609.翡翠色のエフティヒア7
「今こそが世界が変わるその瞬間! 現世と常世の境界に我は立つ! 真の戴冠の時はここに!」
霊脈を通じてアポピスの呪いが地に染み出す。
アポピスの瞳が開いたその瞬間、呪詛は目に見える赤黒い液体となって溢れ出していく。
地中に住む動物は地上に這い出て、鳥はとっくに故郷を放棄して飛び立ち、植物は生存の放棄を選んで枯れていく。
大気そのものが軋み、今在る世界との訣別を告げる。
「さらばだ。ただの記録に変わる古き生命達よ。誇り高く胸を張り、そして恐怖を張り付けながら華々しく死ぬといい。その血は新たな世界の礎となる。――"充填開始"」
地下遺跡の広間の中央に立つアブデラの体に黒い魔力が湧き始める。
本来口にする必要の無い魔法の三工程の一つ。
気付いたのはミスティ達だった。その方法を彼女達はよく知っている。
それはアルムが無属性魔法の"現実への影響力"を底上げする手段。
映し出されるのはあまりにも手遅れな答え合わせ。アブデラがアルムと同じ"星の魔力運用"を使って魔法生命を復活させるという推測は当たっていた。
だが、気付いた所で止められない。映像を見ているだけのミスティ達にはそれを邪魔する手段が存在しない。
「"変換"」
魔力は不可解な模様を作りながら床に伸び、さらに紋様を描くように広がっていく。
黒い鱗で覆われているアブデラの体は胸部を中心として魔力による黒い線が体中に走っていき、四肢に伸びて、水路のように枝分かれしながら床に魔法陣のようなものを描いていく。
『む……ぐぅ……!? うぶ、う……!』
魔力の線が伸びるのと同時に、メドゥーサの体を縛る闇が這い回り始める。
魔力残滓に残る意思が復活を喜び狂乱する。
これから新しい体となるメドゥーサの体に宿る邪魔な意思を根絶する為に、その精神を食い荒らし始める。
メドゥーサの体は逃れるように悶え続けて、やがてぴくりとも動かなくなった。
「う……! ぐぬ……!」
アブデラの額に冷や汗が浮かぶ。
瞬間、アブデラの腕が内部から裂けたように血が噴き出した。
血は黒の魔力光によってどす黒く変わっており、日食の闇が流している雫と同じような色をしている。
「これが……"星の魔力運用"か……! なるほど、狂っている……! やはり、あの男を遠ざけたのは正解だった」
アポピスという魔法を完成させる為の手段。
"充填"、"変換"、"放出"の三工程を同時にし続ける常識から外れた魔法構築。
その前段階ですら体が悲鳴を上げ始めているのを体感して、アブデラはアルムを遠ざけた選択の正しさを改めて思い知った。
こんな異常な魔力運用を常に行っている魔力の怪物を相手するなど想像もしたくない。予定が狂うのは目に見えている。
あれは高みを求めて手を伸ばし、光に焼かれても意に介さずに進み続ける平凡な人間という名の怪物なのだと。
「だが……その男もこの術式で命を散らす。呪詛に塗れてアポピス様の一部となる。
永劫の苦悶と魂の焼却を繰り返して、アポピス様の中で溺れ続ける矮小な生命の一つとなるのだから くく……ふはははははは!!!」
アブデラの手によって構築されていく魔法生命アポピスの魔法式。
地下遺跡を触媒とした復活の儀式が進んでいく。
地下遺跡に張り巡らされた水路は黒い魔力に染まって魔法式の延長となり、通路は正確な魔法式を刻む指標と変わる。
そう……この地下遺跡はかつて魔法生命を信仰する為に作られた場所。
死に絶えた異界の神を再び降臨する為にと、霊脈に沿って信者たちが作り上げた復活の間。
この場所以上に、アポピスという魔法を唱え切るのに相応しい場所は無い。
魔法式の構築が順調なのを確認しながら、アブデラは勝利を確信する。
事実、アブデラを止められる者はもういない。
映像を見ている人々に出来ることはただ遺言を残すことだけだった。
「…………」
その勝ち誇った声の主を見つめる、虚ろな瞳があった。
骨と一緒に床に転がり、体が凍ったように動かなくなった血塗れのベネッタが広間の中心に立つアブデラをずっと見つめている。
魔法式が進む度に、視界が歪む。
魔力にはまだ十分な余力がある。しかしそれに反して体が言う事を聞いてくれない。
自己診断するまでもない致命的な自身の怪我。
そして動けた所で……アブデラを打倒する力が自分には無い事を思い知らされている。
少女はただ転がったまま、事の顛末を見守る他無かった。
「見ているか歴史に刻まれる過去の魔法使い達。そして歴史を始めた創始者共よ……貴様らが作り上げた時代はここに終わる! 超越者の手ではなく、我の手によって! 貴様らが敷いた理は、神の座に就いたアポピス様の手によって無に帰る!!
ここからが我々の時代! 人類の進化の瞬間を見よ! 過去と変わった自分達の無力さを呪いながら……かつての勝利が偽りだったと知れ! 讃えるがいい……新たな歴史に、我の名が刻まれるのを見届けながら!!」
「…………」
視界が霞む中、アブデラの声が響く。
中心にいるアブデラのほうから、魔力の線が自分が転がる床にまで届く。
走馬灯のように、ベラルタ魔法学院から入学してからの思い出が頭をよぎった。
その思い出がこれから始まる巨大な魔法の予兆を間近にして、瞳から色を失っているベネッタに疑問を浮かばせる。
(何で……創始者の血統魔法は……あんなに大きかったんだろう……)
血統魔法は血筋の歴史にとって"現実への影響力"を上げていく魔法。
ミスティやルクスの血統魔法の"現実への影響力"が高いのは二人の家の家系が古く、今に至るまでに何代もの使い手が受け継ぎ続けたからである。
だが妙な事に……創始者はただ一代でその歴史に匹敵している。
地属性創始者スクリル・ウートルザの遺した自立した魔法【原初の巨神】は四百メートル近い規格外の魔法であり、ずっと山として眠っていた。
水属性創始者ネレイア・スティクラツの【命食む大海の王】は千五百年前から常世ノ国と海を隔てる水の壁となっていた。
つまり、どちらも千五百年前からあの規模だった。
年月の積み重ねによって"現実への影響力"こそ底上げされているだろうが、その巨大さは変わっていない。
他の創始者の魔法も、世界の理になるほどの規模で世界を包んでいる。
歴史が積み重なる前からあれだけ巨大な魔法をどうやって――?
「ああ……そうだったんだ……」
魔法生命スピンクスは言っていた。
"創始者はかつて魔法生命と戦った"
水属性創始者ネレイア・スティクラツは言っていた。
"九人目がこんな遠い時代に現れるなんて予想出来なかったわ"
繋がる。繋がっていく。
重なる。憧れた背中と伝わる歴史が。
目の前でアブデラが魔法を行使しているのを見て、自分達がずっと勘違いし続けていた事にようやく気付く。
規格外の魔力量を持つアルムを見ていたからこそ、簡単な事に気付けなった。
誰よりも自分達は知っているはずだ。アルムには魔法の才能が無い。
つまり――実際には逆なのだ。
アルムの使う"星の魔力運用"はアルムだからできるのではなく――アルムでもできる方法だという事を。
決して固有の方法なのではなく、無属性魔法の魔法として完成しない曖昧さとアルムの持つ魔力量が最大限にその方法を活かせるというだけの話に過ぎない。
気付いたら――答えは簡単だった。
「そう……だったんだ……」
そう……たった一つだけある。
魔法としての在り方が固定されている現代においても。
魔法使いが唱えるたった一つだけの、完成していない魔法。
歴史が続く限り"現実への影響力"を上げ続ける代々継がれていく魔法が。
血統魔法は、先祖が最初に唱えた時から唱え続けられている――!
古来から伝わり続けている魔法使いにとって常識とされる不文律。
唱え続けられている、という言葉の本当の意味にベネッタは辿り着く。
創始者が生み出した魔法のカタチ。使い手の在り方と理想を示す固有の魔法。
今の時代でアルムがそうしたように、創始者達は"星の魔力運用"を使って血統魔法を生み出したのでは――?
「なら……」
辿り着いて、ベネッタの瞳に色が戻る。
広間で繰り広げられる絶望の中に、翡翠の瞳は一筋の希望を見た。
ずっと憧れていた背中が、本当の意味で普通の人間だったという事に気付く。
あれはアルムだけのものではなく、ただ……アルムという魔法使いの才能の無い少年が、叶うはずのない夢を見る為に得た手段の一つに過ぎないのだと。
目の前の敵が、その手段を使って理想に手を伸ばしているように。
「それ……なら……!」
まだ……やれる事がある。
希望を見て、動かなくなったはずの体に気力が巡る。
これがベネッタ・ニードロスが出来る本当の最後の一手。
「ボク……も……」
出来るという確信がベネッタの体を動かす。
思考を止めない。動くのをやめない。折れない。
エルミラに言われた通り、思考を止めずに辿り着いた最後の希望がベネッタを蘇らせる。
「でき……る……」
大事なのはイメージですよ。
ミスティの透き通った声がヒントをくれる。
ずっと傷だらけになったあの体を治してきた自分だからこそ、やり方がわかる。
内部から破裂する魔力の奔流を自分の中で逆算して魔力の動きを思い描く。
自分達を守り続けていた大切な友人がやり続けてきた偉業を。
「ボクも……!」
ベネッタにはいるかい? 勝利を思い描くような誰かが。
ルクスの言葉を思い出して、ベネッタは小さく笑みを浮かべた。
やっぱり思い出すのはあの背中だったから。
「…………」
だが……これをやるという事は、再びあの痛みを味合わなければいけないという事。
使うのは血統魔法。先程味わった拷問のような痛みが恐怖と変わる。じくじくと痛む目が本能となって警告しているようだった。
直接流し込まれるアポピスの呪法に加えて、"星の魔力運用"による体の負担。
これからやる事は、地獄のような恐怖と逃げ出したくなるような激痛の中に、自分を無防備に投げ出すのと同じ。
言ってしまえば自殺。業火の中にあるかすかな希望に縋る愚者の歩み。
「こわい……なぁ……こわいけど……」
けれど、少女に躊躇いは無く。
胸の中にある恐れは消えなくとも、その選択を変えようとはしなかった。
「いたい……いたいよ……!」
目を閉じて瞼に浮かぶ記憶の中の憧れから、少女は貰う。
あの人は逃げなかった。あの人は走り続けている。
自分もあんな風になりたいと願った。
なら、答えは決まっている。
「みんなと……一緒にいたい……! いたい……から……!」
恐怖を抱いたまま、少女はその身を地獄に投げ入れる。
ここで恐怖から逃げ、アルムの死を見たのなら……ベネッタ・ニードロスは自分を許せない。
立ち向かい続けたみんなに、もう一生追い付けない。
だから――少女は身を焼かれながら走り出した。
「"充填……開始"」
終わってない。終わらせない。
正真正銘の最後の一手。アルムの歩んだ道をベネッタはなぞり始める。
いつまで経っても抱く恐怖と不安が消えることは無い。
それでも、後悔はきっと無い。




