629.羞恥の来訪
「ふぅ……教えるのは魔力はともかく精神力使うな……」
ルクスと別れて帰宅したアルムは自分の部屋に着くと荷物を下ろして制服の上着を脱ぐ。
アルムの部屋は簡素だ。木製の机と椅子、そして白いベッド。クローゼットの中の服は制服を除けば数着しかない。
もっと言えば、入学時からほとんど何も変わっていない。
アルム本人にあまり物欲が無いのもあって部屋がアルム好みになるという事すら無い。
机の上に積まれた魔法関連の本だけがアルムの執着であり、アルムらしさを示す唯一のものかもしれない。
アルムは上着を脱ぐと、忘れないようにと机の引き出しを開けた。
厳かな装飾が施された手の平ほどの小さな箱が顔を見せる。
アルムの私物にしては豪華なこの箱にはガザスから贈られた勲章が入っていた。
"国境無き友"。
去年ガザスを救った時にラーニャから贈られた勲章だ。
国を救った感謝の形。ガザス王家の国賓の証。
ルクスに諭されて受け取った物で身につけた事は無かったが、ラーニャを出迎える際には流石にこれを付けておかなければいけない。
「……」
引き出しを開けて箱を確認したかと思うとアルムは少しの間箱を見つめ続けた。
箱を開けて、金と青い宝石が散りばめられた意匠の勲章を確認すると閉じる。
そして部屋をキョロキョロと見回し、天井を見上げた。
「……クエンティか」
アルムが名前を呼ぶと模様の無い天井がぐにゃりと歪んだかと思うと、壁から剥がれるポスターのように天井がひらひらと落ちてくる。
無論、本物の天井なわけではない。
恐らくは姿を変えるという点において最も高い"現実への影響力"を有する魔法使いの御業である。
「流石はアルム様」
紙のように落ちてきた天井の絵は瞬く間に人の姿となった。アッシュブラウンの髪を揺らして、流れるようにその人物はアルムに跪く。
さも簡単であるかのようにやってのける変身とその変化速度。
元カンパトーレの魔法使いであり、現在は寝返ってアルム専属の護衛となっている魔法使い……クエンティ・アコプリスは何故かアルムの部屋にいた。
「ただの消去法だ。俺以外の気配があったからな……とはいえ隠れられるような場所もないこの部屋にいれるのはクエンティくらいなもんだろう」
「逆にわかりやすくなっちゃったか……気を付けないといけませんね」
「それに、こんな魔法使い離れした変身が出来る奴はそう何人もいないだろ?」
「今褒めた? アルム様私の事褒めてくれました?」
クエンティは跪き続けながらぱあっと明るい表情でアルムを見上げる。
「褒めるも何も会った時から凄いと思ってる」
「ありがたきお言葉です」
「やめてくれ……というかそうして跪くのもやめてくれ」
「はぁい。アルム様の仰せのままに」
クエンティはアルムに言われてようやく立ち上がる。
様付けはちょっと、と言っているのにやめてくれないのはクエンティなりのこだわりなのだろうか。
久しぶりに呼ばれてアルムは妙にむず痒いのか複雑な表情を浮かべる。
「ファニアさんだけじゃなくてクエンティまで……戦力過多じゃないのか……? どこの魔法使い部隊が攻め込んできても面子を見ただけで撤退しそうだが……」
「それだけ今回の事態を重く見ているのよ」
「確かにラーニャ様が来るってのは非常事態だが……」
「そうじゃなくて……ふふ、アルム様らしいわ」
「なんだ?」
「鈍感ってこと」
クエンティに言わるとアルムは不服そうに言う。
「……クエンティには気付いたぞ?」
「確かに。じゃあアルム様は鋭い鈍感さんね」
「矛盾してないか?」
「ふふ」
ころころとクエンティが笑う理由がアルムには全くわからない。
アルムが困惑しているのをクエンティは楽しそうに見つめるばかりだ。
「後クエンティ……勝手に入るのはいいが、勲章には触らないでくれ」
「あら、気付かれちゃいました? ごめんなさい」
「というか……そうか、確認のために入ってきたのか」
そこまで言ってアルムは気付く。
クエンティほどの魔法使いが派遣されてきたのは警戒のためだけではないだろう。
「はい、アルム様って財産とか名誉とかに無頓着だからどこに置いたか忘れちゃいそうじゃない? 早めに勲章を失くしてないか確認してこいってカルセシス様とラモーナ様が」
「流石の俺もラーニャ様から頂いた物はちゃんと保管する」
「部屋に無いようだったら偽物作るから早く確認しとかないといけないんだって」
「思ったより信用無いな……」
「気を悪くしないでアルム様。ただの確認よ」
クエンティはアルムを慰めるように笑いかける。
落胆していると思われたのだろう。
「ラーニャから友人の証として貰った物だぞ。盗られる事こそあるかもしれないが失くすわけがない」
「ええ、代表して私が謝るわ。ごめんなさい」
「いや、クエンティを責めてるわけじゃない。大切にする物もちゃんとあるって事を言いたかったんだ」
アルムは机の引き出しを閉めてクエンティのほうに向きなおる。
「それで? 秘密にしておいたほうがいいのか?」
「今日からベラルタに潜伏してファニアと一緒に警戒に当たるの。表向きはファニアだけが事前に来たって見えるようにして、私は裏で自由に動くから秘密にしておいてくれると助かります。学院祭の当日はアルム様の付近にいるから用があったら呼びつけて貰ってもいいのよ?」
「わかった。何も起きないのが一番ではあるが……トラブルが起きた時は頼らせてもらう」
アルムが椅子に座るとクエンティはゆっくりと近付いて、アルムの頬に触れる。
撫でるように優しい触れ方をアルムは拒絶しない。その気になれば触れた手を刃に変えて顔を引き裂ける魔法使いだというのに。
クエンティは座るアルムの頬を撫で、もう片方の手で座るアルムの腿をなぞるように触れる。
「久しぶりにアルム様の近くにいれるんだもの。アルム様がその気なら夜のお相手も務めてあげてもいいのよ?」
細い指は扇情的にゆっくりと動き、甘い吐息は媚薬の香り。
かつて王都を震撼させ、『見知らぬ恋人』と称された女魔法使いの誘惑。
瞳を蕩けさせ、頬を染めるその姿にアルムはただ返す。
「いや、夜は寝るか本を読むかするから別にいい」
そこまでされても、黒い瞳が色付くことはない。
自身の魅力が突っぱねられたというよりも、意味を理解されなかった事にクエンティは目を丸くする。
「純朴すぎて通じない……アルム様って性欲無いんですか?」
「性欲……? あるに決まってるだろ?」
「あって私の誘惑をスルーするなんて……『見知らぬ恋人』の名が泣いちゃうわ」
「……? もしかして夜の相手ってのは交尾相手になるって事なのか?」
無表情でさらっと言うアルムに思わずクエンティも驚いてしまう。
そして意外でもあった。アルムの口からそんな言葉が出てくるとは。
「何で夜なんだ? 交尾するのに昼も夜もなくないか?」
「え!?」
さらに意外な言葉にクエンティは思わず声が大きくなる。
純朴そうな印象に反して大胆な考え方に驚嘆してしまった。
「あ、アルム様って意外と大胆……昼からなんて……」
「何でだ? 昼に交尾する生き物もいれば夜に交尾する生き物もいるだろう? それとも人間は夜にするものなのか? 昼夜で交尾のタイミングを分けなきゃいけないような習性は無いと思うんだが……」
「え……?」
「ん……?」
そこでようやくクエンティは気付く。
自分とアルムの意識の違い。アルムが育った環境が自分と比べて特殊であるか。
どこか噛み合っていないような気はしていた。
しかし想像することができなかったのだ。
まさかとは思ったが、アルムはこの会話に一切性的な気持ちを抱いていない。
あくまで生物の当然の行動として語っているのだ。山で育って見かけた野生動物や魔獣の交尾と同じように。
アルムにとって交尾とは子孫繁栄の行為であり、クエンティが言うような快楽を求めての娯楽の一つという認識が全くない。
だからいやらしく聞こえず、アルム自身が恥じらう必要もない。
知識はあっても価値観に大きな齟齬が生まれているのだった。
「う……あ……!」
クエンティはその事実に気付いて顔を真っ赤にした。
話が通じないのであればまだよかったが、通じた上で俗的な価値観でしか話せなかった自分が妙に恥ずかしくなって。
「どちらにせよ交尾の相手は求めてないからいい。クエンティをそういう目では見ていない」
「交尾交尾言うなぁ! そしてさらっと恥をかかせるなぁ! アルム様の変態! むっつり! ドエロ主人!」
「いや、お前が先に言ったんじゃ……」
「アルム様なんて知らない! でも助けがいる時は遠慮なく呼んでよね!」
「あ、おい……!」
クエンティはそう言うと液体に変身してアルムの部屋の窓からそそくさと出て行く。
アルムはクエンティが怒った理由もわからないまま見送るしかできなかった。
「んんんん! はっずかしい……!」
突然の誘惑はダブラマでの一件で力になれなかった事を気にするクエンティなりの贖罪。
アルムに仕えていながら、王城で魔法生命の魔力に脅えて何もできなかった無力な自分を恥じ、精一杯の誠意を示す行動だった。
それがまさかこんな形ですかされるとは思わず……液体となった体をよじって羞恥に悶える。
羞恥で真っ赤になった顔を見られることのない自分の魔法に感謝しながら、クエンティは自分の仕事を遂行すべくベラルタの街に繰り出した。
いつも読んでくださってありがとうございます。
ちゃんとあります。




