611.翡翠色のエフティヒア9
『やった! あの気色悪い目も無くなったわ!! ベネッタナイス!!』
『ベネッタ! 凄い! 凄いぞ!!』
『ベネッタがやりましたわ!!』
『やりましたわベネッタさん!』
『ベネっち! ベネっちー!!』
ダブラマ中が歓喜に沸く。
人々に恐怖を与え続けていた黒い魔力は霧散し、霊脈から染み出していた憎悪も消えた。
太陽は変わらず影に隠れているが、そこに生贄を求める目は無く……徐々に影から日が差し始める。
アブデラの消滅によってダブラマは支配圏を離れ、アポピス復活の条件は完全に破られた。
魔石を通じて聞こえてくるミスティ達の声はサンベリーナとフラフィネも混じって、何でもいいからベネッタに届けと名前を連呼し続けている。
『終わっ……た……』
『終わったんだ……! 終わったぜてめえらぁ!!』
同じように通信室の職員達もルトゥーラの一声で立場関係無く喜びを溢れさせた。
腰の抜けたマリツィアにヴァンが手を差し伸べて、労いの言葉をかけながら立ち上がらせた。
『ミスティ様、ラティファ様は?』
『アブデラ王の呪法が完全に消えたのに安心したのかお眠りに……こちらでリオネッタ邸に運ばせて頂きます』
『よろしくお願い致します……これで……』
神の生贄として守られていた民は普通の民へ、偽りの理想はどこにもない。
ダブラマに巣食っていた悪神の呪詛もアブデラの妄念も完全に消え去った。
百年前から縛られていたダブラマの在り方は元に戻る。
ダブラマの全てがここからまた、始まるのだ。
ここに全てが終わった。映像を見ていた全員が、この結末に安堵していた。
『……?』
――誰もがそう思っていた。
『なに? この音……?』
映像から聞こえてくる音がエルミラ達を現実に引き戻す。
勝利の結末に相応しくない……地の底に響く不穏な音が聞こえてくる。
『何だ……少し揺れてるような……?』
『ま、まさ……か……!』
全員がいまだダブラマ中に映し出されている映像のほうに向く。
音の出処は映し出されている地下遺跡。
その映像が、小さく、だが確実に……揺れ始めた。
『ま、まずい……! 地下遺跡が崩れかけてる!!』
『え!?』
『な……!?』
ルトゥーラの声で全員の表情から喜びが消え去っていく。
揺れの正体は地下遺跡の崩壊の兆し。音は地下遺跡全体に亀裂が入った崩壊の序曲。
映像の揺れはゴゴゴ、という音とともに徐々に大きくなっていく。
『そ、そんな馬鹿な……! 一体何故――』
言いかけて、マリツィアは答えに至る。
あの地下遺跡は先程までアポピス復活の為一体化していた巨大な魔法式そのもの。
ならば魔法式の破壊が、地下遺跡そのものを破壊するのは当然の結果なのではと。
『ベネッタ! 早く! 早く逃げなさい!! ベネッタ!!』
「……っ……」
エルミラの声に少し反応してベネッタの体は動くが、本当にかすかな動きだった。
揺れる映像の中でかろうじてわかるかどうかというか細い動き。
血塗れの体に潰れた手。"星の魔力運用"を使った事で体中は裂けて……もはやベネッタの体は限界となっている。
何度も見たボロボロになったアルムの姿と今のベネッタの姿が重なる。
"星の魔力運用"に慣れているアルムですら、一定を超えればその体は限界に至る。
ならば……慣れていないベネッタへの負担はどれほどのものなのか。
『何……やってんの……! 起きろ! 起きなさいベネッタ!! 無属性でも何でもいいから強化を使って脱出するの!! あんたそこにいるって事は出口わかるんでしょ!? 寝てんじゃねえわよこの寝坊助!! 動け!! 動きなさいよ!!』
『エルミラさん……! 落ち着いて……!』
『黙ってなさいよ! 私はベネッタと話してんのよ!! 動け! 起きなさいよベネッタ!!』
制止しようとサンベリーナはエルミラの肩を掴む。
だがその横顔を見てこれ以上制止することはできなかった。
エルミラの横顔に見えるのは最悪の未来を想像して流れる涙。声が震えないように必死に押し殺して叫ぶエルミラの姿を前に落ち着け、などという一般論を投げた自分に罪悪感を感じて押し黙る。
『ベネッタ! 目を覚ませ! 頼む! 頼む!!』
『ベネッタ!! 起きて! 起きてくださいまし!!』
ルクスとミスティも声をかけるが、ベネッタは動かない。
広間の床に転がる骸骨と同じように……横たわったまま。
『ベネッタ! 起きろっつってんでしょ!!』
「……ん…………える、ミラ……」
エルミラが再度呼び掛けて、ぴくり、とベネッタの体が動いた。
映像を見ていたミスティ達の表情に明るさが一瞬戻る。
『聞きなさい! そこはもうすぐ崩れるわ!! 何とかそこから離れるの!!』
「う……ん……」
短く答えて、ベネッタはすぐに行動に移そうとした。
しかし、その光景からすぐに目を逸らしたくなってしまう。
潰れた両手を懸命に床に押し付けて、上半身を起き上がらせようとする姿はあまりに痛々しい。
上半身を起き上がらせたかと思うと、ベネッタは潰れた両手で何かを確認するように……床をペタペタと触り始める。
そして肘を床につけると体を引きずって、そしてもう一度少し進んだ先で周囲を見回すように体を動かして……もう一度床を確認するようにぺたぺたと触り始める。
「エル……ミラ……。くらい……ね……。夜に……なっちゃった……?」
『なに……言ってるの……? 壁に照明用魔石があるから普通に……』
『違う!! 目が見えてないんだ!!』
聞こえてくるルトゥーラの声が届き、ミスティ達の表情が一気に青褪めた。
ベネッタが動いた事で一瞬だけ戻った表情の明るさは消え、絶望に染まる。
『魔眼の負担と魔法生命の呪詛で両目の視力が落ちたんだ!! あの嬢ちゃん今何も見えてねえぞ!!』
『そ……そんな……』
薄暗さもあり映像越しで確認する事はできなかったが……ベネッタにはもう両目が無い。
"現実への影響力"を限界まで引き上げる為の過剰魔力、そしてアポピスから流れ込んでくる呪詛。
内と外から焼かれ続けたベネッタの両目は血統魔法の変革と同時に限界を迎え、"現実への影響力"だけを眼孔に残して内部から破裂していた。
『至急救助に向かう! 地属性魔法の使い手はついてこい!! 指揮は俺だ! 俺の血統魔法で瓦礫を防ぎながら最速で潜る!! 急げ何してる! 命令だ! ヴァンのおっさんは俺達を連れてけ! 馬なんかより数倍はええだろ!?』
『当たり前だ! 三〇分……いや二〇分で着かせてやる!!』
『絶対に救出するぞ! あの嬢ちゃんの死はダブラマの死だと思え!!』
通信室にいた二人の地属性魔法の使い手を連れてルトゥーラとヴァンは急いで通信室から出て行く。
通信室の中まで届く突風がヴァンの血統魔法の発動を知らせていた。
二〇分で着くはずは無い。それでも、助けに向かわない選択肢など有り得ない。
『間に……合わない……!』
映し出される映像に、落ちてくる瓦礫が見え始める。
揺れは一層激しくなり、地下遺跡はその形を保てずに崩壊し始めた。
天井から落ちてくる瓦礫が床で砕けて散らばって、こつん、と転がってきた石が魔石に当たって跳ねていた。
ベネッタは倒れていた場所から人一人分くらいだけ進んで、再び力尽きたように横たわる。
「ごめ……ん……ね……。みん、な……ちょっと……つかれ……ちゃった……休んで……から……」
『駄目ぇ!! まだ駄目ベネッタぁ!! 動いて……お願い!! お願いよぉ!!』
震えを帯びているのを隠せなくなったエルミラの声が濡れるように地下遺跡に響く。
今度こそベネッタの体力は本当の限界を迎えた。
生存の為に必要な魔力すら無く、呪詛に耐えきった体力は底を突きた。
たった少しだけ動いたのは、友人の声に最後の気力を振り絞っただけに過ぎない。
焼けた呼吸器官はかろうじて生存を先延ばし、出る声はその全てに血が混じっている。
『ベネッタ! くそ! くそくそ! 何か……何か……水路に……いや、それでも……!』
『ベネッタ……! 起きて……! おぎでぇ!!』
ルクスもミスティもただ涙を流しながらその映像を見続ける事しかできない。
自分達にできる事など何もないのだと、進む時間が残酷な現実を突きつける。
『なんでよ……! 勝ったのよ……? 勝ったじゃない……! 終わったはずじゃない! 助けてよ……誰か助けてよ!! こいつはこの国を救ったのよ!? なら……こいつ一人くらい誰かが助けてくれてもいいじゃない!!』
……この世界に神はいない。
奇跡は人間には起こせない。
奇跡とは神と星のみの特権。
どれだけ人間が理不尽を叫ぼうとも聞く神はここにはおらず、星はただ一個の命のためにその資源を使う事は決してない。
少女の欲望は確かに災厄の結末を退けた。
だが、それも奇跡などではない。
ベネッタ・ニードロスはその結末を変える為に自身の全てを懸けていた。
ゆえに――この結末も必然。
少女が生存を放棄した。その選択による結末がただ無情に訪れる。
『やだ……やだよぅ……! やだよベネッタ……! だって、まだ……したい事いっぱいある……! あんたの春服買ってない……! 帰郷期間だってもう一度ある……。卒業だって一緒にしようよ……! お願い……いくらでも抱き着かせてあげてもいいわ……! だから、だからお願いよ……!』
映像に見える瓦礫が増えていく。
崩れた天井の合間から砂が落ち、砂埃がベネッタの体に落ちていく。
次の瞬間にはベネッタが瓦礫で潰されてもおかしくない崩壊の光景。
エルミラは映し出された映像に目一杯近付いて、ベネッタの姿を目に焼き付けていた。
映し出された映像にどれだけ手を伸ばしても、ベネッタの下に行くことはできない。
「………………」
もう、少女に声は聞こえていなかった。
地下遺跡全てが崩壊していく轟音が、魔石から聞こえてくる声すらかき消していた。
天井から落ちてくる砂が山を作って、音を遮る壁となる。
数分も経たずに地下遺跡は崩れ落ち、岩と土に混じって埋まるだろう。
声が聞こえなくなっても、ベネッタが寂しさを覚えることはない。
周囲の音など関係無く、ベネッタの意識はすでに狭間の中にあった。
死ぬのは恐い。
けれど、何もしなかった時のほうがもっと恐かった。
――何のためにここに立ったのか。
決まっている。
ボクは後悔しないために動いた。気付けば足が動いてた。
だから、この最後に後悔なんてしていない。
ボクはボクの守りたいもののために走った。
全部を懸けた今のボクに着飾れるものなんて何も残ってないけれど、それでもボクは堂々と胸を張ることができる。
やっと、そうすることが出来る。卑怯だったボクがようやく。
最後は一人になってしまったけれど、それでもきっとボクは間違っていなかった。
「ぁ……」
そんなボクへの報酬だろうか。
ボクが立つ道の先から聞こえなくなった声が、聞こえてきた。
見えなかった姿が……どれだけ走っても見えなかった四人の背中が、見えてきていた。
"ったく、ベネッタったら何ぼーっとしてんのよ"
エルミラ。
学院で会った友達想いの、一番のお友達。
"ギリギリまで寝てたのかい? ベネッタらしいね"
ルクスくん。
ボクみたいな人にも分け隔てなく仲良くしてくれた、立派なお友達。
"うふふ、ベネッタったら寝ぼけてますの?"
ミスティ。
綺麗でとっても優しくて可愛い、尊敬してるお友達。
そして――
"行こう、ベネッタ"
アルムくん。
ボクにこの光景をくれた最初のお友達で――ボクが憧れる、魔法使い。
「なんだ……みんな……そこに、いたんだね……」
――みんなの声がこんなにはっきり聞こえてくる。
もう光もわからなくなってしまったけれど、みんなの姿だけがこんなにも近くに見える。
走っていける、距離にいる。
「どう……だった……? ボク……頑張ったでしょ……?」
もう、足手まといなんかじゃない。
胸を張って、みんなと同じ場所に走っていける。
みんなと同じ……"魔法使い"の道を隣で一緒に――。
「えへへ……お待たせ……みんな……」
――――やっと、追い付いた。
『ベネッ……タ……』
映像全体に落ちる瓦礫の雨を一瞬映して、ダブラマ中に流れる映像は全て途切れた。
国に満ちた歓喜は静寂へ変わる。
自分達を救ってくれた英雄がどれだけ小さな少女であったかを焼きつけながら、全ては終わりを迎えていく。
ミスティもルクスも、そしてエルミラも途切れた映像が映し出されていた空をただ見つめて呆然とする事しかできなかった。
受け入れることなどできるはずもなく、ただ……そうする事しかできなかった。
砂塵解放戦線・作戦終了。
かくして悪神の復活は普通の人間によって阻まれ、犠牲を孕んだ理想は空に消える。
陰から覗く太陽の眩い日差し。
風はいつも通り日常の中に吹いていて。
たとえ自分がいない未来だとしても。
少女は記憶の中にある――友人達と並んで歩いた小さな幸せを夢見ていた。
いつも読んでくださってありがとうございます。
長い戦いの結末を経て第八部最終章終了です。
ここで一区切りとなります。次の本編更新からエピローグに向けての更新となります。
長かった第八部も残り数話。最後まで見届けてやってください。




