497.氷解のミュトロギア8
「マットラト領に入りました! ネロエラ達の足ならあっという間ですよ!」
不安そうな私を鼓舞するかのようにフロリアさんがそう叫ぶ。
私達を乗せた客車は一層速度を増していて、がたがたと揺れていた。
何かに掴まっていないとネロエラさんと四匹のエリュテマ達の熱量に振り落されそうなほどに速い。
窓から見える流れる景色が、まるで別世界のよう。
「ん……?」
フロリアさんが何かに気付いたのか、懐に手を入れます。
取り出したのは通信用の魔石でした。
そういえば、ネロエラさんとフロリアさんのこの部隊はまだカルセシス様が試験用に運用している仮設部隊。いわゆる私兵のような扱いなのでしょう。
であれば、この国では貴重な通信用の魔石を持たせた相手は想像に難くありません。
フロリアさんはすぐに自分の魔力を通して、魔石による通信を始めます。
「こちら魔獣輸送部隊アミクス副隊長フロリア・マーマシーです」
『俺だ。首尾は?』
声の主はやはりカルセシス様でした。
向こうはどうなっているのでしょう?
ラモーナさんは? マリツィアさんは?
ご無事だといいのですが……。
「今マットラト領に入りました」
『ギリギリだな』
「いえ、ネロエラ達なら大丈夫です」
『その言葉が聞けるなら上出来だ。間に合わないという後悔すらできない事態は避けたいからな。……ミスティはそこにいるか?』
「ここにおります陛下」
『そうか。まず、こちらのことは問題ない。手筈通りに進んでいる』
私が聞く前に先手を打たれてしまいました。
具体的にどういう状況なのかをお聞きしたかったのですが……陛下が問題ないと仰ったのならこれ以上追及することは失礼にあたるのでお言葉を信じることにします。
『それよりも、どうしても一言話したい者がいるそうでな。代わるぞ』
急いでいるのか、有無を言わさずカルセシス様の御声が遠くなります。
話したい者、というのが誰なのかは流石の私でもすぐわかりました。
『ミスティ殿』
「はい、ルクスさん」
声の主はやむを得ず王都に置いてきてしまったルクスさんでした。
ラモーナ様が私だけ連れ出せたのは恐らく……誘拐される理由が私のほうが作りやすかったからでしょう。
『やはり僕はそっちには行けそうにない。情けない話だが……ここからみんなの無事を祈ってる』
「……はい」
『みんなに会ったら謝っておいてほしい』
「そんな……謝る必要なんてあるわけありません」
ルクスさんの声は少し震えていました。
悔しいのでしょう……とてもわかります。私も同じ立場であれば何もできない自分に歯痒さを感じていたでしょう。
それに、ルクスさんからすれば自分の領地の危機かもしれないのですから。
『だからミスティど……』
ルクスさんはそこで言葉を止めました。
言い淀むには妙なタイミングだと思っていると、
『いや……後は頼んだミスティ』
魔石から聞こえてくるその声から、ルクスさんの熱が伝わってくるようでした。
呼び方が変わっただけなのに、一歩踏み込んできたとわかったその声には感情が込められていて。
「――勿論です」
私はその声にこの言葉でしか応えてはいけないと思いました。
行って何ができるのかもわからない。
私が何と向き合うべきなのかもわからない。
自分の恐怖もわからない。
それでも、私は何かできる距離にいる。ここまで連れてきてもらっている。
ならば遠い地で歯を食いしばっているルクスさんに、何ができるか不安だ、などと口が裂けても言うべきではないでしょう。
友達の声から熱を貰って、私はアルム達の下へと向かう。
あの声は、私に何かを託した声だった。
「あ……あ……」
「ちくしょう……! こんなの、ふざけんな……!」
マットラト領港町パルダム。
地続きの土地としてはマナリルの最東端のこの町で……ベネッタは顔を真っ青にして堤防の床に崩れ落ちた。
隣ではエルミラも片膝をついて、地面を殴りつけている。
手の甲の痛みや血など気にする余裕のない光景が目の前に広がっている。
海の先には、異常な光景が広がっている。
「使い手がいると……ここまで違うのか」
アルムの顔にも普段の無表情はどこにもない。声こそいつもの調子だが、海をずっと睨みつけている。
遥か遠くに広がる海。
昨日まで水平線だった空との境目。
そこには、昨日までの静かな光景はどこにもなく。
うねり狂う災害が空との境界を侵していた。
「化け物め……! これほどとは――!」
三人が目にしたのは、見渡す限りの水平線を支配する巨大な津波。
見える海の端から端まで全てが盛り上がり、水はうねり、風を巻き込みながらこちらに向かってきている。
それは文明を破壊する災害。人の営みを一蹴する超常現象。
大陸中に洪水を起こすという眉唾を万人に信じさせる――全てを呑み込む海の壁。
「あっはっははははははっははははははは!!! 最初の四柱を避けていると知って甘く見た? 最初の四柱を倒した自分達なら私を止められるとでも思った?」
マナリルに迫る海の壁の中で、ネレイアは哄笑する。
無辜の人々を守りたいというアルム達の意思を嘲笑う。
青く輝くその瞳は驕る愚者を見下すように冷たい。
元よりお前らに資格など無かったのだと、人知を超えた魔法で絶望を見せつけた。
「奴らの伝承には抗いがたい理がある。人は神に罰せられ、神は怪物に踏破され、怪物は人にのみ討たれる。私はそれを警戒したに過ぎない。要は相性よ相性……私が警戒する相手を倒したからといって、それが! どうして! 私を止められる理由になると思ったのかしら!?」
それは未来永劫、自らが神としてこの世界に君臨するための慎重さ。
創り上げた。戦った。殺した。
千年待った。五百年待った。今日まで生き続けた。
神に至り、世界を手中に。
空の向こう側へと旅立つ力をここに。
全ては、見果てぬ夢を叶えるため――!
「さあ、止められるものならどうぞ? 大地を海で洗う血統魔法――【命喰む大海の王】を止められるものならね?」
……現代にまで残される魔法の書物には創始者達の言葉が書かれている。
水属性魔法の書物も例外ではなく、ネレイア・スティクラツはかつてこう刻む。
『水とは望む全てを形にできる最も自由な創造である』
言葉の通り、ネレイアは自らが望むこの世界の終末を血統魔法として形にした。
千五百年前から顕現し続けるその魔法は常世ノ国を守る海の壁から、全てを呑み込む津波へと。
マナリルという一国を呑み込む大蛇の如く突き進む。
さあ、青き王冠に跪け。
これこそは千五百年抱き続けた願望の具現。
最初の八人が魔法に取り込んだ生命が抗えぬもの。
今を生きる魔法使いが対峙するのは――星が生み出す原初の神秘そのものである。




