499.氷解のミュトロギア10
『任務、完了……!』
走るミスティの後ろで、ネロエラの血統魔法が解除される。
エリュテマに変身していたネロエラの魔力はすでに限界となっており、客車を止めたその瞬間、少女が飛び出したのと同時に元の姿に戻っていった。
「お疲れネロエラ!」
肩で息をしながら、足元がおぼつかなくなっているネロエラをフロリアは支える。
フロリアの笑顔を見てネロエラも弱弱しく笑い返した。
四匹のエリュテマ達も走り切った主人の下に集まる。
「ありがとう! ありがとうございます! 皆さん!」
それはここに連れてきてもらったことに対してだけのお礼ではない。
少女は感謝を伝えると、一目散に自分が行くべき場所へと走っていく。
「カエシウス――!?」
進み続ける津波の中で一瞬、ネレイアの動揺の声が走る。
だがすぐにその動揺は沈静した。
この土壇場で到着したのは確かに予想外。しかし、すでに調べはついている。
リィツィーレの血統魔法による悪夢にも反応しなかったのは確認済み。
十中八九カエシウスの血統魔法は機能していない。
使えたとしても、それは力の一端が零れ落ちるくらいにしかならないだろう。
普通の魔法使い相手なら十分なのだろうが……生憎普通とは程遠い。
恐怖に縛られている人間がこの津波を踏破するのはまず不可能。
「丁度いい。逃げられるよりここで死ぬのを見届けたほうが……よっぽど安全じゃないの」
ネレイアはむしろ少女の到着を好機と見た。
わざわざ、自分の天敵が死にに来てくれたのだと。
「アルムっ!!」
少女は町に着くと強化をかけ、一番会いたかった人の名前を呼びながら屋根へと上る。
マナリルを呑み込む津波には目もくれない。
「――ミスティ!?」
少女が一番会いたかった人物はひどく驚いた顔を浮かべて少女の名前を呼んだ。
それも当然。
屋根に上ってきたこの少女は本来、ここにいるはずのない人間だ。
絶対的な敗北の状況で、まさか助けが現れるとは思っていなかった。
アルムらしからぬ思考停止の一瞬は少女の声を全身で受け止めさせ、玉砕覚悟で放とうとしていた魔法の構築を止めさせる。
「ミスティ!?」
「な、なんでここにー!?」
屋根に上り、眼下に見えるエルミラとベネッタを確認して少女は安堵する。
自分は間に合った。いや、間に合わせてもらった。
まだ何も失っていないことを確かめて、少女はアルムに駆け寄った。
「はぁ……はぁ……」
「なんで、ここに……!」
胸の鼓動が普段より高い。
速い呼吸は走ってきたからではなく、緊張から。
驚愕するアルムの表情に珍しさを感じながら、少女はアルムの疑問に答える。
「無理言って……来させてもらっちゃいました」
恐がる自分を隠すように微笑む。
"ねぇミスティ? あなたはやっぱり、一人なのね"
耳元に聞こえる亡霊の声に心臓が跳ねた。
壊してもらったはずの恐怖が再生される。
それは同じ血が流れる姉妹だからこその呪縛。記憶に纏わりつく残滓。
そんなことない、と叫ぶ資格が自分にまだ無いことはわかっていた。
「来させてって……ネロエラとフロリアか……いや、来て貰ってありがたいが、ミスティ……エルミラやベネッタと一緒にカレッラに逃げるんだ。シスターには話を通してある」
アルムは少し動揺しているのか、珍しく手振りが多い。
そんな物珍しい姿を見て、恐怖の声が和らいでいく。
「アルムは……どうされるのですか?」
「俺はここで……あれを少しでも食い止める。あの勢いだと東部を呑み込みかねない。ルクスの家の領に避難した人が集まってるって話だからせめてそこに届かないように威力を弱めないと……だから、俺だけはここに残る」
「それだと……アルムが、死んでしまいます」
「かもしれない……けど、逃げられない。このままだと大勢の人の命が奪われる。人がいなくなればマナリルそのものが終わってしまう。俺には見過ごせない。この国は……俺の大切な人達と出会った国だ。今の俺の世界を作ってくれた国だから」
真っ直ぐな瞳でアルムは言い切る。
夜空よりも深い黒の瞳の中に、少女はようやく向き合うべき答えを見た。
こんなにも近かったのに気付けなかった。
あの日、氷に覆われたトランス城で救われた時にはすでに気付けたはずなのに。
「ああ……なんで、気付けなかったんでしょう……」
少女は憧れた。
物語の中のお姫様に。物語の中の魔法使いに。
少女の母は言った。
お姫様に憧れてはいけない。それはあなたが選ぶべき道じゃないのだと。
そして――アルムは叶えた。
助けられる未来の無かった少女を、魔法使いに助けられるお姫様にした。
けれど、それは決して少女のためだけじゃない。
アルムはあくまで自分のために、誰かを助けている。
人が一人では生きていけないことを、誰よりもわかっている人だから。
捨てられて、夢が壊れて……誰かが手を差し伸べてくれたおかげで今の自分があるのだと知っている。
それは自分の世界を作ってれた、優しい人達との繋がり。その繋がりが一人では届くことのなかった未来に繋がることを誰よりもわかっている。
初めて会った日……迷子に声を掛けただけの少女の優しさを、信じている。
そんな繋がりが、見知らぬ誰かにもきっとあるのだと――
「私も、そうだったのに」
いつからだろう。暗い過去しか見なくなったのは。
愛してくれた両親、尊敬してくれるアスタ、日々を支えてくれる城の使用人達、傍に居続けてくれるラナ。
自分の地位を省みず連れ出してくれたラモーナ、見ず知らずの自分を助けてくれた馬小屋の人達、他国の問題なのに協力してくれたマリツィア、ここまで運んでくれたネロエラにフロリア。
そしてベラルタで出会った大切な友人達。
この場所に至るまでに、色々な人達に助けられている。そうやって繋がっている。
少女の敵が自分自身とはよく言ったものだ。
自分の世界から目を背け恐がり続けている自分こそが、一番大切なものに気付けなかった最大の障害。
少女が恐がっていたのは自分の世界などではなくただの過去。植え付けられただけの記憶。
一人ぼっちの雪原など、少女の世界のどこにもなかった。
「私はもう知っていたんです。グレイシャお姉様に言い放った……アルムの言葉が、答えだった」
だから、向き合うのは自分自身。
嘆くべきは才能でも運命でもなく、自分の弱さ。
今までずっと弱音を積み重ねてきた。寒いと言って震えてきた。
ならば――今度こそ自分は選ばなくてはいけない。
魔法使いにも叶えられない……もう一つの憧れに手を伸ばすために。
「アルム、去年グレイシャお姉様から私を助けてくれたのを覚えていますか?」
「忘れるわけない。俺にとっても特別な出来事だった」
「私にとっても特別な日でした。グレイシャお姉様の真意を知った日。叶うはずのなかった憧れが叶った日。あなたに、助けられた日。あなたの見る優しい世界を、同じ視線で見られた日」
あなたが、かけがえのない特別になった日。
それはまだ言うことができなかった。
少女らしい恥じらいを残しつつ、少女の表情は晴れやかだった。
迫りくる津波。ネレイアの血統魔法。
即ち、この国の終焉。
そんな災害を前に、少女の瞳はただ一人だけを映している。
"目を背けているだけでしょう?"
亡霊の声が決意の邪魔をする。
"あなたはずっと恐がっていた"
心を蝕む呪詛が這う。
"自分の在り方から目を背けてたんだから"
恐怖が消えたわけではない。
過去の記憶が少女の体を重くする。
自分の世界ではないとわかっていても、ずっと見つめていた恐怖は変わらない。
子供の頃からずっと少女を蝕んでいた映像は声とともに鮮明に蘇る。
"あなたの大切な人とやらも……お母様のようにしたいわけ?"
城で眠り続ける母の姿を、アルムに重ねてしまう。
もし唱えたら、自分の手で殺すことになる。
災害の到着を待たずに、自分の大切な人達を手にかけることになる。
そんな辛い結末を迎えるくらいならいっそ――このまま逃げてしまおうか?
「私、逃げませんよ。アルム」
「え……?」
「あなたが、私を助けに来てくれた時のように」
そんな選択肢は有り得ない。もう何をするべきかはわかっている。
もう十分恐がった。何年も立ち止まった。
お姫様にだって、してもらった。
なら、そろそろもう一つに手を伸ばそう。
思い出せ。自分は何に憧れていた――?
「見ていてくださいアルム。あなたが見てくれていたらきっと……恐いものなんてありません」
少女はアルムの手を握って、
「今度は私に――あなたの魔法使いにならせてください」
自分の憧れを口にする。
それはあまりに単純な欲求。
戦い、守り、救い……誰かの世界を守る魔法使いの、貴族の在り方。
自分の選びたかった道と背負うべき責務がぴったりと重なり合う。
何て、遠い回り道。
自分はお姫様に憧れていたけど、魔法使いにも憧れていた。
自分が選びたかった道はとうの昔からわかっていて……幼い頃からの義務感などではないと昔からわかっているはずだった。
こんな当たり前の覚悟をするのに、どれだけの時間がかかったのだろう。
それを気付かせてくれたのは貴族ではなく、誰よりも魔法使いらしい平民の姿。
きっかけは口にするのもおかしくて、単純で馬鹿らしいと笑われるかもしれない。
だってほら……好きな人の前では格好つけたくなるものでしょう?
「できる」
深呼吸して、少女はアルムの手を離す。
亡霊の声はいつの間にか消えていた。
その目はアルムから海のほうへ。
こちらに向かってくる災害を初めて見据え、少女はその先にある悪意に敵意を放つ。
自分の敵はもう、記憶の中にいる姉ではない。
「ミスティ!!」
「エルミラ、ベネッタ……」
友人に名前を呼ばれて少女は眼下に立つ二人を見る。
エルミラは心配そうな表情で、少女に尋ねた。
「いけるの?」
「はい、お任せください」
迷わずに言えたのは成長だろうか。
それともただの始まりだろうか。
どちらにせよ、迷いのないその答えにエルミラの心配そうな表情は消えた。エルミラはにっと笑う。
「あーあ……さっきまで逃げる気だったのになぁ……。ま、いっか! 私が死んだら呪うわよ! ミスティ!!」
「やっちゃえええ! ミスティー!!」
エルミラとベネッタの声が後押しする。
閉じこもっていた少女は扉に手をかけた。
もう選んだ。後は開ける覚悟だけ。
助けたい。最も気の置けない友人達の応援が恐怖を塗り潰していく。
「ミスティ様ー! いっけええええええ!」
「み、ミスティ様……!」
ここまで連れてきてくれたネロエラとフロリアの声が鼓舞する。
報いたい。そんな思いが自分を鼓舞する。
『後は頼んだミスティ』
遠い地から届いたルクスの声を思い出す。
悔やませたくない。危機に向かえなかった無念の声を。
「っ――!」
そこまでいっても、手の震えが止まらない。
唱えるは血統魔法。自分の母親を昏睡させた元凶にして千年の歴史の結晶。
氷漬けになった全員の姿を幻視する。失敗すればそれは幻ではなく現実のものとなる。
自分が最も恐怖する世界の顕現に躊躇いが生まれる。
自分の世界ごと塗りつぶされてしまうのでは、という恐怖が最後の一歩を歩ませない。
「え――?」
その震える手を、隣に立つアルムが握った。
「任せる。ミスティ」
短い信頼の言葉と、確かに伝わる温もり。
守りたい。初めての気持ちを教えてくれたこの人との未来を――。
「――」
そして――少女の記憶は白く輝く花園に辿り着く。
アルムを導き続けた真っ白な魔法使いの最後の時に。
"ミスティ……アルムを、頼む……。重荷になるなら……無視したって構わない。これは私の、我が儘……だ……この子を助けて、やってほしい……"
そう、もうあの時に自分は託されていた。
――応えたい。最後の時までアルムの幸せを思い続けていたその願いに。
「これが、私の世界。ミスティ・トランス・カエシウスの答え」
誰かのために生きている優しい人達を守る場所。
この温もりは決して凍ることはない。確信とともに恐怖は消えていた。自分の在り方はここにある。
繋がる人々から確かに受け取った優しさの欠片を手に、少女――ミスティは扉を開けた。
「――【白姫降臨】」
時は満ちた。
重なる声は祝福の歌。響き渡るは摩天楼の鐘。
千年の歴史を超えて今――王の帰還を世界は謳う。




