538.ヤムシード家3
「お逃げください」
ヤムシード家での療養も七日目となった昼間頃。
アルムの眠る客室にヤムシード家の使用人ティノラが勢いよく飛び込んできた。
平坦な声ながら、端的な指示は緊急事態だと察するには十分すぎる。
ルクスとヴァンはノックも無しに飛びこんできたティノラを一瞬警戒したが、すぐに構えを緩めた。
入ってきたティノラは警戒されていることなどお構いなしに橙色の髪を揺らしながら、呼吸を整える。
「王家の紋が入った馬車がすでにクレコウスの町に到着しています。町の住民からの情報によれば鋭い目をした女が乗っているとのこと……恐らくは現在の第五位が乗っています」
「現在の第五位っていうのは?」
「……王の側近です。謁見の間で二人の女性をお見掛けしませんでしたか? その片翼です」
「――っ!」
ルクスの表情が一気に険しくなる。
――あいつだ。
住民の印象が確かならスピンクスではない。確信をもって、地下遺跡から出た際に襲ってきた魔法生命だと確信する。
グリフォン。あの飛行能力を持った魔法生命に違いない。
「迎え撃――」
そこまで言って、ベッドに横たわるアルムのほうを見る。
アルムは自分で動ける程度には回復したが、依然として万全ではない。
果たして……グリフォンがアルムを見逃すだろうか。いや、絶対に見逃さない。
相手は出来ることならアルムを殺したくて仕方がないのだ。むしろ、ここにいる全員を無視してでも仕留めに来るだろう。
かといって、戦力を分散するのは愚策。
現状魔法生命とやり合えるのはルクスとヴァンの二人。それでも勝てる保証はない。ヴァルフトとベネッタでは抗えはするも恐らく届かない。
万全を期すためにこの場に二人残せば、必然アルムの護衛が薄くなる。
それに……グリフォン一体で来ているとは限らない。スピンクスがもし戦線に加われば――
「ええ。ええ。勿論却下ですとも」
思考を巡らせるルクスに割って入るように、ティノラの後ろからハリルが現れた。
ハリルの後ろに控えるように、他の使用人達もいる。
この七日間、アルム達の世話をしてきた全員がここに集まっていた。
「ハリル……殿……」
「当然、逃げの一択です。あなた達がまだ戦う時ではありません」
そう言って、ハリルは魔法を唱えた。
客室の何もない空間に黒い穴がゆっくりと現れる。
黒い魔力光を放つその穴は最初にアルム達の前に現れた時のような転移魔法だった。
「リオネッタ邸のあるレーヴンの町に繋げました。すでにマリツィア様から、機を見てあなた方の姿をくらませよ、との命令を貰っています。どうぞあなた達はマリツィア様と共に態勢を整えてください」
「……あんたらは?」
まるで自分達が勘定に入っていないかのような言い方が気になりヴァンが問う。
「ええ。ええ。勿論ここで出迎えます。私はダブラマの貴族ですからね。王族の紋章が入った馬車が来たとあれば迎え入れなければなりません」
「は、ハリルさん……!」
「それに……私の腕前ではどちらにせよ使用人含めて全員転移などさせられませんからな! もしあなた達のことを聞かれても、私達は知らぬ存ぜぬを通してお帰り頂くだけのことですよ」
ベネッタが一緒に逃げましょう、と言う前にハリルはおどけた態度を見せる。
暗にアルム達だけが逃げる選択肢しかとれないと言っているように。
「ヴァルフト、転移魔法の先がどこか確認しろ」
「お、おお!」
ヴァンが指示するとそんぼやり取りをただ聞いていたヴァルフトは慌てて転移魔法に入っていくと、すぐに戻ってきた。
「とりあえず危ない感じは無いぜ。どこの町かは俺にはわかんねえが、町はしっかり見える。町はずれに出るって感じだ。王都でもねえ」
「よし……ルクス! アルムに肩貸せ! 俺が先導する!」
「はい!」
ルクスはすぐにアルムに駆け寄って、アルムが立ちあがるのを補佐する。
ゆっくりと立ち上がったアルムにルクスは肩を貸す。もう一人で歩けるようにはなったものの、逃げるとなれば不安が残るためだ。
「すまん、ルクス……」
「何言ってるんだ。いつも僕達を助けてるんだからこういう時くらい助けられておけばいいんだ」
「ああ。それとハリルさん……お世話になりました」
「いえいえとんでもない。私はただ私のやるべきことをしただけです。あなた達も……そうでしょう? ヤムシード領によく来てくださいました、またお会いできる日を楽しみにしています」
ハリルがにっと笑って、それが別れの言葉となる。
その笑顔はかけているモノクルと白い歯と一緒に輝いているかのような笑顔だった。
まずはヴァンがハリルに静かに頭を下げて黒穴に入っていく。
次にルクスとアルムが一礼して、次にヴァルフトも下手くそなお辞儀をして後に続く。
「みなさん……」
「ベネッタ様……!」
ベネッタがあまりに悲しそうな表情をしていたからか、橙色の髪を揺らしながらティノラがベネッタに駆け寄る。
ベネッタの手を握って、ティノラはベネッタの無事を祈るように額を握る手に当てた。
「この七日間とても楽しかったです。私達の趣味に付き合って頂きありがとうございました。使用人を代表してお礼を言わせてください」
「ボクも楽しかったです。色々……ありがとうございました」
「あなたのおかげで私共は……シャーリー様との日々を思い出すことができました」
「えへへ、よかったです。服ありがとうございました」
「はい……今日まで着せた服全てがとても、可愛らしくてお似合いでした。どうか健やかに」
ティノラはベネッタの頬に愛おしそうに触れる。
慈愛に満ちた瞳がベネッタの瞳を見つめて、そして名残惜しく離れていく。
後ろでは他の使用人達もお礼を言って、別れの言葉を遺していく。
「ハリルさんも……」
「ベネッタ殿には少し、話しすぎてしまいましたね」
「い、いえ、そんなことは……嬉しかったです。皆さんのことをほんの少しだけ知れて」
「娘のことはマリツィア様も聞けば話してくれるでしょう。是非尋ねてみてください。娘とマリツィア様は……親友でしたから」
ハリルはそう言って、ベネッタを転移魔法の黒穴に向けて背中を押す。
「ささ、早くしないとばれてしまいます。ええ。ええ。それだけは避けませんと」
「はい……お世話になりましたー!」
「ええ。ええ。どうか……あなた達がよりよい明日を迎えますように。ヤムシード家一同心より祈っております」
「またどこかで! 私達を助けてくれて……本当にありがとうございました!」
ベネッタは最後にそう言い残して、黒穴の向こうへ消えていく。
その背中を笑顔で見送ってハリルはゆっくりと黒穴を閉じた。
「お礼を言うのは……こちらのほうなのですがね」
ハリルは肩をすくめて、ティノラを含めた五人の使用人達はそんな主の姿を見て微笑む。
さあ、名残惜しい見送りの時間は終わり。
未練は今、無くなった。
「突然の訪問失礼。アブデラ王の命令で貴殿を調査しに来た第五位……『白翼』の名を賜っている"エンヴィ・ヴァイアント"だ」
アルム達がヤムシード邸を去った一時間ほどして、王家の紋章が刻まれた馬車がヤムシード邸に到着した。
馬車に乗っていた女性はエンヴィと名乗ったが、それは宿主の名前に過ぎない。
人間の中に都合よく溶け込むグリフォンの表の顔であり、すでに人格浸食を終えた元はガザスの魔法使いの体。
ヤムシード邸の玄関に立っているのは紛れもなくダブラマに巣食う怪物の一体である。
「あなたに第五位と名乗るのは少し心苦しいがな」
「いえいえ、亡くなった娘の後任がいないことのほうがダブラマにとっては問題になりましょう」
「シャーリー殿の勇猛さは聞き及んでいる。偶然北部を不在だったジュヌーン殿の代わりに……かの怪物メドゥーサからこの国を守ったダブラマの英雄だとな」
「……娘に聞かせてやりたいですな。さあ、立ち話もなんですからどうぞ中へ」
ハリルは笑顔を張り付けたまま、我慢するように拳を握りしめながらエンヴィ……否。グリフォンを屋敷の中に迎え入れる。
馬車の御者と側近の数字名の魔法使い達は外で待つようで、グリフォンだけがハリルに案内されてヤムシード邸に迎え入れられる。
中に入ると、使用人達が一列に並んでグリフォンを出迎えた。
その使用人達の姿を見てグリフォンは感心するような表情を浮かべる。
「流石ヤムシード家と言ったところか。気を遣わせてしまってすまないな。今日はアブデラ王からの要請でな。話と調査が終わればすぐに……」
だが、グリフォンの顔からすぐにそんな表情は消え去った。
グリフォンは鼻を鳴らす。人間の嗅覚では決してキャッチできないであろう情報が……グリフォンという異界の生命体の機能が嗅ぎ取った。
グリフォンの宿主との適合率はおよそ八十%。たとえ宿主の姿であれ、多少の機能は発揮できる。
「お茶は何がお好みですかな? うちの使用人はミントティーとコーヒーが――」
「…………そうか。当たりか」
ヤムシード邸の玄関ホールに、冬の寒さとは別の寒気が走る。
グリフォンの声から敬意は消え、敵意が宿る。
重苦しい空気に呼吸すら難しくなり、ハリルと使用人の背筋に寒気が走った。
「ダブラマでも珍しい転移魔法の使い手……なるほど、道理で王都付近を捜索しても奴らの影も形も無いわけだ」
「……エンヴィ殿? どうされましたかな?」
「演技はもう必要ない。疑いが晴れた暁にはその転移魔法の力を我々の計画に役立ててもらおうと思ったが……有用な力があれどわざわざ腐ったリンゴを入れるわけにはいくまい」
グリフォンの瞳が変わる。
鋭いながらも温和をたもっていた瞳は、その鋭さに殺意を加えて射殺すような眼差しに。
もう友好的な雰囲気はどこにも存在しない。敵を見据えて狩る獣の片鱗が鬼胎属性の魔力と一緒に漏れ出ていた。
「アルムの血の匂いがする。この身が血の匂いを間違えるわけがあるまい。
貴様らだな? 王都から逃げた奴らを匿っていたのは?」
「はて……? 私達は怪我人を助けただけですが……何か問題がありましたかな?」
とぼけるように自分の顎を撫でながら言うハリル。
しかし、誤魔化す気が一切無いのはすぐにわかった。
グリフォンでなくても誰でもわかる。ハリルは言いながら薄く笑っていたのだから。
「大人しくしていれば、輝かしい道を歩めたものを……だがそうか。貴様が反逆者だったか、ハリル・ヤムシード」
ここに来た用件が変わる。
話と調査ではなく、反逆者の処刑へと。
「私達にとっては暗いだけでしょう」
「奴らをどこへやった? 言えば――」
「いや結構。私達はあなたに許してもらうことなどしていませんからな」
言葉を遮られて、グリフォンの殺意が噴き出す。もう玄関ホールは死の匂いしかしない。
整列していた使用人達がグリフォンを囲む。
ティノラは剣を構え、他の使用人達は玄関ホールに隠していたフライパンや包丁を盾と剣にしてグリフォンを囲む。それは相手をなめているのではなく、剣すら重さで振れない年齢の使用人達が持てる最大の武器だった。
ハリルとティノラ以外は明らかに戦闘の経験も無い。
それでもなお、鬼胎属性の魔力を前に使用人達に恐怖など無かった。
そう……恐怖というのは今に執着する生者の特権である。
「この身を前に立ち続けられる精神力は賞賛に値しよう。だがわかっているだろう……虫が何匹集まったところで、この身に届くことはない。ハリル・ヤムシード……遺言くらいは聞いてやろう」
「ふむ。特にありませんな」
「……遺言すらないと? 随分と寂しいことだ」
「ええ。ええ。なにせ……言葉を遺す相手がいないものでね」
「……なるほど、すでに死人だったか」
グリフォンはハリルやティノラ、他の使用人達の目を見て理解する。
誰一人してこの場を切り抜けようとしていない。生き残ろうと思っていない。
それでいて未練も無いのが不思議だった。
まるでやり残したこと全てをやり切ったかのような。
「死人には勿体ない出会いでしたよ」
「この身の故郷であれば、貴殿らは戦士だっただろうな……とはいえ、この身の相手は務まらない。貴様程度の魔法使いに元数字名の使用人。そして残りが老いぼれた平民であってはな」
グリフォンはハリル達を睨みながら、瞳に黒い魔力光を灯す。
「せめてもの手向けだ。このグリフォンに立ち向かった勇気を最後の誉れとするがよい」
グリフォンの目の前にいるのは光を失った死人達。
――ならば手を緩める必要すら無い。
なにより……ここを死地と決め、死に物狂いでかかってくる相手とあらば。
「【異界伝承】」
響き渡るは異界の伝承。
矮小な人間に絶望を与える文言が屋敷に響き渡る。
グリフォンからすればたかが六人。虫を潰すのと変わらぬ時間。
たった六人の決死に応え、グリフォンは無慈悲な蹂躙を選択した。




