498.氷解のミュトロギア9
「予定変更だ。エルミラ、ベネッタ……宿屋で爆睡してるフレンを連れてマットラト邸に戻れ。フレンのご両親を連れてカレッラに。シスターにはもう事情が伝わってるはず……シスターに先導してもらいながら逃げろ」
「!!」
「なっ……!」
ネレイアが起こした津波を睨みつけながら、アルムはエルミラとベネッタに指示を出す。
しかし、その指示の中にアルムは自分を含めていないようだった。
「あ、あんたは……」
「俺はここに残る」
「っ――!」
こみ上げる怒りでエルミラは立ち上がる。
そんなエルミラの雰囲気を察したのか、アルムは自分がどうする気なのかを理由を混ぜながら話し始めた。
「見た感じあの魔法……全体の"現実への影響力"は規格外だが、津波という現象を魔法として扱うことに特化している。恐らく海そのものを細かく操作できる魔法じゃない。津波として進むか、海の壁になるように止まるかってとこだろう」
「それで?」
「俺達の中で飛行できる魔法を持ってるのは俺だけだ。だから俺が【幻魔降臨】で空中戦を仕掛ける。あの血統魔法を止めるんじゃなくて、最初に言った通り、使い手を狙う案でいく。ネレイアを倒せれば津波の勢いはましになるはずだ」
エルミラは呆れたようにため息をつき、きっ、とアルムを睨んだ。
「馬鹿! そんなんあいつに戦う気が無かったら終わりでしょ!!」
「む……それはそうだが……」
エルミラはそのままアルムに詰め寄り、頬を指でぐりぐりと突く。
言い返そうとするアルムを無視し、自分だけ残ろうとするアルムへの怒りのまま頬をぐりぐりし続けた。
「相手は霊脈にこだわる魔法生命じゃない! マナリルに洪水を起こせばいいって考えてるいかれた魔法使いなのよ!? それにあんたはもう入学した時みたいな馬鹿にされてる平民じゃなくて、相手に一番警戒されてる厄介な奴なの! ネレイアが水の人形で一回ここに来たの忘れたの!? あんなあからさまな視察してくるやつがわざわざあんたと戦おうなんて思うわけないじゃない!」
「だ、だが……」
「使い手を倒す案は賛成だったわ。でもそれは相手の魔法がこんな規模だと思わなかったらよ! こんな海ごと突っ込んでくる魔法を前にして、使い手にどう戦いを仕掛けるの!? ん!? ネレイアがあの津波の中にいるとして都合よくあんたを倒すために出てきてくれると思うの!? んん!?」
「そ、それは……」
「自己評価が低いのもいい加減にしなさいよね! あんたを軽く見るやつなんてもうあのボラグルみたいな馬鹿の中の馬鹿貴族くらいしかいないの!!」
「う……うぐぅ……」
エルミラの正論に何も言い返せなくなり、心なしか小さくなるアルム。
アルムの予想自体は正しい。
ネレイアの【命喰む大海の王】はその巨大さゆえに細かいコントロールはできず、自由にその形を変えたりすることはできない血統魔法。
しかし、それはできないのではなくする必要が無いというだけのこと。
その"現実への影響力"は大地を歩く人や馬は勿論、大地に根付く木々すら呑み込み、大地に築いた文明を水底に沈め、今を無に帰す力がある。
エルミラの言う通り……ネレイアはわざわざアルムと戦う必要が無い。彼女の目的に、アルムの死は必要がない。
万人にもたされる恐怖が神話を創造し、ネレイアを神の座へと押し上げる。
そうなれば一人の英傑がいかに抵抗しようとも手遅れになるのだから。
「ベネッタ。念のためネレイアの位置を特定してくれる? 逃げるにしても戦うにしても、あいつの位置は知っておかないと」
「……」
「ベネッタ?」
ベネッタは向かってくる津波を見て、かちかちと歯を鳴らしている。
エルミラの声は届いていない。
「お……おかあさま……」
「ベネッタ! しっかり!!」
堤防に座り込むベネッタの前にエルミラがまわった。
自分の体で視界を遮り、無理矢理津波から目を逸らさせる。
「ごめん……ごめんエルミラ……」
「あんたらしくない! 今までいくらでもやばい奴らと会ってきたでしょ!」
「うん……そう……そうなんだけど……でも……今までは、敵だったから……」
声を震わせて、ベネッタはそう言う。
「あれはもう……敵じゃないよ……」
一切の戦意が消失している声。
相手が戦うべき敵であれば、ベネッタは立ち向かうだろう。震えながらも立ち塞がるだろう。自分がやるべきことを、やるべきだと思ったことをベネッタが放棄することはない。
だが、目の前にあるのは敵と思うにはあまりに酷な災害そのもの。
自然に立ち向かえと言われて、よしと頷ける人間がいるだろうか?
地震と戦え。台風と戦え。そう言われ、戦うという気持ちこそ持てるかもしれないが……実際に対峙し、打倒しようと考える者などいはしない。
それが普通。
それが当たり前。
それが常識。
この場でおかしいのはアルムとエルミラのほうだ。
見渡す限りの海から向かってくる高さ十数メートルにものぼる津波を見て……国を呑み込む規模の災害を目の前にして、戦意を保てるほうがどうかしている。
青ざめた顔で冷や汗をかきながら絶望する――ベネッタの姿こそが、平凡な人間の普通なのだ。
(駄目だ……この精神状態で血統魔法を使えるはずがない……!)
ネレイアの位置が特定できない以上、アルム達には逃げる以外の選択肢が無い。
いや、位置が特定できていても同じかもしれないが特定できないよりはよっぽどいいのは事実だった。
「……なら、あの津波を少しでも吹き飛ばすしかないな」
「え……?」
「はぁ!?」
アルムは真剣な表情で津波を見据える。
戯言のような決意にエルミラとベネッタはアルムのほうを同時に振り返っていた。
全てを破壊するのはまず不可能。明らかに規模が違う。
アルムの創り上げた魔法は本来、対魔法、対魔法使い、対魔獣の三つの用途……自然に対する魔法など当然あるはずもない。
だが、その一端を消し飛ばすことくらいはできるかもしれない。
「【天星魔砲】で出来る限り奴の魔法を削る。そこからは……任せた。カルセシス様に連絡をとって対策を考えてくれ」
「何言ってんのよあんた! 逃げるのよ! 逃げて機会を窺うの! 使い手を倒せるチャンスを探すのよ!!」
エルミラが逃げるよう促すが、さっき言い任された時とは違ってアルムは毅然とした態度で首を横に振る。
「逃げたらマナリルは本当に詰む。あの勢いだとマットラト領はおろか東部のほとんどが一気に持ってかれる。マットラト領から避難したとはいえ、まだ大部分の人達は東部に残ってるんだ。避難先は確かルクスの家の領だろ? 逃げる時間を稼ぐのと……俺に狙いを定めさせるためにもできる限りのことはやらないと」
「だって……だってあれ使ったらあんた動けなくなるじゃない!」
「そ、そうだよー!」
そう、エルミラとベネッタは誰よりも【天星魔砲】を使ったアルムがどうなるかを知っている。
アルムの持つ魔力全てを注いで放たれる対魔法砲撃。
使い手の全身、そして巨大な魔法式そのものを砲台にする大魔法。
生き物としてのストッパーを無視し、過剰魔力を超える魔力量で放たれるその魔法の代償は、魔力を送る管となった自分自身を高濃度の魔力で焼く拷問。
大仰に言えば、魔法使いだけができる自殺そのもの。
「仕方ない。それが今俺のできる限界だ」
「限界だじゃねーわよ! そんなんただの玉砕だわ!!」
エルミラはアルムの胸倉を掴む。
「なら他に手は?」
「っ……! そ、れは……」
しかし、掴んだ手は一気に弱弱しくなった。
さっきとは違い、アルムは全てを承知で代案を出したのだ。
「俺はマナリルを国として残すならこれが最善だと思っている。問題が表面化すれば王都にいる魔法使い達だって本腰を入れるはずだ。ガザスやダブラマだって無視できなくなる。そうなれば可能性が生まれる」
胸倉を掴むエルミラの目を見て、アルムは言う。
「可能性があるのなら、俺は諦めたくない。この国は俺を受け入れてくれたお前らが生きる国だ。俺を俺にしてくれたシスターや師匠がいた国だ。こんな理不尽な結末で……このまま消えてほしくない」
「そんなの、私だって……」
「『強化』」
「ちょ――!」
アルムはその場で強化を使うと跳躍し、近くの宿の屋根の上に乗った。
堤防よりは見晴らしがいい。
ここからなら、一番被害を抑えられそうな場所を狙えるだろう。
津波の到達まで後どのくらいだろうか。
目算だが、スピンクスが予想していた時間よりも少し早い。
「アルム! 待って!」
「あ、アルムくん……!」
「『準備』」
制止する二人の声を受け止めながらも、アルムは自分を投げうる一手を進む。
考えれば考えるほどに、救いが無い。
アルムの案ですら、それは勝算の無い犠牲。
自然災害が悪意を持って動く意味を嫌でもわからされていた。
どれだけ犠牲を払っても……勝てるかどうかもわからない可能性に賭けるだけの時間稼ぎ。
何も浮かばない。
不可能を補強する思考だけが浮かび、希望を探す邪魔をする。生命としての本能すら諦めを誘う。
目の前に見えるのは青き大海。今まで見てきた中で最大規模の血統魔法。
魔法という技術ではまだ及べない圧倒的な神秘。自然という星そのものの力。
人類だけの力で勝利するには数世紀早すぎる。
「なんで、よ……!」
叶えたい夢があった。やりたいことがあった。
そんな人々の願望は、病や事故、災害や金銭など理不尽や不遇を前に閉ざされるのが常ではある。
だからといって、踏みにじられていいわけではない。
ない……はずなのに。
世界は今、青に染まろうとしている。
全ての命を、可能性を閉ざそうとする……原初の魔法使いの手によって。
それに立ち向かわんとする最新でさえ、あれは容赦なく薙ぎ払って進むだろう。
「アルムくん……! 逃げようよ……!」
「できない! あんな奴に、俺の世界を壊させるわけにはいかない!!」
確実にここで一人、自分達の友人が死ぬ。
そんな浮かべたくもない想像が、津波とともに迫ってくる。
今まで全てを乗り越えてきたアルムの姿を見てなお、勝利の絵は浮かばない。
絶望が心を埋めかけたその時――
「アルムっ!!」
――希望の声が世界に鳴り響く。




