574.ダルドア領の戦い5 -顕現-
「げほっ……! ごほっ……!」
爆発は収まって、周囲には砂塵が舞っていた。
石片を押しのけて、瓦礫の下からエルミラが這い出てくる。
周囲はもう原型を保っていない。壁だったのか屋根だったのかもわからない瓦礫の山しか見えず、所々で燃えている小さな火は点々としている。
ここが大広場かどうかも、もうわからなくなっていた。
(落ち着け……! 落ち着け私……!)
全ての灰を使った爆発でジュヌーンの隕石の衝撃を逸らし、エルミラは何とか生き残っていた。
だがあまりに速くなった心臓の鼓動と荒くなり始めた呼吸が、自分が今平静でいられないことを示している。
たったの一手で戦況をひっくり返された。
それだけではない。血統魔法は確かに魔法使いの切り札だが……その一手で互いの血統魔法の"現実への影響力"の格差を突き付けられてしまった。
結果としてジュヌーンの血統魔法は戦況をひっくり返し、エルミラの血統魔法は防御で精一杯。
血統魔法はその使い方次第で戦況を覆す。ジュヌーンはエルミラが手応えを感じた絶好のタイミングで、その気勢を削ぐかのように見事血統魔法を切り札として唱えてみせた。
(光属性創始者が"天体の観測"を不可能にしてる……! 隕石には干渉できないの……だからあれは本物の隕石なんかじゃない……隕石を模したただの魔法なの……! 落ち着け……落ち着きなさい私……!)
震え始める両手をエルミラはゆっくりと握りながら深呼吸をする。
さっき空を見上げたその瞬間、エルミラの脳裏には死がよぎってしまった。
空から降り注ぐジュヌーンの血統魔法が、エルミラが手にした自信と戦意を一瞬で削いでしまった。
恐ろしいのはジュヌーンの魔法使いとしての経験値か。
あまりに完璧すぎるタイミングにして、絶望を感じさせる魔法の規模。
マリツィアは言っていた。マリツィア達王家直属についている順位は多人数に対する影響力を指すと。
なるほど確かに、町一つ程度であればこの血統魔法をちらつかせるだけで陥落させることができるだろう。
カエシウス家の血統魔法にも言えることだが、天災を前に人数の利など意味をなさない。
「まずい……。爆発で『火鳥の飛翔』も……!」
先程唱えた灰の感知魔法も爆風によって吹き飛ばされており、ジュヌーンの位置は全くわからない。
このままではまずい、とエルミラは思考を加速させる。
顔についた汚れを拭って、噴き出た汗を熱のせいにして耳元で聞こえてきているのではないかと思うほどに近い心臓の鼓動を落ち着かせようとする。
血統魔法はその"現実への影響力"で使い手自身を傷つけることはない。
つまりジュヌーンは大広場を破壊し尽くした無数の爆発の中であっても無傷。
体と精神に無理矢理恐怖を刻まれてしまった今、先程と同じレベルで魔法を唱えられるかがエルミラ本人にもわからない。
せめてただの魔法戦になれば立て直せる。そう思いながらエルミラは周囲を見渡す。
今最も恐れる展開にさえならなければ――!
「ほっほっほ……。貴様なら生き残ると思っておったよ」
「!!」
ジュヌーンの声がどこからか聞こえてくる。
爆発の音で聴覚がまだ戻っておらず、エルミラには内容が聞き取れない。
だがジュヌーンがどこにいるのかだけはわかった。
エルミラは身構えて、ジュヌーンの攻撃に備える。
幸い、血統魔法で防御したおかげで強化は消えていない。
擦り傷は多いものの、周囲の被害を見れば軽傷。まだ十分に戦える。
「じゃが……恐怖に染まったであろう? 贅沢にも、私の血統魔法を前座として使われた喜び……その身にとくと刻むがいい」
だが、敵はジュヌーン・ダルドア。ダブラマの第二位。
この機を逃すほど愚かではない。
砂塵の奥から、悪意に満ちた笑みが見える。
「私だけ楽しむのは、こやつに失礼じゃからのう……。さあ、お膳立てをしてやったんじゃ。楽しんでくるとよい」
エルミラが今最も避けたい展開を。最悪の一手を見逃さない。
張り詰めていたエルミラの心を、恐怖の欠片が入り込んだこの瞬間を。
「【異界伝承】」
エルミラの背筋に悪寒が走る。
何を言ったのかは聞こえない。
どこからの声かもわからない。
しかし、それでもわかる。
爆炎で熱せられているはずの空気が一瞬で変化した。
異界より現れし邪悪な存在とこの場を繋げる文言が今、この場を掌握する。
「【魂躯祟食骸土蜘蛛】」
声は歴史ではなく、怨念が積み重なる呪いの音。
砂塵の中に、異形のシルエットが映し出される。
細くそれでいて存在感のある足が一つ、二つ、三つ四つ五つ六つ七つ……八つ。
二個の節を持つ八本足が瓦礫を穿ち、この場に降り立つのが見えた。
この場を支配する怪物、その誕生を祝福するかのように砂塵が晴れていく。
現れたのは五メートルを超す虫の化け物。
八本の足は細くとも脆いわけではなくしなやかに動き、体躯には禍々しい斑模様。
獰猛さを感じさせる獣と昆虫が融合したかのような頭部には八つの眼がぎょろちと動く。
口元には獲物を食い荒らす鎌状の鋏角――顎や牙にあたるであろう部分がけたたましい音を鳴らしていた。
かち、かち、かちかちかちかちかち。
怪物にとっての喜悦を乗せて、狂った音が響く。
砂塵の奥から現れたのは蜘蛛の形をした怪物。
巣を張った場所ではなく、この怪物がいる場所こそが巣になるのだというかのように、ジュヌーンに巣食っていた怪物はこの場に顕現した。
『悪くない。ふむ、悪くない気分だ』
「蜘蛛の、化け物――!」
顕現と同時に一体化を済ませたのか、ジュヌーンの姿は周囲にない。
エルミラと対峙するのは人間から怪物へ。
体躯の大きさは他の魔法生命よりましに見えるが、しなやかに動く長い足がそれ以上の迫力を感じさせる。
落ち着いたような声には鬼胎属性の魔力が乗っており、この場を重く支配し始めた。
『やっと……。やっとよな……。長かった。どれだけの思いで宿主の中にいたか。どれだけ焦らされたかわかるまい』
異界より渡りしその正体は"土蜘蛛"と呼ばれる妖怪。
酒呑童子と同じく源頼光に討たれた怨念渦巻く怪異そのもの。
曰く……一九〇〇を超える人間の生首を積み上げ、その死を纏った人に仇なす怪物である。
『羨ましかったぞ宿主よ……。この土蜘蛛を宿し、女人を直接貪っていたその光景……。ただの味としてしか伝わらぬ肉。感触無き血潮。目の前で消失していく命の灯を感じられない拷問にも等しい日々を』
落ち着いた声色で語るおぞましき嗜好。
土蜘蛛にとっての人喰いは"現実への影響力"を取り戻す手段などではない。
虫を、鳥を、家畜を、野狐を食らってもいい中、自分の食べるべきものは人だけと定めて人だけを食してきた。
最も心地よい悲鳴を上げる生き物を、彼は生前に主食として選んだ。
魔法生命としてではなく、ただ土蜘蛛として。
他の魔法生命のように手段としてではなく、食欲のままに人間を貪り喰らう魔法生命――!
『だがそれでもあえて礼を言おう宿主よ……目覚めて最初の食事が女人であり武士でもある少女とは。ああ、土蜘蛛は運がよい。その柔肌にこの牙を突き立てられるとは』
「……!? こいつ……!?」
『持久戦が狙いだったか……記念すべき最初の食事……。付き合ってやりたいところだが、空腹を前にしてこれ以上我慢しろというのは酷だろう。そうは思わないか女』
吐き気がするような鬼胎属性の魔力を纏っていながら、戦意が感じられなかった。
ただ喜びを声にする土蜘蛛相手に身構えるエルミラ。
しかし、その瞬間――空気を切り裂く音が聞こえてきた。
「あ……! ぎ、ひっ――!」
八本の内一本の足が鞭の如く振るわれ、側面からエルミラの脇腹を捉える。
視界が揺れ、肌に叩きつけられた衝撃で呼吸が一瞬止まった。
意識こそ飛ばなかったが、骨は軋み肉を抉られたと錯覚するような激痛にエルミラは顔を歪ませる。
『心地よい音だ。さぞ美味だろう。さぞうまかろう。やっと直接……久しぶりの肉を食ろうことができる!』
戦意が感じられないのは当たり前。
人がパンに戦意を抱かないように、土蜘蛛にとってこれは戦闘ではなくただの食事。
かちかちかちかち。
耳障りな演奏は土蜘蛛の鳴らす歓喜の音。
顕現して最初に目にした極上の餌を前にして、土蜘蛛は本能のままよだれを垂らす。
どこから喰らおうかと愉悦して――久しぶりの主食を八つある眼で捉えた。
『安心するがよい。体はあまさず喰らってやるが首だけは飾ってやる。……喰らった記憶を思い出してこの土蜘蛛が絶頂するための都合のいい玩具としての』
「随分、優しいじゃない……! こっちは、あんたみたいな気持ち悪い怪物……! この世界に一片たりとも残す気ないわ!!」
エルミラは口から血を吐き捨てて、改めて怪物と対峙する。
恐怖している暇はない。自身の役目を果たすべく、エルミラは震える膝を殴りつけて――決着までの道筋を辿るべく前を見据えた。




