492.氷解のミュトロギア3
「わかってはいたけど……なんもおかしなところはないわね」
桟橋から海を覗いて、エルミラは呟いた。
海面を反射する日の光がきらきらと光り、普段香ることのない潮の匂いが鼻孔をくすぐる。港に泊まる舟が揺れる光景も相まって、普段見ることのない新鮮な光景だった。
エルミラは海に来るのが初めてなため、こんな状況でなければテンションの一つも上がるだろうが……流石にそんな余裕はない。
「むしろ、人がいないことがおかしいくらいだよねー……」
「店も多いし、普段は賑わってるんでしょうね」
マットラト領に着き、マットラト家の邸宅を訪問したアルム達は港町に到着してすぐに宿屋を借りて休みを取り、その翌日から異変がないかの調査を開始した。
今はアルムとフレン、エルミラとベネッタの二組に別れ、マットラト領の港町パルダムから海の方角を調べている。
しかし、エルミラの目から見て海に何もおかしなところはない。
穏やかに水面は揺れ、時折吹いてくる潮風は髪をなびかせる。桟橋に泊まる舟を見る限り、水位も上がっているような様子はない。水平線まで見渡しても、空を飛ぶ鳥のほうに目がいくくらいだ。
「海初めてだったのになー……こんな形で来るなんて思わなかったよー」
「あんたも初めてなのね。北部って海産物があるイメージだけど」
「北部の北西のほうに行けばミュール海があるけどー……ボクの家とは縁が無かったかな、蟹は好きだけどー」
「蟹?」
「食べたことない? 蟹?」
ベネッタが聞くと、エルミラは何故か眉をひそめる。
「なんか……見た目が虫みたいで抵抗あるっていうか……」
「えー! 今度食べに行こうよー! おいしいからー!」
「まぁ、あんたが言うならいいけどさ……本当においしいのあれ?」
「おいしいよー! ボクを信じてー」
ベネッタは得意気に胸を張るが、エルミラのほうは信用していないのか微妙な表情を浮かべていた。
二人は桟橋から戻り、石を積み上げて作られた堤防のほうに上がる。
舟に乗って少し様子を見るという方法もあるが、海上で何が起こるかわからない以上、そんなリスクは背負えない。
ただでさえ取れる手段が少ない中、自ら人数まで減らしにいくなどそれこそ馬鹿らしい。
「ベネッタ、眼は?」
「特に見えないねー……」
ベネッタの眼はすでに血統魔法【魔握の銀瞳】の発動によって銀色に輝いている。
銀色の瞳がきょろきょろと動くも、ベネッタの眼に映るのは自分以外の三人の魔力だけである。
「町に潜伏してる可能性はなし……浅瀬に潜んでる可能性もないか……」
エルミラはつい舌打ちする。
使い手が近辺に潜んでいるようであれば先手をとって奇襲を仕掛けられるのだが、流石にそう甘くはない。
王都からの移動時間もあってスピンクスが言っていた日までは後三日ほど。近辺に潜んでいないのだとすれば今はこちらに移動してきているのだろうか。
「ベネッタ、魔力きついかもしれないけど……しばらく維持できる?」
「ふっふーん……これでもボクも成長してるんだよエルミラ? 周りを見るだけなら全然平気だよー」
「ふふ、頼もしいわね」
とはいえ、後三日間、ずっと維持し続けてもらうわけにはいかない。
一先ずは町の端から端まで見てもらってから休憩させたほうがいいだろうと、エルミラはベネッタのペース配分を頭に入れておく。
スピンクスが示した日は特に、最後の手段である使い手の撃破のためにはベネッタの力がいる。使い手の場所がわからなければ撃破も何もあったものではない。
アルムは当然として、エルミラも感知魔法に関してはさっぱりなのである。
「宮廷魔法使いが一人くらい来てくれればなぁ……」
自分で言っていて苛立ってきたので、エルミラは振り払うようにぶんぶんと頭を横に振る。
自分達のされた仕打ちはともかく、宮廷魔法使いは例外なく広範囲かつオリジナルの感知魔法を持つ魔法使い集団。
一人くらい来れば索敵の余裕は生まれたのに、と現状の人員不足にため息をつく。
フレンは戦力には数えられない。ベネッタはフレンよりは戦えるだろうが、基本的には補助的役割だ。さらに属性の相性で自分すら戦力になるかもわからない不安定さ。
いくら考えても、現状ではほぼアルム頼りにならざるを得ない。
「あんな馬鹿がなんで宮廷魔法使い筆頭なのよ……」
「馬鹿ってボラグルさんー?」
「わかってるじゃない……馬鹿が馬鹿みたいな命令言ってあんなぶくぶく肥えてるなんてふざけてるわよね、これだから金持ちの上級貴族ってしょうもないのよ!」
「駄目だよエルミラそんな事言ったら……上級貴族が悪いんじゃなくて、あの人が悪いんだよー」
ベネッタに正論を説かれ、口をつぐむエルミラ。
いくらでも出てきそうな愚痴がベネッタの真面目な顔に喉奥まで引っ込んだ。
「う……それは、そうね……」
「言いたくなる気持ちもわかるけどねー……国防に関しては宮廷魔法使いが一任される、って言ってたけど、それならなおさら今回のことって宮廷魔法使い案件じゃないのかな、とかー」
「珍しいわね、あんたもそういう愚痴言うんだ?」
「そりゃこんなんいくらなんでもおかしいもんー……というか、あの魔法生命の人の情報信じてないんじゃないかなー……信じてたらこんなおかしな命令しないよねー」
「でしょうね……ミスティとルクスを王都に残したことといい、いざとなったら対処できる案件くらいにしか思ってないんでしょ。なんたって魔法大国マナリルだもの」
ベラルタ魔法学院の方針……魔法使いにひたすら経験を積ませるということがいかに大事かがこんなとこでもよくわかる。
王城に引きこもり続け、脅威や危機を正しく受け止められなくなった魔法使いの命令の結果が今のエルミラ達の状況だ。
「……文句言ってても仕方ないわね」
「だねー」
不満ばかりを溜め込んだ精神状態が万全であるはずがない。
三日後に訪れるかもしれない創始者との戦いのためにも、今は普段のような精神状態にしておかなければ。
わき上がっていた苛立ちを外に出すように、大きく息を吐きだす。
あんな自分達が目指すのとは違う魔法使い像のことを考えているよりも、終わった後に何をするかを考えたほうが士気もあがるというものだ。
海を眺めながら、二人はゆっくりと堤防の上を歩いていく。
「じゃあこれ終わったらベネッタに蟹ご馳走してもらうかー……」
「え!? いつの間にボクの奢りにー!?」
「あはは、冗談よ冗談……この町では蟹とかとれないのかしらね?」
「どうだろー……? とれたらもっと有名になってるんじゃないかなー? それに蟹だったらなんでもいいってわけでもないからねー」
しばらく歩いて、町の風景は変わっても海の様子は変わらない。
広大な不変を前にして、時間がゆっくりに感じられる。
これもまた自然の効力というやつだろうか。それとも人々の喧騒が無いからだろうか。
「後でフレンに聞いてみようか?」
「知ってるかなー?」
「そりゃ自分とこの領なんだし、ある程度は――」
ぱしゃん、と水面を跳ねた音がした。
「知って……ないと……」
魚かな? と思わせる海という広大な自然にあって当然の音。
日の光で煌めく水面のような、
海の上を飛ぶ鳥の鳴き声のような、
自然の中にある音だと思って疑わなかった。
その音を立てた何かが……二人の歩く堤防のところまで跳ねてくるまでは。
「ああ、なんて久しぶり」
海を眺めていたエルミラはその視界の端で見た。
ぱしゃん、という跳ねる音とともに堤防の下から美しく跳ねてきた人間の姿を。
遊泳の延長のような海からの自然な跳躍。あまりにも流麗なその姿は物語の中にいる人魚を思わせる。
水に濡れていると思わせない、水を纏っていると評すべき姿。
その人魚のような何者かもまた、エルミラとベネッタのほうに気付く。
「あら……? 思ったより早いのね?」
「――」
今見ていた海よりも青い髪。そして海を内包するかのように青く輝く瞳。
細胞が信号を放つ。
本能が理解を強制する。
理性が悪寒で浸食される。
不変に緩みかけていた体が、突如として現れた異変を前に声すらあげられない一瞬の硬直をエルミラにもたらした。
本能の理解が電気信号の速度を経て思考に到達する。
この女が、この人間が――水属性創始者ネレイア・スティクラツであると――!
「え……?」
「なめられたものね……まさか、二匹の蟻で私を止めようなんて」
ネレイアが右手を二人に向けたところで、ベネッタがようやく気付く。
反応できないのも当然。その銀の瞳にはネレイアは映っていない。
突如現れた女の一挙一動をベネッタはただ見届けることしかできない。
意識の硬直が、反撃も防御も許さない――
(まずいっ――!)
「っは……!」
一瞬早く反応できたエルミラが咄嗟にベネッタを蹴り飛ばす。
力加減など考えず、犠牲者の数を減らすことだけに全神経を集中させた。
「あら偉い」
その判断の速さへの賞賛か嘲笑か、ネレイアはくすりと笑う。
「『水竜の咆哮』」
「『炎竜の息』!!」
その笑いがあってもネレイアのが一手早い。
唱える魔法は共に中位の攻撃魔法。
ネレイアの背後から放たれる水の噴出がエルミラの拳から放たれた火柱とぶつかり合う。
消火と蒸発、そして魔法の衝突による爆発で辺りを霧のような蒸気が包んだ。
「え……エルミラぁ!!」
一瞬見えたエルミラが水に呑まれる姿を目に焼きつけながらも……ベネッタは蹴り飛ばされた先で友人の名前を呼ぶしかなかった。




