66.侵攻二日目15
「それがどうした」
そんな今までと違うエルミラの魔法にもリニスは怯まない。
何故ならばもう遅い。
リニスの血統魔法はすでにエルミラの影にいる。
エルミラが纏うそのドレスも血統魔法だという事はわかっているが、それでも人間を傷つける事においてこの魔法の右に出る者はいない。
影とは夜の別名だ。
影とは、自身の傍に夜という恐怖を置くのが恐かった人間の悪あがきに過ぎない。
そして、その恐怖から人間を狙う魔法から逃れられる者はいない。
光を阻み、相手を永久に狙い続けるこの獣はどれだけ華やかに着飾ろうとも恐怖を落とす為に襲い掛かる。
「食え」
それは使い手の命令で動いたのではない。
ただ魔法の在り方ゆえ、言葉と共に動いたように見えただけだった。
リニスの声がエルミラに届くよりも先。
黒い塊は血肉を貪る為に、その形を変えて灰のドレスを纏ったエルミラへと飛び掛かった。
「馬鹿な……!」
「ま、避けるなんてのは無理よ。そういう魔法じゃないし」
そう、エルミラは避けてなどいない。さっきのように黒い塊に吸い付かれている。
だからこそ、リニスの表情は一変した。
エルミラの太ももの辺りへと吸い付く黒い塊。
太ももに食いつかれながら、得意気にかわせないと断言するエルミラの姿は見ようによっては間抜けに見えた。
だが、エルミラは慌てる様子も無ければ痛がっている様子もない。
あれは間抜けでは無く、余裕を持っているだけだなのだとリニスは思い知らされる。
そして、消えない。
灰のドレスが。火属性魔法であるはずの魔法が。
夜属性の血統魔法である【小さな夜の恐慌】に触れてもその形を保っている。
あのドレスは光の特性を持たない火属性魔法だということか。
「おいしいかしら?」
エルミラは余裕の表情で太もも辺りに食いつく黒い塊を見下ろす。
黒い塊は灰のドレスごと太ももに食いついているようだが、その牙がエルミラの太ももには届いていない。
そして――
「でも気を付けなさいよ? このドレス、危ないから」
突如、ドオオン‼ と爆音が響く。
音の出どころは黒い塊。
エルミラのドレスからぽろっとボタンがとれるかのように離れ、口のような場所から煙を吐きながら影へと帰っていく。
「言ったじゃない。危ないって」
ベラルタに響く爆音。
この場にいない者にとっては再び【原初の巨神】の攻撃が来たかと思ったかもしれない。
それがベラルタを守ろうとしている魔法使いのもたらした音だという事に気付けるのは一人しかいなかった。
「なんだ……何だそれは……?」
リニスは言いながら気付く。
その灰色のドレスはただ灰色なのではない。
"灰"だ。
エルミラの周囲を灰が舞っている。
ドレスやヒール。手袋まで全てが灰で構成されている。
ドレスに施された装飾は風が一つ吹くと、その形を保つ為に元の場所に集まっていく。
まるで意思を持った灰がエルミラを着飾る為に奉仕しているようにも見えた。
「は? 血統魔法に決まってるじゃない」
「何故……何故消えない?」
「そりゃ、爆発してるだけだし、消えないでしょうよ」
至極当然のようにエルミラは答える。
それは必ずしも光を伴う現象ではないとエルミラは言っている。
「灰が爆発するだけっていう単純な魔法よ。そんな驚かなくてもいいでしょ?」
リニスが言いたいのはそういう事ではない。
エルミラはわざとリニスの意図を汲み取っていないように見えた。
「爆発すれば……光も……」
「これ見えない? それともまだわからない? これ灰よ。灰。もう燃え尽きてるのよこれ。
夜属性ってのは光の特性を消すんでしょう?」
その通りだ。
夜属性の強みとはそこに尽きる。
光の特性を消すという事は、変換によって構成したものを一つ消すことだ。
特性を消された魔法は魔法たりえない。
茶葉の無いただの湯を紅茶と呼ばないように、魔法を構成できなければそれはただの魔力。
魔法として存在できない以上、残りの魔法を構成している属性や性質、形もただの魔力へと戻るのだ。
それが夜属性が光の特性を持つ魔法を封殺できる理由である。
ゆえに――
「この魔法に光の特性なんて無いわ。光の特性が消せないのなら、魔法はそのまま、当たり前の形で機能する。当然の事でしょう?」
魔法そのものを消しているわけではない。
魔法が消えているのはあくまで魔法のルールによるもの。
使い手の変換によって作られた特性を消され、魔法としての形を保てなくなった魔法が魔力に戻っているだけに過ぎない。
ならば、例え引き起こした現象に光があっても、それは当然のようにそのまま効果を発揮する。
魔法としての形はそこに在り続けているのだから。
「どうやら、私の切り札はあなたの脅威であってくれたみたいね」
「あ……」
一歩、エルミラはリニスに近付く。
灰のドレスを揺らしながら、カツンカツンと足音をわざとらしく立てて。
バージンロードを歩くがごとく堂々と。
「く、来るな……」
「さっきから気になってたんだけどさ」
エルミラが向かう途中、【小さな夜の恐慌】はドレスを纏っていない顔に食いつこうとする。
だが、それも無意味。
リニスの位置からではわからなかったが、顔には薄い、ヴェールのように灰が覆っているらしく、飛び掛かった瞬間にまだ爆音で影の中へと退去した。
「ねぇ、あんた? 何でそこから一歩も動かないの?」
「ひっ……!」
動かないのではなく、動けない。
そんな事言えるわけもなかった。
影を失った使い手は【小さな夜の恐慌】の発動中、動けない。
リニスの作った血統魔法は夜属性での有利をとっていたにすぎず、血統魔法としてはいわば生まれたて。
改良の余地のある出来損ないだった。
「あんたから来ないなら私が行くわ」
エルミラは両手を広げながらリニスに近付いていく。
リニスもエルミラの動きの意図に気付き、顔が真っ青に変わる。
「や……やめてくれ……」
「こんくらいで許してやるっていうんだから感謝しなさい」
リニスは首をぶんぶんと振って嫌がる素振りを見せる。
もはやその姿に大人っぽい雰囲気など無い。
今のリニスはまるで親からの罰に怯える子供のようだった。
「さっき友達が言ってたんだけどね」
リニスの目の前まで来て、エルミラは悪戯っぽい笑みを浮かべて告げる。
「私のハグって痛いらしいの」
「やめ――!」
エルミラはそのままリニスに飛びこむように抱き着き、使い手以外の気配に灰のドレスは反応する。
それが、リニスの終わりの瞬間。
ドドドドド‼ と小刻みな爆発がリニスの全身を襲う。
魔力によって練り上げられた衝撃がリニスの思考を埋め尽くした。
「か……ぁ……!」
当然、制服は爆発でボロボロに。
十数回爆ぜた衝撃を全身に受けたリニスは力無く倒れた。
その体に影が戻る。
それは血統魔法の維持ができなくなった証。
切り札を切ってなお敵を打倒できなかった魔法使いの敗北だ。
「あら、ごめんなさい。でも……もうその制服いらないものね」
勝者は立ち続け、敗者は倒れる。
当たり前の結末がこの場所に訪れた。
「ぶはっ!」
そんな結末の直後、誰かの声が下から聞こえてきた。
聞き覚えのあるその声にエルミラは屋根から声のしたほうを見下ろす。
「ベネッタ!」
「エルミラ!」
ベネッタは出てきた勢いそのままに強化をかけていた足ですぐさま屋根に飛ぶ。
そしてそのままエルミラに抱き着こうとするが……。
「す、ストーーーーーーップ!!」
エルミラの声と両手での全力の制止でぴたりと止まる。
ベネッタは何事かとびっくりした表情になるが、やがて顔は赤くなり、唇をわなわなと震わせ、その目に涙が貯まり始めた。
「何で……? ボクやったんだよ……しっかりやったよ……? 何で抱き着いちゃ駄目なの……? 嫌い……? ボクの事嫌い……? 汚れてるから……?」
「違う違う違う! 違うから! 今抱き着かれたらこの転がってるこいつと同じようになるから!
魔法解くから待てってだけの話! 泣かない! 泣かないの!」
血統魔法を解除すると、灰のドレスは消えていく。
そしてエルミラはベネッタを迎えるように手を広げた。
その表情は少し恥ずかしそうだが、ベネッタはそんな事は気にせずその胸に飛び込んだ。
「エルミラー! 無事でよかった!」
「あんたもよかった……帰ってこれたのね……」
ふとエルミラはシャーフの怪奇通路の入り口に目をやる。
その入り口はベネッタが出てきたからか、徐々に歪み始め、そこから消えていった。
オウグスの話では、シャーフの怪奇通路は一度攻略されると出入り口の場所を変える。
ここに入り口が無くなっても、またベラルタの街のどこかに迷宮の入り口が作られるのだろう。
「いっつ……」
抱き着かれて、リニスの魔法に噛まれた肩が痛む。
ベネッタはその声でばっと勢いよく離れた。
「怪我してる……『治癒の加護』」
「ありがとう……」
エルミラの肩に淡く、赤い光が灯る。
リニスの血統魔法で食い千切られる寸前だった肩は徐々に治っていく。
完全ではないが、その痛みはかなり軽いものになった。
「ベネッタ、核を破壊したのよね?」
「うん! バッチリー!」
「よくやったわ……やるじゃない」
安心からか、エルミラはつい自然にベネッタの頭を撫でる。
「へへへ……」
「でも……駄目だったか……」
エルミラは西の城壁の方向を見る。
そこには未だ健在の【原初の巨神】。
城壁越しでももう肩の所までこの目で見ることができる。
こんな巨大な魔法を見れば住民はパニックになったに違いない。
存在を知ってるエルミラですら悲鳴を上げながら逃げ出したい。
【原初の巨神】はベネッタが魔法の核を破壊したにも関わらず、その存在はそのままにベラルタへと向かっていた。
「そんな……」
ベネッタは膝から崩れ落ちそうになる。
必死に抗った今日の行動は無意味だったのかと。
そんなベネッタをエルミラは肩を持ってしっかりと支えた。
「あなたが悪いんじゃないわ。こればかりは運だもの。むしろあのでかいのを再生できなくしたんだからお手柄よ」
そう、ベネッタはお手柄だ。
四百メートルを超える巨人。
マナリルにある城壁でもトップクラスに高いベラルタの城壁でもあれの前ではただの段差のようなものだ。
もうじきその腕が振るえる距離になり、ベラルタは蹂躙される。
そんな圧倒的に巨大な魔法の再生を防いだ。
これだけでマナリルの対処はかなり楽なものになる。
ただ――ベラルタを守れなかったというだけの話。
「でも……ベラルタは……」
「ええ、すぐに逃げましょう。私達は出来る限りの事をやったわ……それでもあの【原初の巨神】という魔法は止められなかった。後は直接あれを破壊できる魔法使いに任せま……しょう……」
エルミラの言葉が止まる。
視線は西の城壁。
今からベラルタを蹂躙するであろう【原初の巨神】を睨んでいたその目は段々と見開いていく。
「エルミラ……? どうしたのー……?」
ベネッタも西のほうに再び目をやる。
変わらず見える【原初の巨神】の頭部。そして肩。そこから伸びる腕も徐々に見えるようになるだろう。
「あ……」
しかし、二人が見ているのは【原初の巨神】ではない。
西の城壁そのものでもない。
「そんな……ことって……」
「ないわ……こんなのってあり得ない……」
二人の視線が捉えたのは西の城壁に立つ人影。
それは遠く、この距離でなお存在感で圧倒する【原初の巨神】とは比べ物にならない小さな人間。
その装いは見慣れたもの、自分達も今着ているマナリル魔法学院の制服だった。
「馬鹿だ……馬鹿だわ……!」
一体誰?
そんなのはわかりきった事だ。
今ベラルタにいる生徒でこの場所にいない者は一人だけ。
あれは馬鹿だ。馬鹿でどうしようもない。あの巨人を前に何を悠長にそんな場所立っているのか。
エルミラは息を吸う。
その馬鹿にこの声が届くように大きく。
普通ならば逃げろと叫ぶ。それが友人であるのなら尚更だ。
それでも……それでも、そう叫ぶべきではないと思ってしまう。
だって、彼はそこにいるというだけで、何をやろうとしているのかを雄弁に語っていたから。
ならばそんな馬鹿を後押しをする人間がいてもいいだろう。
逃げろという言葉を放り投げ、エルミラは思うままに叫んだ。
「いっけえええええええ!! アルムううううう!!」
エルミラのその声は果たして西の城壁にまで届いたのか。
ベネッタはぎゅっと、天に祈るように自分の手を握る。
二人の視界には一つの魔法と一人の人間。
ベラルタを破壊しようとするはスクリル・ウートルザが遺した遺産。
山の巨人――【原初の巨神】。
相対するのは小さな人間。制服の似合わない田舎者。
そして、学院唯一の平民。
彼がいるのは誰もが目を疑う場所。
【原初の巨神】に最も近い西の城壁の一番上に、アルムは堂々と立っていた。