537.ヤムシード家2
ヤムシード家の広間はいわゆる客間だ。
客人を一時的に迎え入れる場所であるために整ってこそいるものの、当然夜を過ごす環境は無い。
そんな広間のソファに、ハリル・ヤムシードは座っていた。
暖炉の明かりに照らされるハリルには昼間見るような生き生きとした雰囲気はない。
パチパチと薪が鳴らす音は物悲しく、その暗い影はまるで亡霊。
火の色を映し続けるモノクルが彼をこの場に留めているかのようだった。
「おや……どうされました?」
「お邪魔してごめんなさい……その、眠れなくてー……」
入ってきたベネッタに気付いて、ハリルはにこっと笑う。
眠気がハリルの様子を変えているのではないことは何となくわかった。
ベネッタが部屋に入ると、ハリルはそのままソファに座るのを促す。
ベネッタが座ると丁度、使用人のティノラがホットミルクとミントティーを運んできた。
受け取ったホットミルクをベネッタが一口飲むと、ほう、と暖炉の火とは別の温かさが体の中に染み渡る。少し緊張していたのが大分ましになった。
「その、ハリルさんも眠れないんですかー?」
「ええ。ええ。眠れない夜はこうして屋敷のどこかにただ座るのです。自室にいる時よりも頭が晴れるような気がするんですよ」
「何か、お悩みが?」
「いえいえ、眠れないだけですよ」
……少し会話して沈黙が続いた。
目の前にある暖炉の薪だけがパチパチとこの場の静謐を許さない。
昼のテンションであればハリルのほうからどんどん話を振りそうなものだが、やはり空気が違う。
一体その違いは何によるものか。昼間の会話が脳裏によぎる。
やはりこの屋敷の人達は自分達をもてなす振りをしているだけなのか。それとも……。
ベネッタは広間の入り口に控えているティノラをちらっと見る。
すると、ティノラもこちらを見ていたようで目が合った。
ティノラが一礼すると会釈をして、視線を前に戻す。ホットミルクを飲んで、もう一度頭を整理した。今自分はこの人達を探るべきなのかどうか。
「しっかりされていますね」
「へ!?」
「私を探りに来たのでしょう?」
意図を見透かされてベネッタはどきっとする。
表情に出してはいけないのだが、あまりにも不意打ちでベネッタの表情は図星を突かれたのが丸わかりだった。
「はははは! これでもダブラマの貴族ですからな! 顔色を窺うのはそれなりにできるところですよ?」
そう、昼間に見せる親しみやすさで忘れがちだがハリルもまたダブラマの貴族。
それもベネッタの倍以上生きている貴族なのだ。ベネッタの狙いなど見透かされて当然。
無意識とはいえハリルの事を甘く見てしまった自分を恥じて顔が赤くなる。
ベネッタは恥ずかしさから逃避するようにホットミルクの入ったマグカップで顔を隠した。
「恥ずかしがる必要はありません。あなたは正しい」
そんなベネッタを慰めるように、ハリルは言う。
「あなた達にとって私達はあまりに都合がいい。協力するにしても限度があると思われるのも仕方のないことです。あのヴァン・アルベールを筆頭に皆さん私達を心の底では信用していないのもわかっています。初日の食事の時にも言ったでしょう?」
「そ、そんなことは……少なくともボクは、感謝してます……アルムくんを匿ってくれること……」
「そんな事は当然です。それは私達がやるべきことですからな」
何故だが、ベネッタはそう言い切ったハリルに既視感を見た。
そうだ。自分が憧れる人達はみんなこうして揺るがない意志のある声を持っている。
アルムやエルミラ、ルクスにミスティ……マリツィアも。
大切な時に自分の弱さと戦って、勝てる人。揺るがない自分を大事な時に持てる人。
けれど……何故だろうか。
ハリルの声は少しだけ違う気がした。
強いけれど、アルム達のように先を見据えていないような寂しさがあるような――。
「私の役目はダブラマを守ること。そしてあなた達はダブラマを守ってくださる人……ならば、マリツィア様の命令でなくともあなた達を庇護するのは私の役目です。たとえ私の全てを捧げても、あなた達に快適に過ごして貰って、万全な状態で見送ることこそが貴族ハリル・ヤムシードとしての使命なのですよ」
「恐く、ないんですか? 相手はこの国の――」
「そうですね、相手はこの国の王……他国ではともかくダブラマでは絶対の主君です。それでも私達の守りたいダブラマと王の欲しいダブラマは違うのです。ええ、違うのですよ」
表情を険しくしたハリルは自分を落ち着かせるためかミントティーを一気に飲む。
それで少しは落ち着いたのか、ふう、とまた暖炉を見つめ始めた。
「……いや、もう一つ理由があるのです、あなた達をもてなす理由が」
「え?」
ハリルはベネッタのほうに視線を向ける。
その目は先程の険しい表情から最もかけ離れたような……優しい表情だった。
「私達は楽しいのです」
「え? た、楽しい……ですか?」
「はい、信じて貰えないかと思いますがね」
ハリルはしばらく顔を伏せて、意を決したように顔を上げる。
どこか遠くを見ているようだった。ベネッタはただハリルを待った。
聞き返して引き出すべきではないと思ったからだった。
「娘が亡くなってからこの屋敷は、ヤムシード家は死んでしまった。光を失ったのです。春から息吹が途絶えるように、夏の日差しが届かぬように、秋から色合いを失うように、冬の輝きが消えたように……全てが終わってしまったのです。それほどに娘の存在は大きかった。いや、娘こそがこの家そのものでした」
「メドゥーサさんと……戦った人、ですよね……?」
「勘違いしないでくださいね。そのメドゥーサという魔法生命を恨んでいるわけではないんですよ。娘はこの国を守るために戦ったのです。娘は誰よりも魔法使いだったという自慢話ですらあります。
メドゥーサという未曾有の怪物の侵攻時、ジュヌーン様が偶然不在で手薄だった北部に飛び立ち、『女王陛下』の到着まで民を守り続けた自慢の娘だとね」
娘のことを語るハリルは昼の親しみやすさとは違う意味で生き生きしているように見えた。
むしろ、今初めてハリルの本当の姿を見た気がした。
モノクルの奥に見える瞳に、輝かしい光がある。その瞳こそ娘が生きていた頃の本当のハリルなのだろう。
「私達はね、そんな自慢の娘がほんの少しだけ帰ってきたような気がしているんですよ……変な話だと思われるかもしれませんがね」
「えと、私達と娘さん……シャーリーさん? を重ねていると……?」
「ええ。特にベネッタ殿は使用人に付き合って頂いているようで申し訳ありません。娘は使用人達と一緒に服を見るのがとても好きでして……ティノラを筆頭に使用人達もその時の事を思い出しているのか久しぶりに生き生きとしています」
ハリルは入口に控えているティノラをちらっと見る。
ティノラは恥ずかしそうに目を逸らし、こほん、とわざとらしい咳払いを一つした。
「あなた達がここに来た時にね……ただいま、という娘の声を思い出すことができたんですよ。
あなた達にとってはいい気持ちではないかもしれませんが、私達は嬉しく、そして楽しいのです。国は違えど、娘と同じようにこの国を守ろうとする若者がこの屋敷にいることが。娘が生きていた時のような……明日を楽しみにしていた日々を、思い出しているのです」
「明日を……」
「私達はすでに過去を見つめる亡霊と成り果ててしまった。あなた達のように明日に見ることができなくなってしまった……明日を望むことすらできなくなってしまった。
反面……あなたにとっては当たり前の明日があるのでは? だからこうして、明日を奪うかもしれないと考えて私を探りに来た。当たり前の明日を守るためにね」
すとん、とハリルの言葉が心に収まるような気がした。
自分が何を恐れるかと改めて考えて、ベネッタが思い浮かぶのは四人の友人の姿だった。
エルミラがいて、ルクスがいて、ミスティがいて――アルムがいるいつもの日々。
普通となっているその日々を失うことこそが、自分にとっての一番の恐怖かもしれない。
四人を失った明日を迎える事を、想像もしたくない。
「だからこそ、私達はあなた達を送り出すことに全霊を注ぐのです。信用されずとも構いません、いくら疑おうとも構いません。ええ。ええ。私達のやる事は変わりません。
当たり前の明日を守ってくれるあなた達を……無事に送り出す。娘と同じように、この地に住む人々やあなた達自身の明日を守るために戦おうとするあなた達に、私達は最大の敬意を払います」
それが私達の役目なのだと、ハリルは誇らしい顔を浮かべた。
「娘が亡くなって以来、生き恥を晒し続けた甲斐がありました。私達はあなた達のような……本物の"魔法使い"とまた出会えた。娘の面影に、また出会えたのです」
満足そうな表情を浮かべながら、ハリルはベネッタのほうを向く。
その瞳はきっと、ベネッタの向こう側に亡き娘の姿を映しているのだろう。
「私達にはまだ、生きる理由があった」
ハリルはモノクルを大切そうに掛けなおして呟く。
それは前を向くような言葉であったはずなのに、まるで別れの言葉のようだった。
「思い出せたのです。娘が生きていた頃の時間を」
そう言って、ハリルの話は終わりを告げる。
パチパチと、暖炉の薪はいつまでも夜の闇に鳴っていた。




