミスティにベネッタが元気よく声をかける。
しかし、ミスティの様子が変な事に気付いたベネッタはすぐに心配そうな表情に変わった。
「……どうしたのー? 体調悪い?」
「あ……いえ、なんでもありませんよ。おはようございますベネッタ」
「そーう?」
「ええ、今日が少し肌寒いからかもしれません……それよりも台本の完成が楽しみですね」
「うん! ボクどんな役かなー! 逆に岩とかになったら目立ちそうじゃないー?」
「いえ、それはちょっと……」
エルミラとベネッタと話している内にすぐに普段通りの朝に変わる。
微かによぎった違和感は何だったのかがわかる前に、明るい雑談の中に消えていった。




