493.氷解のミュトロギア4
「へぇ……」
感心の声を零して、ネレイアは目を細めて蒸気の先を見る。
「はぁっ……! はぁっ……!」
「エルミラ……よかった……」
蒸気が霧散して、二人の姿がベネッタからも見えるようになる。
魔法の衝突で堤防は所々が砕け、そこに立つネレイアは余裕そうに佇み、エルミラのほうは息を荒くしている。
「様子見とはいえ、私の水属性魔法を序列が同じ火属性魔法で相殺するなんて……もしかしてあなた、リアメリーの血筋?」
「は……? リアメリーって……火属性創始者のこと? 生憎、そんな高貴な家とは無関係よ痴女野郎……」
よく見れば、ネレイアは一糸纏わぬ姿をしていた。
女性らしさを前面に押し出した裸体に、ドレスのような形をした水だけを纏っている。
水属性創始者が水を纏っている。まるで絵画のモチーフにでもありそうな状態だ。
「ふぅん……」
エルミラの言葉を無視して、ネレイアはエルミラをじっと見続けていた。
値踏みするかのような眼。青く光り続ける深い瞳。
ネレイアはエルミラの器を図るように上から下までを観察する。
一方、エルミラはその間に不意打ちで乱れた息を整え、傷の痛み具合を確認していた。
相殺しきれなかった水の噴射が左腕に当たっている。痛みはするが、十分動かせる範疇だ。
不意打ちによって乱された精神を、魔法を相殺した自信をもって平静に戻していく。
「それでこのレベル、か……訂正してあげる。どうやら蟻じゃなかったみたい」
「そりゃどうも」
ちらっと、ネレイアはベネッタを見る。
ベネッタは視線を送られた瞬間、びくっと体を震わせた。
それを確認すると、ネレイアは興味を失ったのかエルミラのほうに視線を戻す。
「いるのよね、魔法使いは血統魔法だけ使えればいい……なーんて馬鹿なこと考えている蟻以下の凡人が。常世ノ国でも多くて多くて……ワタシ、笑わないようにするのが大変だったわ」
ネレイアは迷いのない攻撃をしたかと思えば、次の攻撃を始めることなくエルミラに話しかけてきた。
明らかに動揺しているエルミラの様子を見れば、そのまま畳みかけるのが普通だろうが……ネレイアは何故かそうしない。
なんにせよエルミラにとってはありがたい展開だ。ただでさえ少ない情報を取得できる上に、早くなっている鼓動も落ち着かせられる。
「……汎用魔法すら満足に使えないやつが、血統魔法を満足に使えるはずないでしょ」
「そう。そうそうそう! 自分の現実をカタチにするっていうのがどれほど難しいかをわかっていない。現実の定義を捕食せずに、自分がカタチにできる武器を増やさないで自分の現実だけを広げればいいだなんて……どうやって広げようとしているのかって思わない?
だから、血統魔法が何の変化も無く後世に残る。発展が遅れる。衰退に向かう。自分から可能性を潰している。才能っていうのは磨き上げるためにあるっていうのがわかっていない蟻が多すぎる」
話しながら、ネレイアはエルミラを指差した。
「けれど、あなたは違う。蟻じゃない。五年後が楽しみな腕だけど、残念……もうすぐこの社会終わっちゃうから諦めてもらわないと」
「はっ……! ここであんたを倒せば問題なく続くけど?」
「あははははは! それは無理よ……確かにあなたは悪くないけど、火属性で挑むなんて無謀だわ。ワタシ……ネレイア・スティクラツに挑むなんてね」
「『強化』!!」
指を差していただけの右手が広がり、エルミラに手の平が向けられる。
エルミラは咄嗟に無属性の強化を唱えると、そのまま後ろに飛びのいた。
「『水槍』」
放たれたのは下位の攻撃魔法。
属性を定着させてすぐに習うような簡単な魔法だが――
「っぐ――!」
「お、大きい……!」
水で作られた槍は巨人の扱う大きさであるかのように巨大で下位魔法の範疇にない。
大きさだけでなく、発揮される"現実への影響力"も桁違いで、堤防に突き刺さりその場所をそのまま砕いた。
砕かれた堤防の破片が石の弾丸となって飛びのいたエルミラを襲う。
創始者が使えば下位の魔法でも必殺になるのかとエルミラは戦慄した。
「『炎熱魂』!」
それを見てエルミラは再び強化を唱える。
魔法の維持時間を削って"現実への影響力"を底上げする強化の魔法。
相性は最悪。そして今の魔法を見れば腕が一流なのは疑う余地もない。
ならばまずは拮抗できる段階にまで魔法を引き上げねばならない!
「そもそも、ワタシが相手ってわかっているのに火属性の使い手を送るって……今のマナリルって蟻より馬鹿なの?」
「そこについては同意見! 『火蜥蜴の剣』!」
エルミラが放つは炎の剣。普通に唱えるよりも威力が上がっている。
その剣をネレイア向けて放つが、水を纏っている体を狙うのはリスクが高い。
首から上を狙い、容赦なく魔法を放つ。
「『海の抱擁』」
「!!」
勢いよく放たれた魔法はそのまま、ネレイアの前に現れた水の球体に吸い込まれた。
燃え盛る火は煙を立てて消え、残った剣も溶けるように消えていく。
「腕はいい。狙いも考えている。物怖じせずに魔法を唱えているのは……魔法生命との交戦経験があるからかしら?」
「『不可侵無き炎猫』」
「ほんっと、反吐が出そうなほどの腕をしているわ」
生半可な攻撃は意味がないとエルミラは上位の獣化を唱えた。
燃え上がる魔力がエルミラを包み、炎は逆立つ毛皮のように激しくなる。
そんなエルミラを見てもなお、ネレイアは余裕の表情を保ったまま。
使い手の筋肉すら酷使するスピードでエルミラは地を蹴り、焦げる地面を残してネレイアの目の前から消えた。
その速度は強化していなければ反応できない。
(首から上を――!)
手に纏うは炎の爪。
その命を奪うべく、最速最短に。魔法を唱える暇すら与えないようにエルミラはネレイアの首を狙う。
その刹那――エルミラは見た。
ネレイアが指をついっ、と動かして……空中に「ᚦ」という白い文字が固定されたように書かれたのを。
その白い文字が青く染まった瞬間――それは起こった。
「なっ――!?」
エルミラの前に突如現れる水の茨。
ネレイアを包み込むように出現したそれを前にエルミラは止まれない。
炎の爪を纏った右腕で、ネレイアの首を狩らんとした一撃が現れた茨に向かって放たれた。
「か……! っあああああ!!」
「あらあら……痛そう」
攻撃した腕に容赦なく突き立てられる水の棘。
腕中をナイフで裂かれたかのようにエルミラの腕は傷つき、右腕を震わせながら引っ込める。
ネレイアはその様子を眺めながら、茨の隙間からくすくすと笑う。
「エルミラ!」
「な……んで……! 魔法、唱えて……なかったのに……!」
痛みで腕を押さえるエルミラにベネッタがたまらず駆け寄る。
エルミラの言う通り、ネレイアは確かに何も唱えてなかった。
相手の口元を観察するのは魔法使いの戦いの常識。たとえ高速で移動したとしてもネレイアの口からは目を離していない。あらかじめ唱えておいたにしては出現が唐突すぎる。
自分の記憶に確信を持っているからこそ、エルミラの混乱が加速してしまう。
「スピンクスに聞いてなぁい? ワタシが魔法生命の核を食べたって」
エルミラが腕を治癒されるのも見て……いや、エルミラの苦悶の表情を見てネレイアは上機嫌となっていたようだった。
何故か追撃もしようとしてこない。畳みかける絶好のチャンスだというのに。
そんな不自然なほどの余裕がネレイアにはあった。
エルミラはベネッタにアイコンタクトで血統魔法に映っているかどうかを確認するが、ベネッタは首を横に振る。
「魔法生命の記憶や記録っていうのはね、宿主に共有されたりもするの……それと同じことをワタシはしただけ。ワタシは食べた魔法生命の核から異界の情報を仕入れたの……。ワタシが今日まで生きてきたのも、その魔法生命の知識で異界の神話を知ったから。つまり、ワタシには中途半端ながらも魔法生命の核を通じて異界の知識があるってこと」
それがさっきの現象とどう繋がるのかがまだ二人には理解できない。
ネレイアは二人を見下したような目で、
「ワタシが魔法の創始者なのは、知っているのでしょう? ワタシって魔法を完成させた凄い八人の一人なの」
そう問いかける。
何を今更と二人は思うが……次の言葉を聞いて絶句する。
「なら異界の魔法を知識として知ったのなら……習得できてもおかしくはないとは思わない?」
「――!!」
再びネレイアは指でついっ、と何もない場所をなぞって文字を書いた。
「ルーン魔術って言うそうよ?」
空中に固定されるその文字は「ᛖ」の文字。
こことは違う異界においてルーン文字と呼ばれる文字の一つにして、ルーン魔術の発動の要。
先程の水の茨も「ᚦ」という茨を意味する文字をネレイアが刻んだからこそ起きた……この世界の魔法とは似て非なる超常現象。
白い「ᛖ」の文字が青く染まると、海のほうから――有り得るはずのない嘶きが轟いた。
「さあ、頑張って魔法使いさん。ワタシを止めないといけないんでしょう?」
海から飛び出してきたのは水で生きるはずもない馬。馬。馬――!
二人を蹂躙すべく現れたのは水で作られた五匹の馬。
自分達を踏み潰そうとしてくる馬の影の中で、ネレイアが刻んだ「ᛖ」の文字の意味が馬であることを、エルミラとベネッタは知ることとなった。




