610.翡翠色のエフティヒア8
「"変換式固定"!!」
アブデラは自身から伸びる魔法式を現実に伸ばして固定する。
体中に走る激痛さえも、これから始まる新世界へ向けての歓喜へ変わる。
噴き出す黒い血はさしずめ一足早い祝杯か。
アポピスの意思がダブラマ中の生贄の命の位置を捉える。
捧げられる血は魂との交換。死した魂を引き連れて地獄より這い上がる準備が整っていく。
もう止められる者はいない。ラティファでも、アルムでも止められない。
もはやゴールテープを前にしたウィニングラン。
アブデラは自身の理想に辿り着く目前まで魔法式を展開して――。
「"変……換"!」
「!?」
ようやく、その後ろを追いかける影に気付く。
歓喜に包まれる勝者の足を掴む者。
ベネッタ・ニードロスは声とともに立ち上がった。
血塗れで立ち上がる姿は闇の中から現れる幽鬼のよう。
しかし、その瞳には闇など無く……光に満ちた希望が宿っている――!
「今更立つか。だがもう遅い。貴様では我を殺せぬ! 止められぬ! もはやこの命すら手遅れだ! 我が死んだ所でアポピス様が復活すれば我は再びこの世に舞い戻る!
よく立ったと、最後の賞賛だけ送ってやろう。だが貴様では、我は止められない」
「そんな事……わかってる……」
「……?」
返ってくる声は諦めかと、アブデラは思わず耳を疑った。
この地下遺跡まで自分を追い掛け、自分と対峙し、今両手が潰れ、血塗れになりながら立ち上がる少女が今更諦める為に立ち上がったのかと。
そんなはずはない。
あの目は何だ?
こちらを射殺すように見据える目は。
あの目は何だ?
諦めからは程遠い視線は。
あの目は何だ?
ボロボロの体で一際輝く翡翠の瞳は一体何を見つめている!?
「ボクは……あなたを、止められない……そう、最初からそうだったんだ……」
あまりにも不気味なベネッタの姿にアブデラは動揺を見せる。
ここからの逆転は有り得ない。
すでに魔法式は地下遺跡中に広がった。
変換式を固定した自分は確かに動けないが、自分を殺した所で手遅れ。あの状態ではそれすら出来るかどうか。この鱗の外皮すら貫けないだろう。
日食の時間いっぱいまで魔力を供給すれば【生命転生術式・アポピス】は発動する。
そう、自分の勝利は揺るがない。
アブデラは思考を巡らせ平静を取り戻す。有り得ない可能性に思考を伸ばして魔法の三工程を疎かにしてはそれこそ間抜けだと自分を律する。
もうあの少女の姿は見る必要すら、声に耳を傾ける必要すらないのだと。
「ボクの相手は……!」
しかし、それはベネッタも同じだった。
ベネッタはアブデラを見ていない。
「"変換"……"変換"……っぶ……。"変……換"――!」
自分の敵を見つめながらボロボロの体に負担を強いる。
吐き出す血にすら目に留めない。
感覚の無い手でいつも巻いている十字架を握りしめて、残った恐怖を乗り越える。
不可視の源泉からせり上がってくる魔力。
一度に扱った事のない魔力の波。
広間に強まる黒い魔力光。そしてその闇を裂くように、銀色が輝きを増す。
(アルム……くん……。こんなのに、耐えてた……んだ……。凄いや……)
体中に走る激痛の中、ベネッタは友人への賞賛を送っていた。
この痛みですらまだ序の口だというのに、アルムはこれ以上の痛みに耐えながら平然としていたのかと。
そんな友人を誇らしく思いながら、ベネッタは魔力を加速させた。
限界を超えた魔力が体内で雷のように迸り、全身を駆け巡る。
本能が出す警告などとっくに無視し、ベネッタは自分の敵をその目で見つめて――。
「"変換式……固定"!!」
その瞳に切り札を宿す。
両目を介した血統魔法の魔法式。
血塗れの体は銀色の魔力光で全身が輝き、瞳に宿る魔力光はその輝きを強めていく。
ベネッタは自身の血統魔法に、自身の在り方全てを懸けた。
「なに!?」
少女の力強い宣言にアブデラは驚愕を露わにした。
一瞬思考して、だからどうした、と切り捨てる。
自分と同じように"星の魔力運用"を使った覚悟は認めてやるが、この少女の血統魔法は動きを止める拘束系。
どれだけ"現実への影響力"を増そうとも、結末は変わらない。
もうすでに動く必要すら無いのだから。
だが……そんなアブデラをベネッタはもう見てすらいない。
「もう……間違えない……。ボクがやるべき事は初めから……こうする事だったんだ」
自分が本当にやるべき事。
本当の意味でこの悪意を止める方法にベネッタは気付く。
翡翠の瞳はアブデラではなく――地下遺跡に張り巡らされる魔法式、異界の神アポピスへと向けられた。
「命を掴んで……! 【魔握の銀瞳】ぁ!!」
決死を背負って紡がれた歴史の声が響き渡り、"充填"と"変換"を繰り返して作り上げた魔法式は"放出"によって意味とカタチが作られる。
生まれ持った翡翠を塗り変えて、銀瞳は夜空に浮かぶ星のように輝いた。
「っ……ぐ……! うぎ、……っああああああああああ!!」
綺羅星のような美しさとは反して、ベネッタの口から出る絶叫は聞いた者に絶命を想起させる。
涙のように流れる銀色の魔力に血が混じる。
魔法を宿す瞳の痛みは全身の比ではない。
なにせその瞳が捉えている命は魔法生命アポピス。
呪いそのものに触れたベネッタに流し込まれるのはアポピスが与える苦痛と死の記録。
だが、さっきよりは耐えられる。先程味わっていた事で覚悟はできていた。
何よりここで引くようなら……最初からやっていない!
「う……ぎ……っ……! っあああああああああああああああああ!!」
「……!?」
アブデラはようやく異変に気付く。
自分が描く復活の魔法式。魔力残滓と変わったアポピスの命を描いた完璧な形。
地獄から這い上がってくるはずのアポピスの気配が止まっている――!
「何を……!? 何をした!? 何をしている!? ベネッタ・ニードロス!?」
「よみがえ、らせない……ボクの、血統、魔法は……!」
……ベネッタの血統魔法は動きを拘束するものではない。
【魔握の銀瞳】の本質は命に触れ、その場に留める力。拘束はその結果に過ぎない。
魔法生命である大嶽丸は気付いていた。その瞳が異質である事に。
外見と共に命のカタチを変えるクエンティは体感していた。その瞳が命を留める目だという事に。
「ば、馬鹿な……! 魔法の実態は"現実への影響力"だ……復活前の、死後の世界にいるはずのアポピス様に届くわけが――!」
そう、アブデラの言う通り、本来ならいくら血統魔法といえど死後の魂などには触れられない。
だが……ご丁寧にここにはある。地下遺跡に沿って展開されたアポピスそのものを表す魔法式が。
ベネッタはアブデラが展開した魔法式を通じて、その奥底に存在するアポピスの命をその瞳で掴む。
アポピスがこの魔法式によって現世に復活するというのなら……この瞳で地獄に留め続けるだけ――!
「あなだは……ただしいことを、しでる……!」
割れる視界。体内で火花を散らしているような激痛。
血統魔法を通じて流れ込む呪いで呼吸すら忘れそうになりながら、ベネッタは自身の敵の在り方を直視する。
あろう事か、この世へと這い上がろうとしてる魔法生命アポピスをベネッタは肯定した。
誰だって、死にたくないに決まっている。
誰だって、生きていたいに決まっている。
だから、魔法生命アポピスは生命としてこれ以上ないほどに生命として真っ当だ。
「げ、れど……!」
その方法だけは許せない。
蘇るのなら、この世の生き物を犠牲にしない方法でなければいけなかった。
生きるとは犠牲を生むという事。けれどその権利は同じ世を生きる生命だけにしか許されない。
死んだ後に神様だからと今生きる誰かを踏みにじっていいはずがない。
誰だって、一度限りの生を精一杯歩んでいる。
一度限りの生だからこそ……人間は大切な誰かの死に傷ついて、思い出を宝物にして必ず来る明日に向けて歩いていくのだから。
「だから……ボクはあなたの世界を否定する! あなた達の理想を否定する!!」
「やめろ! わからないのか!? 今ここは分岐点! 人類の進歩! 種としての偉大なる前進だ! 才無き者ではなく、才有る者達の世界に進む進化の瞬間だ! 何故わからない!? これはただの生存淘汰に過ぎない! 人間がよりよい世界へと歩む理想を何故理解しない!?」
才有る者だけを世界に残すアブデラの思想。
その根底にあるのは真の超越者への憧れ。
才無き者に訪れる苦しみを共有できるからこそ夢見た理想の世界。
アブデラの絶叫はベネッタの耳に心地よい言葉となって届く。
アポピスが復活すれば、この世界に生きる全員が特別になれるのだと。
「うるさい!! そんなものいるもんかぁああああ!!」
その声をベネッタは一蹴する。
アブデラの語る特別も進化も、少女の欲望とは程遠い。
「進化なんて知らない! 世界が進むなんて知った事か! ボクが大切なのはみんなと一緒にいれる今だから! 一度きりを生きている今がいい! 今日を大切にできる今がいい! いずれ終わりが来る今がいい! 今を捨てなきゃ手に入らない理想なんて……ボクにはいらない!!」
全身から迸る銀色の魔力。
血の色すら塗り潰す渇望の声。
銀色の光の中に覗かせる翡翠の瞳は人間にとっての未来ではなく、自分にとっての大切な今を見た。
少女は恐れる事も無く、たった一人の欲望で人類の進化を否定する。
「特別な理想よりも……みんなといれる普通が欲しい!!」
その叫びは特別との訣別。
本能が守っていた生存の為の魔力を放棄し、その全てを血統魔法に注いだ。
叫びと共に全身を駆け巡る魔力が体内を焼け焦がす。
生身で受け止めていた常識外の奔流に眼球が破裂する。
痛覚は麻痺しない。
永遠にも感じる激痛の地平をベネッタは駆け抜けていく――!
「塗り潰して【魔握の銀瞳】!! ボクから全部を奪おうとする……神様が作る理想の世界を!!」
少女の声に血統魔法が呼応する。
個体の魔眼から概念に干渉する世界改変へ。
歴史が継いだ古き魔法式を最新に。
過去からの抽出ではなくベネッタ自身が望む真の変革。
少女の細やかな欲望は自己の世界へと変わって、生命の復活を否定する。
「やめ……やめてくれ……! やめろおおおおおおおおおおおおお!!」
ベネッタを中心に崩壊していく魔法式。
黒い魔力によって描かれていた魔法式が銀色の光に塗り潰され、その在り方を否定されて消えていく。
床の張り巡らされた魔力の線は砕け散り、水路を満たしていた魔力も霧散していく。
アブデラの絶叫は虚しく響くが、魔法式が破壊されていく音にかき消されていった。
「あ……! ああ……! ああああアああアアああああ!?」
魔法式が破壊され体が動くようになったアブデラはわなわなと自分の両手を視線を落とした。
手にしたはずの夢は無手に。
百年の理想は砂塵と共に吹かれて消える。
地下遺跡の闇はすでに無窮とは程遠く。
魔石の光で照らされた地下遺跡の広間は淡くその場を照らしていた。
「っぁ……! ぇ……!」
アポピスとの繋がりが途絶え、星の在り方を損なったベネッタはその場に崩れ落ちる。
銀色の魔力光は徐々に小さくなり、無色となって消えていく。
残るのはあまりに凄惨に傷ついた小さな少女の体のみ。
呼吸すらままならず床に崩れ落ちたベネッタと無傷で立ち尽くすアブデラ。
両者に浮かぶ表情が、勝敗を物語っていた。
「なんだ……なんなんだ、これは……! 何故……あんな……! あんな平凡な……!!」
アブデラは憎悪のままにベネッタのほうを向く。
自身の理想を破壊した少女はぴくりとも動かない。
だがそれでも湧き上がってくる感情に耐え切れず、アブデラはベネッタに手を向けた。
「貴様だけはああああああああ――!!」
だが、彼の契約はまだ終わっていない。
【契約を破ったなアブデラ】
一つの瞬きでアブデラの見ていた視界が変わる。
どこまでも続いていきそうな闇。上下左右もわからない空間。
ベネッタの姿は何処かへ消えて、地下遺跡の光景すらも吹き飛んでいった。
しかし、アブデラの顔は晴れやかだった。破壊されたと思っていたアポピスの声が聞こえてくる。
喜びのあまり、アポピスが何を言ったのか聞き取れず……アブデラは信仰のままに跪いた。
「あ、アポピス様! ご無事――」
【我を復活させるという契約を、破ったなアブデラ】
「……は、い?」
その喜びも一瞬で消え去っていく。
アブデラが結んだ相手は魔力残滓に宿る意思とはいえ、異界の神。
神と契約しながらその契約を破ったただの人間の末路など……決まり切っている。
「わ、我は……! 私はアポピス様の為に全てを――」
【だが、復活は叶わなかった。日食の時は終わり、我が瞳は星の光の前に閉じた。貴様は契約を成すことができなかった】
「ひっ――!?」
アポピスの声と共に、アブデラの体が黒く染まっていく。
両手が黒く染まったかと思うと、両手は砂のようにそのまま崩れ落ちた。
消える。
命が、在り方が、魂が、闇の中に崩れていく。
契約を破った愚かな人間に相応の罰が下る。待っているのは永劫の地獄。
「お、お待ちください! こんな、こんなぁああ!? 我、は……我の理想を……! 間違いだ! いや! 我は間違っていない!! 間違っていなかった!!」
【まだわからぬか戯け。貴様の理想はたった一人の明日に負けたのだ】
「そ……んな………。ば、か……な……」
地下遺跡の広間から、アブデラの姿はいつの間にか消えていた。
憎悪も怒りも、悪意すらここには欠片も無く、あるのはたった一人の少女の勝利。
ダブラマを救い、友人を守り切った英雄の勇姿だけが映される。
「……った…………」
人々の歓喜に埋もれた声にならない小さな呟き。
それでも確かに、少女は自身の勝利を謳っていた。
いつも読んでくださってありがとうございます。
アポピス戦決着です。次の更新で一区切りとなります。




