540.ヤムシード家5
「ん……むぐ……」
目覚めて、見ていたのが夢だと気付く。
鮮明に記憶を辿っていたはずなのに、もう思い出すことができなくなっていた。
けれど、きっと、娘のことを思い出していたのだろう。
『そのまま気絶していればよいものを』
「ああ……あなたのおかげで、いい夢が見れましたよ……」
『口の減らぬ人間だ』
ハリルが目覚めて目にしたのは半分赤い視界だった。
赤の正体は血だろう。戦闘の間に目を右目を傷つけたらしい。
いや、思い返して……これは戦闘と呼べるものだっただろうか。
目の前にいる鷲と獅子が融合したような怪物は、正しく災害だった。玄関ホールは貴族の屋敷とは思えないほどに荒れていてモザイク画の床はバターのようにひきさかれ、壁も薄紙のように穴が開いている。
『虫の割にはもったほうだが……流石に終わりだろう』
まず最初に一人が鉤爪で引き裂かれた。
マッサージの得意な使用人ポーラはその手を木の枝のように折られ、一撃でぴくりとも動かなくなった。
次に、二人が獅子の後ろ脚に踏み潰され、そのまま圧死した。
風船が破裂するような音が鳴り、香油に詳しい使用人リルクトさんと髪を結うのが得意だったヨセフさんは苦悶の表情を一瞬浮かべて、胴体を砕かれて事切れた。持っていた包丁を足に刺そうとしていたが、この怪物の皮膚は鎧のような堅さで刃が通らなかった。
ティノラは怪物の鉤爪を剣で二合打ち合って、もう片方の鉤爪で頭から引き裂かれた。
そして最後に執事のパリンストンが翼から放たれた風の刃をまともに受け、壁の向こうまで叩きつけられて……ハリル一人だけが残っていた。
そのハリルも腹は裂けて、頭からは止まらぬ血が流れ続けている。
『この身は魔法生命……英傑と英傑に光を見た者のみが打倒できる伝承そのもの。人間には荷が重い』
玄関ホールに怪物が君臨する。
十メートルほどある体躯は立ち上がるハリルを見つめていた。
鋭い獣の眼はそのままハリルの命を刈り取ってしまう死神の鎌のよう。
気まぐれに、前足の鉤爪でも背の翼でも、巨大な嘴でも……どこを動かしてもハリルを殺せそうなほどの力の差だった。
「ふ、ふふ……娘もこんな怪物と戦ったのですね……」
笑えないな、と内心で思った。
こんな怪物が相手なら、背中を向けて逃げても許されるだろうに。
自分の娘は、こんな怪物と最後の最後まで戦ったのかと。
「不運な巡り合わせというやつですな……ええ。ええ。本当に……ですが、私の役目は終わった……」
アルム達を転移させたのもあって魔力も残り少ない。
いや、たとえ万全であっても勝てるはずがない。
だが……やり遂げた。
この国の希望を匿い、怪物の魔の手から逃がした。
明日すら望めぬ死人がやった行いにしては上等だろう。
それに、未練も無い。
後は死を待つだけだった。妻と娘のいる場所に行けたなら、むしろこれから訪れる死を待ち望んでさえいた。
『……不運、か』
立ち上がるも体はほとんど限界。死が来るのを待つだけとなったハリルだったが……含みのあるグリフォンの声が気になった。
「何か?」
『いや、むしろ真実を知らぬというのは幸運だと思っただけだ』
「どういう……ことです?」
死を待つだけだったハリルに疑問が宿る。
この怪物は一体何を言っているのか?
鋭い獣の瞳はこちらをおちょくって笑おうとする様子はない。
グリフォンは少し間を置いて、
『貴様の娘が北部に行ったのは、本当に偶然だったと思うのか?』
「………………は?」
信じられないような疑問を投げかけてきた。
ハリルは死にかけの目を見開いて、グリフォンを凝視する。
どういうことかと説明を求めるように。
『この身のような魔法生命と協力関係にあるアブデラ王が、本当にメドゥーサ……怪物の侵攻を予見できなかったと思うか?』
やめろ、と心が言う。
自分の中の真実が書き換えられていく。
『本来北部を守るべきだったアブデラ王側のジュヌーンが……本当に偶然王都にいたと思うのか?』
やめろ、と心が叫ぶ。
グリフォンの語る真実が自分の真実と融合して一つの答えを導き出す。
『ああ、確かに貴様の娘がメドゥーサを止めるために北部に行ったのは本人の意思だろう。まさに民を守る英傑。この国が誇るべき魔法使いだ。だが……その状況を整えたのは、一体誰だろうな? その性格をアブデラ王は本当に知らなかったと思うか?』
ハリルの頭の中に娘――シャーリーの姿がよぎった。
蜂蜜色の髪に白い花のような肌。そして光のような笑顔。
……まさか。まさか。
『恐らく、貴様の娘はわかっていただろうな。自分が誘導されていることを』
「……っ……!」
『全てが仕組まれていたわけではないだろう。だが……この状況は意図して作られているとな』
真実を知って、ハリルの体はふるふると怒りで震えた。
決して、決して恐怖からではない。自身の人生を賭けて、これは自国の王――アブデラに向けての怒りだと断言できる。
自分の国の頂点がそこまで腐っているのか。あれが娘の仇だったのか。
どんな気持ちで、どんな気持ちで娘はここから飛び立った――?
――どんな思いで、私の腕を振り払ったんだ。
ハリルは心の中で自問を繰り返す。
嵌められたことを知りながら、その渦中に飛び込みに行く娘の思いがいかほどだったのか――!
「ああ……」
同時に、自分の娘が本物の魔法使いだったと知る。
――君は、それでも迷わずに行ったんだな。
国を守るために。貴族を守るために。民を守るために。
誰かの明日を守るために。
『死に行く貴様への最後の土産だ。誓ってこの身が死に追いやったわけではないが……今はアブデラの協力者。恨むなら存分に恨むがよい。お前の娘が守った国は、もうじき我々の手に落ちる』
グリフォンがその鉤爪をハリルの頭上に振り上げる。
もう話すこともない。この場でのグリフォンの仕事は、この死人をあの世に送ることだけとなった。
鉤爪でその肉体を裂こうと振り下ろして――
「ぬああああああああああああああああああ!!!」
『なに!?』
死にかけとは思えない機敏さでハリルは振り下ろされた鉤爪をかわす。
その最後の一手はこれ以上の抵抗などあるはずがないと考えていたグリフォンの意表を突く。
だがその体で何ができる?
本人は見えぬだろうが、すでにハリルは頭はえぐられ腹や背中もずたずたに裂かれている満身創痍。
この鉤爪をかわしたとして戦況は覆らない。結末はもう決まっている。
振り下ろされた鉤爪は床に突き刺さり、その瞬間ハリルはその鉤爪に飛び乗った。
"パパ"
声が聞こえる。
いくら思い出そうとしても聞こえなかった声が。
その髪色のような甘い声が。
"パパ!"
笑顔が見える。
赤い視界の向こう側に、きらきらと輝く思い出が。
私達を照らす満開の笑顔が。
"パパ! 見て見て!"
死人のままでは聞こえなかったその声が。見えなかったその姿が。
はっきりと見える。
君が見える。
光のような君が見える。
"パパこんなところにいたの?"
今になって、君がこんなにも近いところにいる。
君の記憶が私の手足を動かす。死に行く目に光を取り戻させてくれる。
"私はこの国を、パパと暮らす国を守りたい"
――ああ、そうだったね。
だから私は自堕落で、馬鹿で、人生を無駄にして、生き恥を晒してたんだ。
"だから私、魔法使いになったの"
だから私は、今日まで死のうとしなかったんだ――!!
「【堕落の真実】!!」
『今更貴様如きの血統魔法で何ができる!?』
鉤爪にしがみ付きながら、ハリルはヤムシード家の血統魔法を唱える。
血を吐きながら響き渡る黒色の魔力。
グリフォンの至極真っ当な指摘をハリルは鼻で笑った。
「ぎ……ゃあ……があああああああああ!!」
ハリルの背中から黒い翼が現れ、その黒い翼はグリフォンの鉤爪に触れる。
同時に、ハリルに脳内に知らない人間の死と恐怖の記憶が流れ込んできた。
虫に目玉を食われる音、臓器を喰う怪物の咀嚼音、遠い異界の戦争の記憶から罰せられる罪人の悲鳴。その全てはグリフォンが見てきた故郷の闇。
闇属性の特性は"浸食"。相手の魔力に干渉できる魔法特性。
ゆえに……恐怖を根源とする鬼胎属性に干渉しようとすればその影響を受けるのは必然だった。
『自滅か馬鹿め。この身は恐怖を司る鬼胎属性……闇属性の"浸食"などやろうものなら流れ込む死の記憶で精神が自壊するに決まっていよう。言ったはずだ、貴様如きの血統魔法で何ができると!!』
そう、自分如きの血統魔法ではグリフォンには何もできない。魔法生命――個の強さで人間を遥かに上回る怪物とあらば。
だが、ゆえにこいつらは知らない。
歴史の結晶。血筋の具現。
人から人へ繋いでいくその在り方を示す唯一の魔法の力を――!!
「ええ……! ええ……! そうでしょうね……! 私如きでは、あなたは倒せない……!」
『まだ喋れ――!?』
グリフォンから流れ込む記憶の渦でもう感覚は消えている。
ハリルの目はすでに焦点があっておらず、口の端には血の泡が噴き出ていた。
「それでも!!」
それでも、意識だけが奪えない。
数十の気絶をもたらしてもおかしくない幾多の死の記憶と恐怖が脳内で再生されてなお、ハリルの意識だけが奪えない。
娘の記憶と一緒にいる彼の意思だけは――!!
「娘の力と共に一矢を報いましょう!! 子の血統魔法を呼び起こす情けない父親で結構!! 笑うがいい!! 恥ずかしいと謗るがいい!!」
過去にされた"変換"ではなく、自分の代より先で生まれた"変換"のカタチ。
つまりは、天才だった娘によって引き上がった"現実への影響力"を記録から引きずり出す。
自分の得意分野と娘が引き上げた"現実への影響力"を交えて、ハリルだけでは一生辿り着かなかった新たな"変換"のカタチをここに。
狙いはこの場を血の海に変えた鉤爪その一点――!
「娘は! あの子は!! シャーリーは!! お前らみたいな怪物に国を渡すために……命を懸けたんじゃあない!!」
ハリルの背中から生える黒い翼がグリフォンの右の鉤爪を包み込む。
翼は小さく閉じて球体のように。ほとばしる黒い魔力すら閉じた翼の中に全て収まった。
それはまるで――。
『まさか――!』
気付いて、グリフォンはもう片方の鉤爪を黒い翼に向けて振り下ろす。
だが……もう遅い。
「娘は誰かの、私達の明日を守るために……私達のために戦ってくれたんだあっ!!」
ゴギン、と鈍い音が玄関ホールに響き渡った。
それは鉄を力づくで砕いたような、骨を捻じ曲げたような。
この世のものとは思えない生々しい音だった。
『っ――! ぎゃああああああああ!!』
グリフォンは叫びながら黒い翼ごとハリルを引き裂く。
だが、ハリルの血統魔法に包まれたほうの鉤爪はすでにグリフォンの体から離れ……黒い血を噴出させながら床に転がっていた。
どしゃあ、と音を立てて床に落ちた鉤爪はやがて崩れ落ちていき、ただの魔力となって霧散していく。
『ぎざま……! 貴様!! 貴様!! ハリル・ヤムシードおおおおお!!』
ハリルの使った血統魔法は単純だった。
娘が戦闘能力を求めて昇華させた翼の斬撃と自身の得意とする転移魔法の"変換"の融合。
黒い翼は転移魔法の黒穴へと変わり、包まれていた部分は一時的に別空間となって引き裂かれる。
本来なら包まれていたハリルも鉤爪と一緒に引き裂かれるが……血統魔法は血筋の人間には影響を与えない。
ゆえに転移魔法の特性を持った空間の切断は、使い手のハリルには届かずグリフォンの鉤爪だけを切断した。
『ごの……! この身の、体が――! 神獣たるこの身の鉤爪が――!』
こんなやつに。
睨むハリルはもう動いていなかった。
翼ごと薙ぎ払った鉤爪の一撃と魔力消費で本当に限界を迎えたのだろう。
流れる血は止まる気配はなく、無事な部分を探すのが難しいほどにボロボロだった。
『はぁ……! はぁ……!』
……決着はついた。
立っているのはグリフォンただ一体。
この場にいた六人は全てその圧倒的な力によって死に絶えた。
誰が見てもグリフォンの圧倒的な勝利の結末。
だが、地に伏す六人を見るグリフォンの表情は勝者のものとは思えない。
『貴様……否。貴殿達を甘く見ていた』
これ以上魔法生命の姿でいる必要はない。
グリフォンは本体の状態を解除して宿主の体に戻る。
しかし、宿主の体に戻っても左手は無かった。手首の先は切断されていてそこからは血が滴っている。
深呼吸をして平静を取り戻したグリフォンは左腕を止血して、
『訂正しよう。貴殿らは纏わりつくだけの虫ではなく、この身に立ち向かう獅子だった』
届かぬ賞賛を凄惨な処刑場と変わったその場に残して……ヤムシード家を去った。
まるで敗北したかのような表情で。
「…………」
ハリルは血の海の中で、残り少ない時間を過ごす。
傷だらけなのに身体は痛くない。体の温度を感じるだけで何も感じない。
それは命が消える前兆だとわかっていたが、思いを馳せるハリルには好都合だった。
血の海に転がる割れたモノクルを、娘から貰った大切なプレゼントに手を伸ばした。
…………ずっと支えられていた。
妻に、娘に人生を貰っていた。
妻と娘がいなくなって、声も聞こえなくなって、夢の中でも会えなくて。
人生に絶望しながらも、自分で死のうとは思えなかった。
娘の面影を探して探して、屋敷の中をずっと探して、どこにも見当たらなくて。
ずっとずっと、ずっとずっと探していたのに見つからなくて。
そんな時に、彼らと出会った。
渓谷にいたマリツィア様の協力者。
転移魔法から出て目にしたのは死んでいるほうが自然なほどの少年と、その少年を守ろうとする翡翠の少女の声だった。
その声に、娘の面影を見た。
ああ、この時のために生き続けてきたんだと悟った。
彼らの後ろに見える娘の面影にもう一度出会うために。娘と同じように、誰かを守るために立ち上がった魔法使いの子供達を見送るために。
あの日のことを後悔していた。
魔法使いとして家を出る娘を快く見送ってやれなかった。
行くなと喚いて、名前を叫んで、魔法使いの道を行く娘を嘘でも笑顔で見送ってやりたかった。
私も娘のように、誰かを助けるために立ち上がりたいと思えた。
少しでも、ほんの一欠片でも娘に恥じない父親でいたいと思えたんだ。
「シャ……リ……」
ずっと会いたかった。
ずっと声を聞きたかった。
私の光。
私の娘。
私達の、娘。
でも、会えるわけがなかったんだ。
私は今まで君に相応しい父親になれていなかったから。
だからもし、さっき聞こえた君の声が、さっき見えた君の姿が嘘ではなかったとしたら。
なあ……シャーリー? 私は、君に相応しい父親になれたんだろうか?
最後の最後にあの子達を助けて、私は勇敢で善良な――魔法使いになれたんだろうか?
「ああ……」
今度こそ私は、誰かを支えることができたんだろうか?
「そう……だ……」
考えて、考える必要などないことに気付いた。
「もう……もらっていたじゃないか……」
何故なら、私はあの時すでに貰っていた。
転移魔法の先に見送ったその背中に。
最後に見送った翡翠の少女から――
"私達を助けてくれて……本当にありがとうございました!!"
助けてくれてありがとう、と。
いつからか忘れていた……魔法使いにとっての誉れの言葉を。
いつも読んでくださってありがとうございます。
ヤムシード家編終了です。これで一区切りとなります。
自身の事情もあって父親がどんな存在かわからず、描写するのが初めてだったのでいつも以上にどんな出来なのかよくわかっていません。よろしければ読者の皆様に感想を頂きたいです。
今後のらむなべにほんのちょっと協力してやるか、と思った方どうかお願いします。




