539.ヤムシード家4
最も愛しい妻が亡くなる代わりに、最も愛しい娘が生まれた。
ライサ……妻は才能溢れる魔法使いだったが、病弱ゆえに領主にはなれなかった。
才能のある妻は絶えず求婚され、引く手数多だったが……何故か冴えない自分を選んでくれた。ヤムシード家なんて下級貴族を選んだ妻を周りは物好きだと噂した。
結婚が破談になるのを恐れて私は、何故私と結婚したのか、と結婚してから理由を聞いた。
「そうね。何か支え甲斐がありそうだなって思ったの」
妻は飛び切りの笑顔を見せながら、そう答えてくれた。
日差しに照らされた髪は本当に向日葵の花弁のようで、その時私は本当の意味で妻に恋をした。
見惚れている間に「夏だね」と言って白い日傘を差した妻に、もう一度恋をした。
情けない話だが、妻の言葉通り私は妻に支えられながら日々を生きていった。
そう、娘が生まれるまでずっと続くと思っていた。
母親がその命と引き換えに子供を出産する。……よくある話だ。
娘を愛しそうに抱きながら冷たくなっていく妻に私は何もできなかった。
病気を治そうと奔走した日々もあった。けれど治せなかった。
原因がわからない。何故弱っていくのかもわからない。妻は何かに蝕まれながらも、自分を貫いた。
私の妻であること、そして娘の母であることを選んで短い人生を生き抜いた。
――――光だった。
妻が向日葵なら、娘は光だった。
娘を初めて抱いた時に、私は妻に託されたのだと知った。
私が妻に支えられたように、今度は私が母のいないこの子を支える番なのだと。
妻がいなくなって、使用人は続々とやめていった。
当然だ。妻がいなければヤムシード家はただの下級貴族。衰えるのは目に見えている。沈む船に乗る理由はない。
結局、父の代から使用人が四人だけ残った。老いた執事一人にベテランの使用人三人。その四人と私は協力して娘を育てていった。
「パパ! パパ! わたしはここよ!」
「ははは! 危ないぞシャーリー」
娘は元気すぎるくらい健やかに育ってくれた。
妻のように病弱なのではという私の不安など吹き飛ばすように庭を駆け回り、干した洗濯物の合間を走り回って使用人達を笑顔にして困らせていた。
それでいてたまに、お手伝いする! などといって使用人達をはらはらさせる子でもあった。
妻に似た蜂蜜色の髪をなびかせながら走る姿は見る者を笑顔にし、領民にも愛されていた。
「パパ! 私ね、お風呂が好きー! くすぐったいけどね?」
娘がそう言ったからか、使用人達は湯浴みの時間に気合を入れるようになった。
一人はマッサージを習得し、一人は香油に詳しくなり、また一人は髪の結い方を学んだ。
ついでに、私の髭も毎回整うようになった。
「パパ聞いて! マリツィアったらまた意地悪を言ってくるの! レディとしておてんばすぎるって! 元気なのはいいことよね?」
「ああ、勿論だとも」
「ふふ、でもルトゥーラのほうが怒られてたわ! おかしいのよあの二人ったら! ルトゥーラったら料理にいたずらしたんですって! とっても辛い辛いになるそうよ!」
「シャーリー……それはどの料理かな?」
東部の貴族同士で交流のあるリオネッタ家とペンドノート家と集まった際に同年代の友達もできたようだった。
「ティノラです。よろしく、お願いします……」
「ティノラさん? 私はシャーリー! よろしくね!」
少しして、使用人兼護衛を雇った。
廃棄された元数字名。ダブラマでいう魔法使い未満とされた者。
使い捨てとしてすら使えないと判断され、この地の貴族に決して逆らえないように教育され、牙の折られた王家の犬。
「シャーリー様……私のような者に触れてはなりません……」
「何言ってるの? この屋敷で暮らすんだもの。家族になる人に触れないなんておかしいでしょ?」
しかし、そんなティノラにとってもシャーリーは光そのものだったらしい。
影があった表情は娘と過ごしていくうちに普通の女性のような明るさを取り戻していった。
「パパ! 見て見て! この服可愛い! ティノラさんが選んでくれたのよ!?」
「しゃ、シャーリー様……! 恥ずかしいです……!」
そんな風に周囲を笑顔にしながら娘はすくすくと育っていった。
一年。また一年。月日が過ぎる度に可愛らしいから美しいに変わっていく。
「パパ! どう? 執事さんにママの髪型をしてもらったの! 似合う?」
「そっくりでございます。シャーリーお嬢様。お美しい」
成長する度に妻の面影を垣間見せながら、この屋敷で輝き続けていた。
「パパこんなところにいたの? 早く寝なきゃ駄目よ?」
「シャーリーこそ勉強はほどほどにしなさい」
「暖炉の前で寂しくしてるパパが戻ってくれたら言う事聞くわ」
「ははは……まいったな……」
娘は妻に似て才能に恵まれていた。転移魔法しかできない私と違ってすぐに魔法についてを吸収していった。
とある時期から友人二人と切磋琢磨し合い、時にやり過ぎではないかと思うほどの鍛錬を積み重ねていた。
私と使用人はそれを手伝うことしかできなかった。けれど、それで変わることがなかった。
いつものように私をパパと呼んで慕い、使用人達に笑顔を振りまいていた。
才能に開花した貴族にありがちな傲慢さなど微塵もない。
ついには血統魔法を十三歳で習得し、成人したての十四歳で魔法使いとなった。
「パパ……今いい?」
「ん? なんだい?」
自分の娘が天才だったことに喜び、同時に誇らしかった。
暖炉の前で思い出に浸っていた夜に、私は娘からプレゼントを渡された。
「これは……モノクルかい?」
「そうなの、魔法使いになった記念にパパにプレゼント。私の髪と同じ色をしているでしょう?」
「普通は……シャーリーがプレゼントをもらうんじゃないのかい?」
「ううん。だって、私が頑張れたのはパパのおかげだから。だからお礼がしたかったの。私ね、パパやみんなと暮らしてるここが、この国が大好きだから……私はこの幸せのために魔法使いになったんだもん。だから、ありがとうパパ」
そう言って、娘は笑った。
夜闇を晴らすような輝かしいのその笑顔の中に妻の姿を見た。
その夜はあまりに娘が愛しくて、向こうにいる妻に夜通し報告した。
あの子は立派になった。世界で一番の娘なんだ。間違いなくこの子が世界で一番だ。そんな事を言い続けていた。
「まったく親馬鹿なんだから」と聞こえてきそうな夜だった。
……けれど、私は自分の幸福がすぐに手の平から滑り落ちるのを知らなかった。
そう、妻の時と同じようにそれは訪れた。
「駄目だ! シャーリー!! 行くな!!」
「離してパパ!!」
一年半前に……災害が上陸した。
北部と面したミュール海を渡って、カンパトーレから来た謎の怪物がダブラマに現れた。
北部で戦っていた魔法使いが死に際に、通信用魔石でダブラマ全土に危機を伝えた。
視線の合った者を石化する怪物で体長は二十メートルを超える生きた災害だと。
一瞬、私と娘は半信半疑に陥りそうになったが……その声が聞こえてきた通信用魔石がただの石に変わった瞬間、私達の背中に寒気が走り――全てが真実だと理解した。
その瞬間、娘は屋敷を飛び出そうとした。
この時には、娘はもう魔法使いとして遥か高みにいた。
王家直属部隊ネヴァンの第五位。十九歳という若さでありながら、才だけでは決して到達できぬ地位にまで上り詰めていた。
「そんな訳の分からない怪物と戦うなんて無茶だ! 聞いただろう報告を! 他の魔法使いと討伐部隊を編成して――」
娘の腕を必死に掴んでいた。
今思えばどれだけ情けない姿だっただろうか。
「そんな事していたら北部の人達がもっと殺されちゃう! それに、今第二位のジュヌーン様は王都にいるし、ルトゥーラも王都に呼ばれてるって言ってたの! マリツィアは秘密任務で国外にいる! 北部を守れる魔法使いがいないの! 一番近い私が行かなきゃ! 私の速度なら二日で北部に辿り着ける!」
「駄目だ……! 駄目だシャーリー! 何の"現実への影響力"かもわからないんだ! それに二十メートルの巨体など魔法が通るかどうかも……!」
「うん……でも、行かないと。私は魔法使いだから」
「シャーリー……頼む……! いかないでくれ!!」
思えば、私はもうこの時から最悪な未来を想像していたのかもしれない。
私は必死に娘の腕を掴んで懇願していた。
それでも、娘の意志は変わらなかった。
「大丈夫だよパパ。私はパパより何倍も強いのよ? それに知ってる? マナリルではたった一人の男の子があの【原初の巨神】を破壊したって話。百メートルなんかじゃ足りない魔法から国を守った子がいるんだって」
「そんなのマナリルが自国の強大さを知らしめるために流したホラに決まってる! そんなの不可能に決まってる! 常識的に考えて核を破壊して終わったに決まってるだろう!!」
「うん、そうかもしれない……でもね、そうやってどんな国の魔法使いも、自分の守りたい何かのために戦うんだよ。私はこの国を、パパと暮らす国を守りたい」
「シャーリー!!」
「だから私、魔法使いになったの」
娘は私の腕を振り払って、黒い翼で空へと飛び立った。
「シャーリー! いくな!! シャーリー!! シャアアリイイイイ!!」
その背中が見えなくなるまで、私は悲壮な叫びをあげ続けた。
何故を繰り返し、無事を祈り、ただいまの声を待ち続けた。
――そして私に届いたのは娘の訃報だった。
北部で娘に助けられたという数字名の魔法使いは娘の勇猛さを涙ながらに語ってくれた。
唯一怪物に対抗できた『女王陛下』の到着まで怪物の侵攻を食い止めたこと、何百人という民の避難が間に合ったこと、共に戦った魔法使いすら守りながら戦っていたこと、半身を石にされながらも戦い続けていたこと。
他にももっと多くの事を伝えてくれたが、私の耳は娘に関すること以外は聞き取る気はなく、ほとんどを聞くことができなかった。
「ハリル様に……伝えてくれと……! 言伝を預かっております……」
「なんて……?」
「"先に死んじゃってごめんなさい。大好きみんな。愛してるパパ"と……」
そこから、自分がどうやって部屋に帰ったかもわからなかった。
気付いたら部屋で目覚めていて、夢でも見ていたのかもと鏡の前に立って、自分がかけているモノクルを見て涙した。
『――――――』
娘の声も、思い出せなくなっていた。
記憶の中にしかいない声を探すかのように、私は部屋を出た。
私だけではなく屋敷そのものが死んだかのようだった。
娘の着せ替えショーが毎週行われていたドレスルームは主役が消えて。
あれほど華やかで香油の香りで満ちていた湯殿は見る影も無い。
娘がいた時の明るさは消え去り、使用人達も空虚にただ仕事をこなすだけ。
喜びも笑顔もどこかへ落として、悲哀と涙だけが屋敷の中にあり続けた。
「ああ……」
その時、私は気付いてしまった。
私が支えていたのではなく、私はまた支えられて生きていた。
娘という光に照らされていたから日々を生きていけたのだと。
花も光も失って、もうヤムシード家は緩やかに滅びるのを待つだけとなった。
ただ悲しみ。
ただ虚ろなまま。
娘の声のしない屋敷でただ過ごして。
同じ屋敷で暮らしているのに、自分も使用人も一人で孤独だった。
怠惰に毎日を過ごして、生きながら死んでいた。
心についた疵がそのまま、体を殺してくれれば楽だったろうに。
『どうか、私達を助けてください』
一年以上そんな生活を続けていた時に、懐かしい声でそう頼まれた。
娘の友人だったマリツィアだった。娘の友人だが、もう呼び捨てで呼ぶことはできないほどの地位にいる子の声だった。
娘と同じように、彼女も変わっていなかった。どんな地位につこうと国を思っていた。
娘の友人である彼女の頼みは断れず、協力を承諾した。
そう頼まれてから少し経って……約束通り私は彼女に頼まれて、協力者とやらを迎えに行った。
――そこで、その声を聞いたのです。




