588.流れ星のように5
心地よい朝靄。さやさやと風で歌う木々の音色。それに呼応して鳴く小鳥の囀り。なだらかな山の肌を器用に駆ける兎や鹿。
この山の朝の空気を眺めるのが、番人としてここに居る私の日課でもありました。
「おはよう! 相変わらず山は寒いな!」
「………………」
そんな日課に異物が一つ。
あまりにも変な旅人――オイディプスとの出会いから数日が経った頃。
数日観察して、この男は本気で納得する答えが考え付くまで居る気なのだとわかりました……。
何でこんな事にと嘆いていましたが、もうこの時点では遅いのです。
時間制限が無いなどと言ってしまったのは自分なのですから。
「兎食うかい?」
「…………食べません」
「おいおい、ここ数日何も食っていないじゃないか。番人を続ける前に倒れてしまうぞ?」
オイディプスは私を気遣うように先程捉えた兎肉の焼き串を差し出してきました。
知識はあるようで、香りづけの野草によって臭みはほとんど消えていました。
ですが、私はそんな兎肉などよりも衝撃を受けていました。
この私を? 人間が? 心配する?
あまりにも不敬。あまりにも身の程知らず。
神獣を心配する人間がどこにいるのかと。
「人間の基準で考えないで結構です……。私はこのピキオンの山に集う魔力で生きていますから食事の必要はありません……。自然の営みはただ見ているだけです」
「という事は、俺が兎を狩るのはまずかったか?」
「……何を思い上がっているのかは知りませんが、人間もまた自然の一部。あなたという人間の個体が兎の一個体を捕食したに過ぎません……。種を絶滅させようというのならそれは罪ですが……空腹とは耐え難いもの。生きるために捕食する行為は罪にはなりませんし、自然なことです……。私は少なくとも、止めることはしません」
「がはははは!」
「何故笑うのです……?」
「いや、ようやく自分の事を喋ったと思ってな。そうかそうか、あんたは人間を食わなきゃいけないわけじゃないのか」
オイディプスは私を見上げながら、心の底から楽しんでいるように笑いました。
言われて、自分が自然と自分のことをこの男に話してしまっている事に気付いたのです。
ここ数日、てきとうな相槌を打っていただけだったのが……何を思ったのか会話をしてしまっていた事実に驚いて目を見開いていました。
何故話した?
自分の性能に再び疑いを持ちました。魔除けは機能している。魔術や呪術の類ではありません。という事は、私は自発的に話してしまったのでしょうか。
「やっぱり食わんのか?」
「……いりませんよ」
「うまいのになあ」
オイディプスは食事をすると謎掛けについて考えて、しばらくすると昼寝だと言って寝始めました。
ここ数日と同じパターンでしたが、何故か今日は嬉しそうにしながら寝入ったのです。
……わけが分かりませんでした。
「……何故、"腫れた足"などという名前に?」
さらに数日経って、私はオイディプスと多少の会話をするようになりました。
長く居続けるこの人間を山の一部と考え、自然と交流するのと同じように扱い始めたのです。
断じて、この男が気に入ったとかではありません。自然との対話は神獣にとって当たり前なことです。岩の上で景色を眺めているのですから、この男もまた自然の一部という事に過ぎません。
オイディプスはおもむろに牛革の靴を脱ぎ、私に足を見せてきました。
「あら……」
「そのまんまだ。足が腫れてるだろう?」
「本当にそのままなのですね……。人間にとっては痛いように見えますが……治さないのですか……?」
「おかしな事を言う。この足を治すというのは自分の名の由来を消すことと同義だぞ? しかも両親が付けてくれた俺だけのための名だ。治すことはすなわち自分の原点を殺すことになる」
確かに、と納得した。
自分の名の由来を消せなどというのは存在の否定だろう。
名前とはとても大事なこと。自分そのものなのだから。
「失礼しました……」
「がははは! いいいい! 俺と知り合った者は大体そう言うからもう慣れた!」
「ですが、そんなに名前を大事になさっているのに私の名前は間違えるのですね……」
「何言ってる? スピンクスだろう?」
「ですから……スフィンクスです……」
合ってるじゃないか、とこちらを見上げながら首を傾げられました。
納得いきません。何故私が、何言っているんだこいつ、みたいな目で見られなければいけないのでしょうか。
やはり相容れないと思いながらも日々を過ごしました。
ですが、慣れというのは不思議なもので……いつしか、この男が山頂にいるのが私にとっても当たり前になっていったのです。
「スピンクスは何故ここにいるのだ? ここで生まれたのか?」
「そんなわけないでしょう……。故郷は別にあります。ここで番人をやっているのは神々の命によるものです……」
「ふむ、故郷は恋しくないのか?」
「いえ特には……帰ろうと思えば帰れますし……。それに私は人間とは時間の感覚が違いますから……。数十年くらいでは恋しさも懐かしさも感じません。特定の誰かと関わっていたわけでもありませんからね……」
「そうか……神獣というのは体だけではなくスケールもでかいな」
言いながら、オイディプスは私の上半身を見てきました。
男というのは乳房があれば怪物のものでもいいのでしょうか。いや、単純に人間が誘惑に弱いだけでしょう……。ここに来てすでに十数日。このピキオンの山は色欲とはかけ離れた場所でもありますから。
「そういうあなたは何故ここに……?」
そう聞くと、オイディプスは珍しく顔を曇らせました。
望郷、とでも言うのでしょうか。緑色の瞳はどこか遠い所を見ていて、軽い話題のつもりで投げかけた質問で、この男のこんな一面を見るとは思っていませんでした。
「……神からの神託を受けてしまってな。故郷に近寄れば両親を殺してしまう、と」
「それは物騒ですね……」
「ああ、だからあんたが羨ましい。俺は帰りたいと思っても故郷には帰れぬ。俺を育ててくれた両親から離れねばならぬ。道中で変な輩に襲われたり、馬を殺されたりと散々だったが……それでも離れなければならぬのだ」
「帰ってもよいのでは、と言いたいところですが……神託ですからね……」
神と近しいこの時代では神託というのは絶対。
どうにもならないという事をわかっているのかオイディプスも頷いた。
「故郷に留まり万が一この手で両親を殺せば、もうそこは故郷とは呼べない。故郷というのは、大切な記憶と大切な誰かがそこに在るから故郷なのだ。そのどちらもを自分で壊したのなら、故郷と呼ぶ権利など消え失せよう」
「…………」
「あくまで、私の考えだがな。すまない、少し暗い話になったな」
「世界とは明るくもなれば暗くもなるもの……。謝罪は不要です。ただの摂理に過ぎませんから」
「はー……なるほど、やはりスケールがでかいなあんた……」
ただ生まれた地というのではなくそういう考え方もあるのかと思った。
私にはあるだろうか、大切な記憶が。大切な誰かが。
私は生まれた時から守護者としての役割を果たすだけで、特に故郷が特別だと思ったことはない。印象に残った王や神官はいるが、それが大切な誰かかと言われると疑問が残る。
――――だとしたら、私の故郷は一体どこなのだろう……?
「……あなたは意外な趣味をお持ちですね……?」
「意外というな意外と。星を眺めるのは文化人として当然だろうに」
「ぶんか……じん……」
「あんたが俺をどう見ているかはよくわかった。いや、待てい! ただの旅人だろうと星の動きを見て道を決めるだろうが!」
「冗談です……」
「あんたが冗談を言うと真顔でわからんの……」
オイディプスが来てから一月経った頃。
彼はここに来てから毎夜毎夜、夜空を眺めていた。
山の空気は人間が過ごす町や村より澄んでおり、人間でも星がよく見える。
いつの間にか、私も同じように夜空を見上げるようになった。
見飽きたと思った星空だったが、久しぶりに見上げると懐かしく、やはり美しかった。
「お!」
「あら……流れ星ですね……」
砂漠の地に生きていた私には大して珍しくないものでしたが、ふと横を見ると……流れ星を見るオイディプスの瞳はきらきらと輝いていました。
それこそ、瞬く星のように。
「スピンクス知っておるか? 流れ星というのは、この星に来るために流れているらしい」
「そんな知識をどこで……? 文化人だからですか……?」
「実は知り合いの天文学者から聞いた。大々的に言おうもんなら界隈から追放されるかもしれんとか言って、関係ない俺にこっそりとな」
そう話すオイディプスは私が見ている中で、最も生き生きとした表情を見せていた。
「胸が熱くならんか? 生まれ故郷を捨て、この星に来るためにこの真っ暗な宙を流れてくるその気概……。星に生まれてただ夜空に浮かぶのではなく、この星に向かう道を選んだのだ……俺が見習うべき先人よ」
「流れ星が先人ですか……おかしな事を言うのですね……」
「おかしいことなどない。神託を恐れて故郷を出た俺にとっては何よりも眩しい星だ。俺はあの流れ星のように、自分で決めた道へ進めるのか、今でも不安に思っている。
与えられた役割をただこなすだけでは、告げられた神託に従っているだけでは生きるとは言えないのだ。家族や夢、友に愛、自分が何のために今を生きているのかを自覚して明日が来るのを願うこと……その連続が人生という死ぬまで続く道になるのだから」
「何のために……よく……わかりませんね……」
私の与えられた役割。故郷の守護者。冥界を守る者。
それが私の生まれた意味。自分が何のために生きているかと言われると……その役割のためだ。
だが、与えられた役割をこなすだけでは生きるとは言えないとオイディプスは言う。
「簡単な事だとも。つまりは自分にとっての幸福を見つけられるかどうかというだけの話だ。大袈裟なことではない。家族を養うために、友情を育むために、恋人を愛するために、天文学者になるために、誰かを助けるために……そんな些細なことだ。だからこそ見つけられていないだけで、きっと気付けば隣にある……そんなものなのだろう」
理解できずに考えていた私の隣で、オイディプスは寝転がりながらそう言った。
であれば、私もまだ見つけれていないだけで……気付いていないだけなのだろうか。
自分が何のために生きているのか、その"答え"を。
「なあ、あの流れ星はこの星に辿り着けたと思うか?」
「ええ……きっと……。私の故郷の砂漠には……よく星が落ちてきますから……」
「がははは! それはいい事を聞いた! 俺も旅を続ければきっと、どこかに辿り着けるということだ!」
「うふふ……謎が解ければどうぞご自由に……」
「問題はそこなんだよなあ……」
いつも読んでくださってありがとうございます。
誤字報告助かってます……!




