494.氷解のミュトロギア5
「なに……?」
海の中から五匹の馬が現れたその瞬間、得意気だったネレイアの表情が変わる。
エルミラとベネッタ二人の後方から――白い光がこちらに向かって突っ込んできているのを。
「盾だベネッタ!!」
「――! 『守護の加護』!!」
背後からの声を聞き、ベネッタは咄嗟にエルミラとベネッタ二人を包む防御魔法を唱える。
五匹の水の馬はその防御魔法に水の蹄を叩きつけるが――
「……こっちも蟻じゃなかったか」
「う、ぐうううううう!!」
ネレイアの呟きは壁を破砕するような轟音に消える。
海から駆けてきた五匹の馬の攻撃をベネッタの防御魔法は受け止めた。
ひび割れていく防御魔法は時間稼ぎにしかならないが……欲しかったのはその時間。
エルミラとベネッタの後方から近づいてくる白い光の塊が到達するまでの数秒だった。
「手間かけさせるわね、アルム」
二人の視界の端で、水の馬を引き裂く白い獣の姿があった。
一匹。二匹。三匹。
水の馬がベネッタの防御魔法に手こずるその数秒でそのカタチを引き裂かれていく。
白く輝く爪に水が纏わりつくも、その"現実への影響力"もろとも引き裂いており、水はただの水へと戻って堤防を濡らした。
堤防に着地する白い獣の正体は勿論、別の場所を調査していたアルム。
最初の魔法のぶつかり合いの際に立ち上った蒸気と爆発音を聞き、『幻獣刻印』を使って二人がいる方に急行していた。
「これがアルム……なるほど、噂通りいかれてるわね」
暴走する魔獣を模した『幻獣刻印』で身を包むアルムを見て、ネレイアは無表情でそう評した。先程までの全てを見下すような表情はなくなっている。
創始者は元々、無属性魔法から属性魔法を創りだした魔法使い達。
創始者だからこそわかるアルムの魔法形態を見て、ネレイアはただただアルムに羨望と侮蔑、そして懐旧の入り混じった目を向ける。
アルムはネレイアの出した五匹の馬全てを引き裂くと、ネレイアと対峙した。
「……あんたがネレイア・スティクラツか」
「ええ、初めましてアルム。想像以上に苛立つ姿ね……それに、よく壊れずにいられるわね」
「自分で言うのもなんだが、体は丈夫で健康だぞ」
「あ、そう……九人目がこんな遠い時代に現れるとは予想できなかったわ」
噛み合っているようで噛み合っていない会話を二人は交わす。
特にネレイアはアルムをじっと見続けているが、アルムの中に自分が知っている誰かを見つけようとしているようだった。
「……似てない」
「……?」
「もしかしてと思ったけど……全く似ていない。やっぱりただの平民みたいね」
少しの期待を捨て、ネレイアはアルムから興味を失う。
その魔法形態に元親友の影を見たが……違うと断ずる。
この男の中には血筋も歴史も無い。あるのは夢と憧れだけ。
まるで幻想のような子、という感想と、
「いや……だから九人目になれたのかしら?」
自分達が到達しなかった――到達しようとしなかった場所に辿り着いたことに対して少しの賞賛を送って、ネレイアは今度こそ本当にアルムに何の興味も抱かなくなった。
エルミラやベネッタに抱いていたような敵意や殺意すらも無い。
「何故マナリルを破壊する?」
「スピンクスに聞いたでしょ? 神様になるためよ」
「今を生きている人達より、大事なことなのか」
「天秤が違うのよ。私にとっては測るだけ無駄な存在なの。ワタシにとって今生きている人間なんてどうでもいい。いや、この社会すら憎らしい。何が貴族……何が魔法使い。弱者に使う神秘に私は一片の価値も感じない」
「あんたの目的にはそれ以上の価値があると?」
「だから言ったでしょう? 天秤が違うのよ。それ以上とか以下も無い。私にとって、私の目的以上に大事なものはない」
どれだけ話しても二人が噛み合うことはない。
夢のために生きている同族であるかのようでいて、決定的に違う。
もう話すことはないと、ネレイアはアルムに右手を向けるが――
「悪いな。もうあったまってる」
ネレイアが魔法を唱えるよりも、指でルーン文字を刻むよりも早いアルムの疾走。
白い爪が眼前まで迫るのを見て、ネレイアはくすりと笑う。
「最後にあなたの姿を見れただけ……思い出くらいにはなるかしら」
ネレイアはそう呟いて、そのまま目を閉じた。
まるで攻撃を受け入れるかのような無抵抗の姿勢を見せるが、アルムは容赦なくその白い爪を突き立てる。
「やった!」
「いや……」
その一撃を見てベネッタは喜びの声を上げるが、傍らにいるエルミラは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「――!?」
アルムの白い爪はそのままネレイアの体を引き裂くが……ネレイアの体を引き裂いたアルムの顔には困惑の色が浮かんでいた。
自分の魔法から伝わってくる違和感。
命に突き立てたはずの覚悟と感触がすかされたかのようで、気持ち悪さが全身を駆けていく。
「なん、だこれは……? 手応えがさっきの馬と同じ……?」
ネレイアだったはずの体はアルムの白い爪が突き刺さった瞬間水へと変わり、ばしゃあ、と堤防に崩れ落ちる。
その崩れ落ちた水の中に一瞬、人間を意味する「ᛗ」というルーン文字が刻んであるのをアルムは見た。
そう、ここにいるネレイアはただの分身。
ベネッタの血統魔法で感知できるはずもない。ここにいたのは生命ではなく、ルーン魔術によって遠くから意識を飛ばしているだけの水の人形だったのだから。
『さようならアルム。わかってはいたけれど、あなたとワタシの邂逅には意味が無い。分岐点に立っているのはあなたじゃない。今まで幾度も危機を救ってきたんだろうけれど……あなたでワタシは止められない』
堤防に崩れ落ちた水の中から声が聞こえてくる。
アルム達がこの場にいるのは無駄骨だという嘲笑。
『ワタシを止められる者はここにはいない。残り少ない日の中……精々、薄汚い蟻共が生きる世界で夢だけ見て過ごすといいわ。ああ、でも……お礼だけは言っておくわ。百足と悪鬼を倒してくれてありがとう』
「っ――!」
その言葉に怒りが沸きあがるが、もう水の中にネレイアの気配は無かった。
行き場のない怒りをアルムは沈めて、エルミラとベネッタのほうに視線を送る。
「大丈夫かエルミラ? あ、近付くなよ……?」
念のため、アルムは二人から距離をとる。
『幻獣刻印』は過剰魔力による暴走を再現している魔法。
自分の意思では消えず、魔法に"充填"した魔力が消えるのを待つしかない。
「あんたの魔法の使い勝手の悪さはわかってるわよ……。でも悪いわね、アルム……血統魔法を使おうとも思ったんだけど……」
「いや、よく待ってくれた。魔力を温存しようとしてたんだろ?」
「ええ、対抗できるかはともかく選択肢は持っておきたかったから……なんか変な魔法使われたしね……」
「ベネッタ、エルミラの傷は?」
「う、うん! 慣れてるエルミラの体だし、獣化してたのもあって全然治せるー!」
「悪かったわね、怪我ばかりする女で」
「そういう意味じゃないよー!?」
ベネッタの言う通り、エルミラの傷はすでに痛々しい状態ではなくなっている。
アルムとネレイアのやり取りの間も治癒魔法をかけ続けていたようだった。
「それにしても……自分を止められるものはここにはいないって何か確信を持ってるみたいだったわね……なんでかしら?」
「わからん……」
エルミラの言う通り、ネレイアの言葉は何か確信を持っているかのようだった。
大百足と大嶽丸を倒したアルムを前にして、アルムが何もできないことをわかっているかのような口ぶり。
「ここにはいない……」
アルムはネレイアだった水で濡れた堤防を見て呟く。
「誰かがいるのか……? 最初の四柱のような天敵が……他にいる……?」
その疑問の答えは返ってこない。
もうここにネレイアの意識はなく、アルムは穏やかな海をただ眺めることしかできなかった。
洪水神話の誕生まで――あと三日。
いつも読んでくださってありがとうございます。
感想、誤字報告ともに感謝しかありません。第七部がどういった結末を迎えるのかをお見せできるよう頑張ります。




