51.侵攻7
「な……んだ……?」
ルホルは辺りを見渡す。
辺りの光景は先程までとまるで違うものへと変わっていた。
「"転移……魔法"……?」
自信無さげに自らの予想を口にする。
その口からは白い息。
森の中は確かに少し肌寒かった。
だが、季節はもう春だ。
息が白くなるほどの冷え込みがこの地に残っているはずがない。
こんな光景が自分の治める領地にあるはずがない。
また、地響きが一つ鳴った。
山の巨人が一歩進む音。
もう山からかなりの距離があるせいか揺れは小さく、先程よりも更に一歩踏み出すまでの間隔が短くなっている。
山の巨人はもうすぐ本格的に動き始めるだろう。
だが、今はそんな事よりも気にするべき事態が目の前にある。
「氷……?」
ルホルの視界に広がっていたのは、口にしたとおり氷だった。
葉は瑞々しいまま、木々は標本のように、地はその役目を譲り。
周囲にある全てのものが氷の中に閉じ込められていた。
剃刀のように肌を裂く冷気がこれが幻覚などではない事を突きつける。
例え冬になったとしてもこんな光景を見ることはできないだろう。
氷の中にいないのは動かないミスティにシンシア、そして自分だけ。
残酷なまでに美しい世界が目の前にあった。
「一体これは……ひっ!」
ルホルは足下の異変に気付く。
その足に、氷が這い上がってきたのだ。
痛みもなく、冷たさもない。すでに足が麻痺しているのかと思うほどに何も感じない。
まるで凍ったという事実だけがそこにあるかのように。
「氷漬けにするのはせめてもの慈悲です」
これが慈悲?
足から死が迫りくるこの状態が慈悲と言ったか。
ルホルにはどうすることもできない。
氷を割る力も無ければ魔力も無い。
いや、例え魔力があったとしてもこの状況を打開するのは不可能だ。
「い……いや……だ……!」
氷はやがて腰、胸、そして顔へと。
自分が周りにある氷の標本達と同じになる過程をその目で見ながら小さく最後の呻き声を上げる。
魔法を唱える余裕も無く。
その氷はルホルの全身を包み込んだ。
あまりにあっさりとした結末。
シンシアは氷漬けになった主人を見てただ立ち尽くす。
何か抵抗する余地すら無く、シンシアの目の前で主人は氷の像となった。
「痛みも無く眠りなさい。国賊には勿体ない結末です」
こうして、氷の世界でこの戦いは決着した。
この世界こそカエシウス家の血統魔法。
使い手が氷を支配する世界。その顕現。
周囲にある世界を差し置き、自身の世界を創り上げる。
魔法の力を決める現実への影響力。それを極めた魔法の一つだった。
「……続けますか?」
問いは主人の凍った人造人形へ。
ルホルの宣言通り、ルホルが敗北してもシンシアはそこに在り続ける。
とはいえ、シンシアはすでに詰んでいる。
主人を助け出そうにも氷を砕けば主人ごと砕いてしまいそうな状況。
そしてこの世界で戦ってもシンシアに勝ち目はない。
何のモーションも無く主人は凍った。シンシアの反応が遅れたのはその為だ。
やろうと思えば当然ミスティはシンシアをルホルのように凍らせることが出来る。
魔力がほとんど枯渇していたルホルのようにあっさりとはいかないものの、結果は恐らく変わらない自信がミスティにはあった。
それを今すぐしないのは、ミスティがシンシアを自我のある一人の民として認識していた為だった。
「続けるのならば、私はそれでも構いません」
今ままでシンシアが戦っていたのはあくまで主人の意思があればこそ。
主人が敗北した今どう動くのかを見極める為、ミスティは目の前にいる人造人形で、血統魔法の女性に問いかけた。
だが、これは優しさなどではない。
主人の仇討ちと向かってくるようなら当然主人と一緒の結末を辿らせる。
あくまでただの確認だった。
『ミスティ様、お願いがございます』
シンシアはミスティのほうに振り向いた。
ミスティはその声に答える。
「はい」
ミスティが返事をするとシンシアは、
『どうか、プラホン様の命だけは助けて頂けないでしょうか?』
深々と、ミスティに頭を下げた。
その願いにミスティは驚く様子は無い。
ミスティは意思のある人造人形を見たのは初めてだが、もし意思があるのなら主人の命を優先するだろうと予想は立てていた。
「それがあなたの決断でしょうか?」
『はい、主人の命はあらゆる物事より優先されます』
「主人の勝利よりもですか? あなたが私に勝てば、主人の命は無くとも勝利をもぎ取ることはできるでしょう」
『当然でございます。主人の命を庇護し続ける。それこそがプラホン家に生み出された人造人形としての務め。
それに比べれば主人の勝利など、錆びたカトラリーよりも無価値でございます』
「そ、そうですか……」
そこまで言うのはどうか、とミスティは思ったが、何にせよシンシアの決断を聞けた。
「わかりました、あなたがこれ以上こちらに危害を加えないというのならあなたの主人の命は助けましょう」
『ありがとうございます。寛大な処遇に感謝致します』
「あなたが危害を加えない証拠を頂きたいのですが……元いた場所に帰還する、もしくは自身の核の魔力を停止させるなどはできますでしょうか?」
『帰還することができます、が……差し出がましいお願いをするようで申し訳ないのですが、プラホン様の安全をこの目で確認させて頂けないでしょうか?』
シンシアは俯き、少し声量が小さくなりながらミスティに乞う。
「……確かに、私が一方的に条件を出せる立場とはいえ、あなたからすればこのまま帰還するのは不安でしょうね」
どうしたものかと、折衷案をひねり出そうとするミスティ。
すると意を決したようにシンシアは顔を上げた。
『では、私の弱みを持っていてくださいませ』
「弱み……ですか?」
『はい、私には主人にだけは明かせない秘密がございます。主人を生かしてくださるというのならそれをあなただけに明かして枷としましょう』
シンシアはそう言ってミスティからの返答を待つ。
主人に明かせない秘密とは一体なんだろうか。
人造人形なのだから主人が知らないことはそうそうないはず……。
とはいえ、目の前にいるのは自身の意思で動く例外の人造人形。血統魔法だ。
それに主人の命が握られているこの状況で嘘をいうとも思えない。
その場凌ぎにしてももう少し違う提案があるはずだ。
冷静になると、ミスティの魔法使いの血が少し疼く。
人造人形が主人に明かせない秘密とは一体何なのかを少し気になり始めていた。
「いいでしょう。あなたの主人への忠義を持って命だけは保証します。国にも私が口添えしましょう」
ミスティの言葉を聞くと、シンシアは安心したように微笑んだ。
「ありがとうございます」
「礼を言う必要などございません。あなたの――」
変化に気付き、ミスティの目が思わず見開く。
視線の先には変わらず主人に寄りそう一体の人造人形。
だが、違うことが一つ。
見た目ではない変化が今あった。
そう、その人造人形――シンシアの声が――!
「あ……なた……」
「これが私の秘密でございます」
鈴を転がすような声とはまさにこの事か。
先程までの、人間とは明らかに違っていたくぐもったような声とはまるで違う。
精巧なガラス細工のような美しい声。
唯一人間のものとは違う、そして人間ではないとミスティが判断できていたその声が今、人間と変わらぬ形で響いていた。
「何故……?」
声を変えているのか。
それを聞かれるのは当然だと本人も理解しているようで、最後まで言わずともミスティの聞きたい事はシンシアには伝わった。
「こうでもしないと……人だと思われてしまうではありませんか」
シンシアは続ける。
「私は元々戦闘の為に創られた魔法ではありません。初代プラホン様は私という人造人形に最愛の女性の姿を思い描いて私を作られました。
それがどういう事か……生まれた瞬間に私は気付いたのです」
それだけで初代プラホンが何を望んでシンシアを生み出したのかがミスティにもわかる。
何があったのかはわからない。
だが、そんなことをした理由は想像がつく。
理想の女性とはもう会うことの無い想い人の事だったのだろう。
叶わぬ恋か、はたまた死別か。
どちらにせよ、初代プラホンは魔法に愛という夢を見たのだ。
幻を現実へと変えるその奇跡に。
「私はプラホン家に生み出された血統魔法……ならば、万が一にでも私が愛を受け取るわけにはいきません」
最愛の女性の再現。
シンシアの姿は使用人の女性そのものだ。それに加えて十分すぎるほどの美貌を持っている。
例え代が変わろうとも、シンシアを創り上げた初代プラホンのように愛を持つ者がいるかもしれない。
だが、それは一族の存続を危ぶむ。
どれだけ人間に近くともシンシアは人造人形。
次代となる子を残せぬ存在だ。
だからこそ……万が一、一途にシンシアを思う主人が生まれてしまったら?
「どれだけ人間に近く創られたとしても、私は人造人形で人間ではありません。
だから、私が人造人形なのだと主人にわかっていただくために声を変えるのです。正されてもずっと家名を呼び続けるのです。どんなに精巧に作られていても、人間ではないのだと、特別な感情など持たないのだとわかっていただくために」
「シンシアさん……」
血統魔法を継げる子がいなければ魔法使いの家は滅びる。
ゆえに、シンシアは主人を騙す道を選んだ。
ただひたすらに、主人に愛されない為に。
人造人形であることを選び続けた人間の告白にミスティはそれ以上声が出ない。
誰が目の前の女性を人造人形だと、生きていない物だと思うだろうか。
それは紛れも無く、愛を持った人間の献身だった。
「……約束でしたね」
話を聞き終わったミスティは約束通り魔法を解除する。
ミスティの声一つで何事も無かったように氷の世界は消え去った。
葉も木々も地も、凍る前と何も変わらないまま。
氷漬けにされていたルホルの氷も解ける。
立ったまま氷漬けにされ、意識の無くなったその体を傍に居続けていたシンシアは優しく受け止めた。
シンシアは服の汚れも厭わず地面に座り、その頭を膝に乗せる。
主人が確かに生きている事を確認して、その人造人形は微笑んだ。
「――ルホル様。どうかこの声がお耳に入らぬよう、願っております」
そっと膝に乗る頭を撫で、意識の無い主人の名をその声で呼ぶ。
果たしてその願いは真実なのか。
彼女の胸中はわからない。
その表情は愛しいような、悲しいような感情を含んでいた。
ミスティとルホルの戦闘は時間にして三十分ほど。
山の巨人はその間に魔力を宿し、本格的にベラルタへと動き出した。