607.翡翠色のエフティヒア5
ボクは卑怯な人間だ。
どこまでも平凡で高潔とは程遠い、小狡い貴族。
凄いみんなが周りにいて、一緒にいる資格も無いのに一緒にいて……一緒にいるうちに、自分が何かやり遂げたと勘違いしてしまったただの子供。
それがベネッタ・ニードロスという人間だった。
殺伐とした学院の中、ぴりぴりと張り詰めた空気の中で楽しそうに話すクラスメイト。
家同士の繋がりを作るためにと探り合いをする中で、その四人は自分を見せながら学院生活を送っていた。
遠くから見るアルムくん達は入学してまだ間もないのに、仮面を被った探り合いとは無縁の関係を築いていた。
……いいなあ、とボクは遠めに見て羨んでいた。
その光景が眩しかった。ボクには友達がいなかったから余計にそう見えた。
ニードロス家の評判もあるにはあったけど、治癒魔導士になりたいと部屋に閉じこもって勉強していたせいか、同年代の人と話す機会がほとんど無かったから。
そうやって羨む日々が続くと、アルムくんが怪我をして登校してきた。
痛がるアルムくん。心配そうにするミスティ達。
ボクはそんな四人の様子を見て――心配するよりも先に、喜んだ。
初めて、ボクは人の怪我を喜んでいた。
怪我をして苦しそうな領民の人を見て治癒魔導士を目指したはずなのに。
自分が臆病で話しかけられない事を言い訳にして、みんなの輪の中に入るきっかけになると。
気付いたら、その怪我を理由に四人に話しかけていた。
アルムくん達が学院長室に呼ばれた後に……そんな自分の薄汚さに気付いた。
自分でも知らなかった自分という人間の汚い姿。
人の怪我を喜べる卑怯で、薄汚い欲望塗れの自分。
そんな自分を恥じる事も無く、四人からの誘いを受けて一緒にいる事を良しとしてしまう恥知らず。
四人が作る輪の中がひだまりのように温かくて、離れる事もできなくなった臆病者。
そんなボクには、四人といる時間があまりに心地よすぎた。
みんなと一緒にいるだけで自分もそんな善い人間でいれる気がした。
自分が卑怯な人間だと打ち明けられなかった。
打ち明けて嫌われたら。
この場所から追い出されたら。
だから、せめて贖罪と恩返しだけでもしようとした。
エルミラに言われて、ベラルタの迷宮『シャーフの怪奇通路』に入ったのも、その一心だった。
ボクが【原初の巨神】の核を壊して止められたなら、こんな素敵な人達と釣り合える人間になれるんじゃないかって。
けれど、無駄だった。
核を破壊しても【原初の巨神】は止まらなかった。
――やっぱり、ボクみたいな凡人には何もできないんだ。
そう思った矢先に、ボクは見た。
城壁の上に堂々と立つ、生涯忘れない背中を。
絶望的な大きさを持つ巨人。地属性創始者の遺産【原初の巨神】。
そんな伝説と対峙する一人の人間。
祈ることしかできなかったボクが見た、嘘みたいな光景があった。
アルムくんならと期待した。
あの人なら何かを起こしてくれるんじゃないかと期待した。
けれどアルムくんが放った一撃は弾かれて、この巨人には何も通じないんだって改めて痛感させられるだけだった。
ああ、やっぱり駄目なんだ。無駄なんだ。
圧倒的な力の前ではボク達は等しく無力なんだって。
ボク達は絵本の中の主人公なんかじゃなくて、たまたま事情を知って居合わせただけの誰か以上にはなれない。
祈って待っていたのはそんな当たり前の現実だった。
祈るのをやめて逃げようと思った。
一緒に逃げて、仕方ないよ、って……出来る限りの事はやったよって言い合えたらそれだけでいいんだと。
でも――あの人は逃げなかった。
ボクには訳がわからなかった。
……なんで?
なんで?
だって、通用しなかった。ルクスくんに勝った凄い魔法も【原初の巨神】には届かなかった。
なら逃げるべきだよ。
だって……だって仕方ない。
あんな凄すぎるものを倒せなくなって誰も責めないよ。
一目散に逃げて、仕方ないって……それでいいはずだもん。
なんで?
なんで逃げないの?
アルムくんは何で、逃げようとしないの?
答えは簡単だった。
次の魔法で【原初の巨神】を破壊して、ボクでも理由がわかってしまった。
アルムくんはただ自分を信じていた。
生まれも才能も関係ない。
誰よりも信じていた。自分に限界なんて無いんだって。
自分が歩んできた道と自分の憧れを信じる事が出来たから、あの場所に立ち続ける事ができたんだって。
――ボクも、あんな風になりたい。
巨人を倒せるような強い人にじゃなくて、自分を信じられる人になりたい。
自分がやるべきだと思った事から、逃げない人になりたい。
卑怯で。
薄汚くて。
自分勝手な。
そんな、ちっぽけな人間でも……できるだろうか?
あの人と同じ場所に走っていけるだろうか?
あの人と同じ場所で、胸を張って隣に立てる日を夢見てしまった。
そうなって初めて、全部を打ち明けて謝る覚悟が出来ると思った。
あの日の過ちと向き合って、みんなに最低な人間だと思われて、友達じゃなくなっても……それでも。
――それでも、意味があったんだって。
嫌われて二度と隣に立つ事が出来なくなってもせめて……未来の自分の在り方にみんなの背中を見る事くらいは許して貰えるような気がして。
「ああああああああああ!!」
「無駄だよ……無駄なんだ、凡人よ」
でも、走っても走っても見えなかった。
いや、ボクはただ走っていたつもりなだけだった。
南部でエルミラが泣いて打ち明けてくれた日に、その事を痛感した。
エルミラは泣いていた。
自分は何で友達を助けてあげられないんだって。
何で自分じゃ駄目なんだって。
それを聞いて、気付いてしまった。
ミノタウロスの時も、大嶽丸の時もボクは逃げなかった。あの日のアルムくんのように、お母様に夢を応援された時の約束を胸に戦えたと思っていた。
エルミラの苦悩を聞いて……逃げない事が自分の限界だと決めてしまっている自分に気付いてしまった。
ボクは、逃げないことしかできなかっただけだった。
エルミラはその先に至れない自分に泣いていたのに。
みんなの背中が見えなくて当然だ。だってボクは、先に進むために休むのでもなく……ただ停滞していただけなんだから。
「あぎ……! が……ああああああ!!」
「右手も潰れた! 次は足か!? それとも顔を潰すか!?」
「させるがあああああ!!」
ボクは一度でも、本気でこの怪物達に勝とうとした事があっただろうか。
そんな時は無かった。
あの時もあの時も……ボクは一度だって勝つために戦わなかった!
駆けつけてくれたみんなに全部投げて、みんなが傷ついてそれを安全な場所で治すだけ。
ボクはいつだって……みんなを助ける事ができてない。
憧れたのは自分の為に突き進むみんななのに。ボクはその憧れを追いかける事すらできていない。
目を閉じて、道の先を見てもアルムくん達の背中を見えないまま。
みんなはずっとずっと先にいる。
ボクだけが平凡を言い訳に、立ち止まっているから……みんなのようにアルムくんの背中を見ることすらできていなかった。
卑怯な人間にはただの道しか映らなくて、息を切らして周りを見ても誰もいない。
「その怪我で何をする? 何を成し得る!? ベネッタ・ニードロス!!」
「あなだを……どめる!!」
「不可能を口にするか! 魔法のように唱えてもその現実は叶わない!!」
魔法使いに相応しくないボクには、背中を目指す権利すら無いのかもしれない。
「【浄化】!」
「『守護の加護』!!」
でも。
「無駄だ! 普通の防御魔法などアポピス様の御力の前では無力に過ぎない!」
それでも今から……今からでも追いかける事が出来るのなら――!
「勝つ……! 絶対に……!!」
「言うだけならばいくらでも言うがいい。その死人のような自分の姿を鏡で見てからもう一度吐けるのならな」
わかってる。
目の前のこの怪物を倒す。それがどれだけの偉業なのか。
ルクスくんが苦しんで。
エルミラが泣きじゃくって。
ミスティが怯え続けた。
この道がどれほど険しいか……!
ボクみたいな凡人には歩く事すら無謀な道なのかもしれない。
もう、両手は潰れて動かない。
足は裂かれそうなくらい痛くて。
頭からは血が流れて、内臓は傷ついてる。
血がぬるりと全身の肌に纏わりついて気持ちが悪い。
たったの十分の戦いが、永遠のように苦しくても。
……それでも!
「我の理想に立ちはだかる者よ。先に逝くがいい。転生せし世界を見る前に」
「そんな世界……来させない!!」
勝つ!
勝って自分自身に証明する!
ボクもみんなと……アルムくんと同じ場所に行けるんだって!!
「最後だベネッタ・ニードロス。息があれば……少しは我の理想を見れるかもしれないが」
「最後じゃないアブデラ王! ボクは明日もみんなと一緒に!!」
みんなと一緒にいたい!
そんな明日を奪おうとする目の前のこの男が許せない!
ボクが焦がれるほど憧れた――あの背中を奪おうとする、この男だけは!!
「【太陽よ冥府に没せよ】」
「『あの日見た白亜』!!」
ボクが使える一番の魔法。
ボクが出来る最大限。
霞む視界の中でも、みんなの背中が見えることは無かった。




