556.歩くのは途中まで
「スピンクス」
「あらグリフォン……どうかされました?」
雲のような、白い湯気の漂う空間。
霞んだ視界の中に広がるのは、豪華な湯殿だった。
一人で使うには贅沢すぎる広さであり、石像の口から落ちる湯の滝は反響しながらシンプルかつ巨大な円形の浴槽に落ちていく。
王城らしい規模の湯殿だが、ここだけには留まらない。
隣接する部屋もまた違った浴室であり、そこにはダブラマの伝統的な蒸し風呂も用意されていて専用のマッサージを行う使用人も待機している。浴室の前を通れば、ほんのりと蒸気に乗せるミントの香りが漂い清涼感に満たされるであろう。
そんな贅沢すぎる二択の内の一つで一人湯に浸かる女性……魔法生命スピンクスは声に振り向いた。
濡れた紺色の髪は一層艶やかで、張りのある肌は水を弾いている。ヴェールを通して見ぬその素顔は人とは思えない神秘的な魅力があった。
そして湯に入るには邪魔であろう衣服を着たままスピンクスを呼び掛けたのは同じく魔法生命であるグリフォン。苛烈な雰囲気を持つその様子から風呂に入りにきたわけではないのは明白であった。
「"石"の行方を知っているか?」
雑談すらなく、グリフォンは用件だけを伝える。
その瞳に浮かぶのは疑い半分信頼半分といったところだ。
「それは……謎掛けですか? 答えられなかったら、殺されますか? 答えてしまったら、自死しますか?」
「どちらでもない。全く……問いかけるといつもそれだ。誤魔化しているわけではないのはわかっている。早く答えろ」
グリフォンは呆れたようにもう一度問う。
スピンクスはそんなグリフォンの様子を見て湯から上がった。
白い湯気を切って、スピンクスは湯殿から出る。
「緊急事態……というわけですね……」
「そうだ」
出てきたスピンクスにグリフォンは右手でタオルを投げる。
スピンクスが髪を拭いていると、すぐさま配置されている使用人が駆け寄ってスピンクスの体のほうを拭いてゆったりとした服を着させる。
使用人に礼を言うと、スピンクスは白いヴェールを被ってグリフォンとともに廊下へ出た。
「石というのは……? あいにく、私は宝石に興味はありませんが……」
「王都から北部に輸送中だった"妨害用魔石"が破壊された。輸送を知っていたのはネヴァンの魔法使い数人と今回の輸送を指揮していた王都所属の魔法使いディーディ・ガデミーニと北部で受け取り予定だったジュヌーンとその近衛兵数名……心当たりはあるか?」
「いえ、そもそも……妨害用魔石の所在を私は知りませんから……」
「ああ、そうだ……貴様を完全に信頼しているわけではないからな。だが……貴様の能力なら知ることも可能だろう」
「ああ、私がアルム達に情報を流したと疑いなのですね……ですが、本当に知りませんよ……。私は確かに"答え"を見れますが、見ようとしなければ見れません……あなたが私の入浴を邪魔することを知らなかったように……」
横目にスピンクスを見るグリフォンの鋭い瞳はスピンクスの真意を測りかねているようだった。
「警戒対象の動きはどうだったのですか……?」
「マリツィアとルトゥーラはリオネッタ領から動いていない。ラティファからの報告だから確実だ。それに……奴らが反乱分子だった場合、このタイミングで動くのはリスクが大きいだろう」
「では……アルム達の仕業では……? まだ彼等の所在はつかめていないのでしょう?」
「アルムの療養を無視しての襲撃か?」
「違和感がありますね……。グリフォンが最後に見た通りならヴァン・アルベールとルクス・オルリックが一緒のはずですから……戦力的にはおかしくありませんが……」
だがそれは戦力を理解している自分達の視点だからこそ言えること。
輸送中の魔法使いの実力がわからないアルム達が仕掛けるには賭けにも程がある。
魔法生命に対しての戦力であるルクスをこんなタイミングで戦場に立たせるだろうか?
それに……逃げ回っているはずの彼等が妨害用魔石の輸送をどうやって知ったかもわからない。
答えを見ずに言うならば、アルム達がやるには輸送中にばったり遭遇したという状況以外はまず不可能だろう。
「スピンクス」
「はい?」
「貴様の仕業ではないのだな?」
「ええ。あの石は貴重でしょうが……あれがあろうとなかろうと私の目的とは関係ありませんから……。私の目的はアルムのみです……その点に関しては信じて頂いていいですよ……。アブデラ王もそれを承知で私を味方に引き入れているわけですし……そうでしょう?」
白いヴェールの下にあるスピンクスの笑顔。笑顔の裏には決して話すことのない目的……魔法生命としての生の到達点が隠れている。
本当の事を言っているが、目的だけは話す気の無い拒絶にも似た答えにグリフォンは追及を諦めるしかなかった。
「……貴様は言葉を隠す時はあるが嘘は言わぬからな、信じよう」
実際、ここ数日スピンクスの動きに異変は無かった。
少なくともスピンクスが使いを送ったり、書簡を使っていないのは見張りの報告から間違いない。
「信じないのであれば、"答え"を見ましょうか……?」
「やめておく。ここで答えを見たら、それに応じた情報をアルム達に渡しにいくのだろう?」
「はい、流石わかっておりますねグリフォン」
「堂々と裏切りを肯定するのか……」
「元より私達は裏切りによって常世ノ国を滅ぼした生命ですよ……? 目的のためなら手段を選ばないのはあなたも同じことでしょう……?」
くすり、とヴェールの下で笑うスピンクスにグリフォンは舌打ちする。
この苛立ちが恨めしい。廊下で礼する使用人の首をねじ切り、食い荒らしたくなる衝動に駆られる。
同郷としてスピンクスに味方になってほしいという、情けない願望から来るものだと自覚しているがゆえに。
腹が立つ。
第二の生で再び出会うことのできた同胞が、自分と同じ方向を見ていないことに腹が立つ。
古代王国が健在だった時――仕える神々がいた頃はこうではなかった。
神々という象徴を失い、役割は失せて自分達は個となった。
生命としての目的を持つとはこういうことなのかと実感する。
古代王国の名を再びこの異界へ。
かつての敵に魂を売ってでも実現したいかの故郷の名が……もう隣のスピンクスにとっては一番の目的ではなくなっていることに、グリフォンはずっと苛立っている。
「あなたのことは好きですよグリフォン……。ですが、私達はもう同じ方向を向いてはいないのです……途中まで一緒に歩けるというだけのこと……。わかってくださいね……?」
諭すようなスピンクスの声にすら憤りしかわかない。
廊下を歩く二人の間にしばし沈黙が訪れる。
窓から差し込む光が二人を平等に照らす。
日の光を浴びて、グリフォンは窓の外に目をやるが……日の光で大地を照らす天体をその目で見ることはできない。
スピンクスは窓の外を見ようともしていなかった。
「破壊した者の外見などはわかっていないのですか……? それだけで絞れると思いますが……?」
「あ、ああ……それが目撃者からの証言によれば、金髪の少女と茶髪の少女の二人組だったらしい」
「金髪の少女……少年ではなく?」
目撃者という確実な情報のはずが、余計に混乱する情報だった。
要注意人物であるミスティとエルミラ、そしてマリツィアの三人のいずれの髪色とも合致しない。
金髪はルクスがいるが、少年ではない。あのガタイと身長で少女と間違われはしないだろう。
「もしや……ダブラマの貴族の誰かでしょうか……?」
「可能性もある。だが……調査に人員を割くわけにもいかないタイミングだ。調査のためにとこの身がわざわざ現地に赴き、王都を不在にしてはそれこそ愚の愚……明らかに表向きは即位記念ということにしてある儀式の日に何かがあると理解しての襲撃だ」
「そうですね……後十日も無いこの時期のトラブル……。見事なタイミングです……私が関与していると思われても仕方ありませんね……」
ガザスによる第三勢力か。それとも警戒していないまだ見ぬ反乱分子か。
一体誰だ?
王都セルダールに謎を突き立てた二人組にアブデラ王側が辿り着くことは無かった。
ダブラマ国内に設置されている妨害用魔石は後二つ。
――アポピスの瞳が開くまで後九日。




